★阿修羅♪ > 議論22 > 241.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: Re: 補足的な説明 投稿者 BBマーク 日時 2005 年 10 月 26 日 08:42:09)
【BBマークさん】
「現在の日本においては「自殺」や「自殺未遂」は犯罪ではありませんが(違法な行為であるが阻却されるため処罰されないという見解もあるみたいですが)、他人の自殺に関与することは犯罪とされております。
自殺を決心している人に、自殺を容易にする援助を行うという「自殺幇助罪」や、人に教唆して自殺させる「自殺教唆罪」、また人の承諾を得てその人を殺害する「承諾殺人罪」なども、死を悪だと捉えているものだと認識しております。
もちろん俺の勝手な認識によるものだとも思ってはおりますから、認識違いのところがあれば是非々教えて下さい。」
[あっしら]
書かれている内容は、「死」を悪だと捉えているわけではなく、自分自身を含めて人に傷を負わせたり死に至らせる行為を悪だと捉えていると考えたほうがいいように思えます。
【BBマークさん】
「俺の『だったら、どこまでいっても生が苦痛な者を、医療は助けてあげられないのですか?痛まないように自殺させてあげるようにはできないのですか?』という問いに対して、あっしらさんが、『他者が「自殺」できる条件を整えてあげることは許容できます。』と書いておられたので、それは「自殺幇助」を許容していることだろうと思っただけです。」
[あっしら]
質問の趣旨は了解しました。
自殺したくても思うように身動きできない状況にあるのなら、誰かが「自殺」できる条件を整えてあげることは許容できます。
その場合でも、最後の“一押し”はその人自身の行為でなければならないと思っています。
逆に言えば、最後の“一押し”さえできない身体条件にある人は、それをどんなに望んでいても自殺ができなくても仕方がないと思っています。
こんなバカバカしいとも思える区別をしているのは、ずっと「もう死んだほうがいい、死にたい」と思い続けていても、誰かが最後の“一押し”に動いたときに「やっぱり生きていたい」と思う可能性もあると思っているからです。
【BBマークさん】
「生をいとおしく思ったり生に執着する人が「恐怖」するのは、執着する“何か”が無くなってしまうのを体験することに「恐怖」を感じているからではないでしょうか?体験するということは、その体験者というものが何らかの形で「生きている」ことが前提なわけだし、つまりそれは、「生きている」という状況に対する「恐怖」だと思っております。」
[あっしら]
「死」に関わる恐怖は、ないという人もいれば、あるという人の理由も様々だと思っています。
「死の恐怖」は、執着する“何か”が無くなってしまうのを体験することに「恐怖」を感じているといったものではなく、「執着する何か」どころか、何かに執着する自分さえなくなってしまうという状況を思念することから起きるケースがけっこうあると思っています。
何かに執着する自分さえなくなってしまうのなら、何も恐怖することはないじゃないかと言えるのですが、生きていてこうして思念できる状況で、死んで思念できなくなる状況を考えることができてしまうために恐怖につながる。
その意味から、実際の死の恐怖ではなく、「生きている」が故に観念してしまう「死」の恐怖と言えます。
【BBマークさん】
「「死」や「生」をそうだと思ってはいても、なぜ“それ”は起こるのか?という疑問だけは残っています。それは、自己はこの世界には見つからないと思っても、俺という“何か”があるにはあるわけで、それは何だろうか?と思考が探求したり、なぜそれはあるのか?起こるのか?ということにも似ています。たとえその答えが見つからないと断言できたとしても、その行動に矛盾があるとしても、その感覚が完全になくなるまで、俺の欲求が意味なく(あるのかどうかさえもわからず)続くと思っております。
つまり、達観できていない俺の状態が、今の現状だと思っております。」
[あっしら]
BBマークさんの意味付け行為として探求を続けてください。
私は、知らぬ間に「生」を受け、いつか「死」を迎えることになるのだろうと判断しながら、できる範囲で今を楽しんで生きていきたいと考えており、達観する必要もないと思っています。
【BBマークさん】
「また、「生きる意味」が見出すことができないにもかかわらず、「生きることには意味があるのだ」とされる(盲信する)世間の風潮に、「よく調べたのか?」という意味での投げかけだと理解して頂ければありがたいです。」
[あっしら]
世間の風潮は、「生きることには意味があるのだ」というより、「生きる意味を見つけなさい」とか「意味なく生きていても価値がない」といったものではないかと推察しています。
(「生きることには意味があるのだ」を「ただ生きることだけで意味があるのだ」と拡張すれば、私の考えに近いものです)
「生きる意味」はそれぞれが自分で付与するものだと思っている立場なので、「生きる意味」を見い出しているひともけっこういると思っています。