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(回答先: Re: 「生きる意味」 投稿者 BBマーク 日時 2005 年 10 月 27 日 18:01:28)
BBマークさん、考え方の違いが明瞭になってきたと思いますので、やり取りをそろそろ終息させたいと思います。
>生きていて思念できる状況で、死んで思念できなくなる状況を考えることはできても、>把握することは不可能だと思います。それは“無”を知る、知っているということに
>も似ておかしなものです。
人の想像力(=思考力)はそれほど異様なものだと思っています(微笑)。
歴史も把握することは不可能です。(遺跡は過去のものではなく現在のものです)
宇宙の外なぞない(把握できない)のに、宇宙論は膨張説などそれを含意したものになっています。(そのために宇宙が特殊な曲面で覆われているような話も出てきます)
“無”という言葉(=概念)が存在すること自体が人の想像力の“異様さ”を示すものです。
人は夢想し、ときには夢想(想像・思考)の内容をリアルなものと感じ、狂喜したり畏怖したりするものなのではないでしょうか。
>また、「今を楽しんで生きていきたい」というのは、それは不満が出発点になってお
>り、「今は楽しくはない」というのが根底にあるはずです。
そんなことはありませんよ。
今をそれなりに楽しんでいます。
もっと楽しく生きていける世の中を願ってはいますが...
>それは、「今を楽しんで生きている」のではなく、退屈などの「苦痛を回避するため
>に生きている」ということにはなりませんでしょうか?「楽しむ」すら、限度を超え
>ると「苦痛」に変わります。
退屈は、とても贅沢なことだと思っています。
退屈を楽しむこともあれば、退屈に嫌気を覚えて何かをやって楽しむこともある、というものです。
>「苦痛すらも楽しんでいる」という人もいるかもしれませんが、それは方便であって、
>やはり苦痛の後に、快楽や幸福が来ることを願うからで、苦痛そのものを楽しんでい
>るわけではないと思っております。
苦痛を楽しむ人なら、それは苦痛でなく快楽です。
他の多くの人が苦痛と思うことを快楽と思う人もいないわけではないと思っています
>まっ、人それぞれですけど、「なぜ、そうまでして生きる?」と、俺はふと考えてし
>まいます。
>そして、死後の世界や、輪廻転生なんて聞かされて、「君達は“死ぬ”事もできない
>んだよ。さあ生きるのだ。楽しみはいっぱいある。飽きたら次の世界を体験できるぞ。
>しかし楽しみ過ぎてもいけない。楽しみをやめてもいけない。セカセカと動き回るの
>だ。そして色々な思念を生み出すのだ。」なんて具合に。それはどこか、人間が家畜
>のニワトリに言ってあげているような感じのように。さらに家畜よりたちの悪いのは、
>それがいつ終わるともない永遠に起こる現象だと思うと少しゾッとします。
そうまでして生きるているわけではなく、「どう抗ってもどうせいつかは死ぬのだから、自ら死のうとしないだけ」という人もけっこういるのではないでしょうか。
仏教的には仏となって輪廻転生から抜け出すことが悟りの目的でもあるわけですから、永遠の輪廻転生をよしとしているわけではありません。
畜生に生まれ変わっても、地獄に落ちても“自分”として生き続けたいと思う人もいるかもしれませんね(笑)。
もちろん自分なりの「生きる意味」を創作したり、神や哲学者やチャネラーや宇宙人等々にそれらを与えられたりなんかして楽観的に「生きていく」ことは可能なのでしょうが、それすらも少し違和感を感じてしまいます。
そして俺は達観せずに、ただ楽観的にこの状況を受け入れ妥協して「生きていく」ということは、無理なのではないだろうかとさえ、少し思ってしまいます。
>「生きる意味を見つけなさい」にしろ、「意味なく生きていても価値がない」にしろ、
>何かしら「生きることには意味がある」と思っているから出る言葉ではないでしょう
>か?
>もし「生きることに意味はない」又は「わからない」と心底判断しているなら、上記
>言葉すらも起こらないと思っております。
超越神的宗教観念よりも近代的な価値観のほうが強いようですから、「生きることの意味」を無媒介的に持ち出すひとより、進化の頂点にいる人間なのだからのんべりだらりと生きるのではなく目的意識を持って生きなさいという脈絡で持ち出すひとのほうが多いと思っています。
一人ひとりが見い出す以前に存在する「生きる意味」はないと思っている人のほうが多いと推察します。
>「ただ生きている」ことが、どういう意味があるのかも、主観的にしかこじつけるこ
>としかできず、ほんとうのところはわからないままのはずです。
どのようなことに関する意味であっても主観的なものでしかありませんから、ほんとうもなにもありません。
>また、「ただ生きる」と簡単に言われますが、「ただ生きる」ということは、俺や
>あっしらさんにできるのでしょうか?
生きていることそのものが意味があると言っているのであって、ただのんべりだらりと生きることに意味があると言っているわけではありません。
人としてこの世に存在していることだけで十分に意味があると考えています。
それ以上の意味や生き方は人それぞれが考えることだと思っています、
「ただ生きる」ということが本当にできるのなら俺は何も迷わなかったでしょう。
「ただ生きる」の“ただ”とは、完全な無目的によって初めて実現するのではないでしょうか?
>ただそれは、「自分が勝手に創り上げた(というよりも環境等に創り出された)生き
>る意味ですよ」と言っているのです。
生きることに限らず、人の考え方を鵜呑みにすることも、「自分が勝手に創り上げた意味(判断)」です。
自分の感性・思念の他に意味ある存在はないと考えています。