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Re: 「生きる意味」
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投稿者 BBマーク 日時 2005 年 10 月 27 日 18:01:28: Nk.3rfti3Zsak
 

(回答先: Re: 「生きる意味」 投稿者 あっしら 日時 2005 年 10 月 27 日 02:34:13)

>書かれている内容は、「死」を悪だと捉えているわけではなく、自分自身を含めて人に傷を
>負わせたり死に至らせる行為を悪だと捉えていると考えたほうがいいように思えます。


しかしその行為が「悪」だとする判断の拠り所は、やはり「死は悪」だとする考えによるものではないでしょうか?死が悪でもなんでもないなら、人を死に至らせる行為を悪だとは認識しないのではないでしょうか?


>「死」に関わる恐怖は、ないという人もいれば、あるという人の理由も様々だと思っています。


それは、わかっています。ひとつの例です。また、どちらかというと現代は、「死」への恐怖より「生」への恐怖の方が増えていっているようにも思われます。


>「死の恐怖」は、執着する“何か”が無くなってしまうのを体験することに「恐怖」を
>感じているといったものではなく、「執着する何か」どころか、何かに執着する自分さえ
>なくなってしまうという状況を思念することから起きるケースがけっこうあると思っています。
>何かに執着する自分さえなくなってしまうのなら、何も恐怖することはないじゃないかと
>言えるのですが、生きていてこうして思念できる状況で、死んで思念できなくなる状況を
>考えることができてしまうために恐怖につながる。
>その意味から、実際の死の恐怖ではなく、「生きている」が故に観念してしまう「死」の恐怖と言えます。


生きていて思念できる状況で、死んで思念できなくなる状況を考えることはできても、把握することは不可能だと思います。それは“無”を知る、知っているということにも似ておかしなものです。
何かに執着する自分が死ぬにしろ、思念が死ぬにしろ、自己が無になるにしろ、それは“無に生きている”といったような、“何か”が「生きているという状況」からくる恐怖だと思います。「考える」から出る「恐怖」というものは、それ以外は矛盾したものとしか思えません。


>私は、知らぬ間に「生」を受け、いつか「死」を迎えることになるのだろうと判断しながら、
>できる範囲で今を楽しんで生きていきたいと考えており、達観する必要もないと思っています。


達観する必要があると思って書いたつもりではありません。
また、「今を楽しんで生きていきたい」というのは、それは不満が出発点になっており、「今は楽しくはない」というのが根底にあるはずです。それは、「今を楽しんで生きている」のではなく、退屈などの「苦痛を回避するために生きている」ということにはなりませんでしょうか?「楽しむ」すら、限度を超えると「苦痛」に変わります。
「苦痛すらも楽しんでいる」という人もいるかもしれませんが、それは方便であって、やはり苦痛の後に、快楽や幸福が来ることを願うからで、苦痛そのものを楽しんでいるわけではないと思っております。
まっ、人それぞれですけど、「なぜ、そうまでして生きる?」と、俺はふと考えてしまいます。
そして、死後の世界や、輪廻転生なんて聞かされて、「君達は“死ぬ”事もできないんだよ。さあ生きるのだ。楽しみはいっぱいある。飽きたら次の世界を体験できるぞ。しかし楽しみ過ぎてもいけない。楽しみをやめてもいけない。セカセカと動き回るのだ。そして色々な思念を生み出すのだ。」なんて具合に。それはどこか、人間が家畜のニワトリに言ってあげているような感じのように。さらに家畜よりたちの悪いのは、それがいつ終わるともない永遠に起こる現象だと思うと少しゾッとします。
もちろん自分なりの「生きる意味」を創作したり、神や哲学者やチャネラーや宇宙人等々にそれらを与えられたりなんかして楽観的に「生きていく」ことは可能なのでしょうが、それすらも少し違和感を感じてしまいます。
そして俺は達観せずに、ただ楽観的にこの状況を受け入れ妥協して「生きていく」ということは、無理なのではないだろうかとさえ、少し思ってしまいます。


>世間の風潮は、「生きることには意味があるのだ」というより、「生きる意味を見つけなさい」
>とか「意味なく生きていても価値がない」といったものではないかと推察しています。


「生きる意味を見つけなさい」にしろ、「意味なく生きていても価値がない」にしろ、何かしら「生きることには意味がある」と思っているから出る言葉ではないでしょうか?
もし「生きることに意味はない」又は「わからない」と心底判断しているなら、上記言葉すらも起こらないと思っております。


>「生きることには意味があるのだ」を「ただ生きることだけで意味があるのだ」と拡張すれば、
>私の考えに近いものです


「ただ生きている」ことが、どういう意味があるのかも、主観的にしかこじつけることしかできず、ほんとうのところはわからないままのはずです。

また、「ただ生きる」と簡単に言われますが、「ただ生きる」ということは、俺やあっしらさんにできるのでしょうか?
「ただ生きる」ということが本当にできるのなら俺は何も迷わなかったでしょう。
「ただ生きる」の“ただ”とは、完全な無目的によって初めて実現するのではないでしょうか?


>「生きる意味」はそれぞれが自分で付与するものだと思っている立場なので、「生きる意味」を
>見い出しているひともけっこういると思っています。


それぞれが自分で見出していることは知っていますし、それがダメだと思っているわけではありません。ただそれは、「自分が勝手に創り上げた(というよりも環境等に創り出された)生きる意味ですよ」と言っているのです。
そして俺はそれでは満足できなかった、妥協はできなかったというだけです。

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