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(回答先: もしかして、日本の知識層は「市場との対話」の意味を知らないのだろうか 投稿者 ODA ウォッチャーズ 日時 2005 年 10 月 26 日 01:34:35)
【ODA ウォッチャーズ さん】
「「市場との対話」が唱えられる背景は、「市場絶対主義」である。
「市場」が、世界であり、宇宙である。
物理学者は、「自然と対話」する、というように、「新自由主義者」は、市場と、理知的に対話するのだ。
この理知的な対話を邪魔する要因の一つが、不透明性である。」
[あっしら]
「市場」とは、“利益の極大化をめざす不特定多数ないし特定者間の取り引き活動の場”である。
「市場と対話する」わけではなく、ある経済主体が市場に参加する特定者や不特定多数者と対話する場が市場である。
その対話の結果から、自分の見通しの誤りを知ったり、自分の図々しいまでの利益追求が実現できたことを知るのである。
経済学者や国策立案者は、市場と対話できるとしてもごく限られた日常的市場だけであり、ほとんどは市場で行われた対話の結果を知るだけの立場である。
経済学者や経済評論家が「市場との対話」(市場での対話)をことさら唱えるとしたら、近代経済システムに対する無知を晒しているようなものである。
(詐欺師的対話で利益を得ることの奨めなら、「市場との対話」をことさら唱えるのも意味があるかもしれないが..)
確立した「近代経済システム」は、市場での対話(取り引き)を通じて経済活動の成果が得られるという仕組みなのだから、わざわざ「市場との対話」を唱える必要はないし、“部外者”はデータとなった市場での対話の結果しか知ることができず対話はできない。
(せいぜい、結果を示すデータから対話の内容を推察することしかできない)
個々の経済主体の判断に基づく経済活動が国民経済の成長に寄与すると考える「新自由主義」の経済(政策)学者や国策立案者は、本来、「市場との対話」なぞ必要ないのである。
国家は経済活動ができる場を整えるだけで、「市場との対話」は個々の経済主体が行うものであり、対話を受けての是正も、個々の経済主体が自己責任で行うことが経済成長に資するというのが「新自由主義」の考え方である。
「市場を知る」必要があるのは、「新自由主義」者ではなく、国家が経済社会に関与することで経済成長を維持することを是とするケインズ派などである。
「新自由主義」を標榜しない経済学者や国策立案者にとって重要なことは、個々の市場参加者とは違って、市場の集積である「国民経済」や世界経済の動きを知ることである。
市場の重層性や連関性を踏まえ、市場から出てくるデータを分類・統合することで「国民経済」や世界経済の動きを概略で掴むことができる。
そして、経済成長を維持するために国策としてできることがあるのかを考え、ふさわしい手があるのならそれを実行する。
余談だが、「「市場」が、世界であり、宇宙である」という叫び声は、通貨を媒介とした取り引き以外に現実がないという意味として受け止めることができ、あまりにも現実が見えていないとも言える。
「市場」は、近代という歴史的世界で生きていく上で極めて重要な存在だとは言えるが、手段でしかない。
「市場」が不透明なのは、
● 実物経済の市場では、モノを供給するまでに時間を要する。生産を計画した時点と市場に供給した時点でが経済条件が変化している。(一次産品や金融商品は先物取り引きでなにがしかのヘッジもできるが、工業製品やサービスはそれができない)
● 市場での対話(取り引き)は、一回性のものではなく不断に繰り返されるものであり、対話の条件(経済環境)はその都度変わる。
前回の呼びかけが成功したから今回も成功するとは限らないし、見通しを修正したつもりが逆目になることも頻発する。
● 現実の経済条件は時々刻々変動しているが、ほとんど市場参加者はその全貌を知らないまま市場で取り引きする。
ある経済主体が参加している市場は、閉鎖的環境ではなく、外国を含めた他の市場と連関している(他の市場から影響を受けている)。参加している市場の変動はそれなりに把握できるが、他の市場の変動は見えにくく、それは時間差をおいて自分が参加している市場にも影響を及ぼす。
といったことが要因である。
思惑が当たっているかどうかは、市場で実際に対話してみるまでわからない。
市場で対話してわかることは、それまでの自分の思惑が妥当なものだったかそれとも誤りだったなのかであり、結果を理知的に反省してみても、次の市場での対話で通用するとは限らない。
このような市場の不透明性を減少させていく手立ては、寡占であり独占である。
市場に供給する主体が少なければ、共通利益を旗印に他の供給主体と市場で手を組むこともできるし、供給量の計画や実際の供給量の調整も行いやすい。
【ODA ウォッチャーズ さん】
「ケインズ主義は、金融資本という、個別に制御可能な媒体に目を向けたが、「新自由主義」は、単純に、「市場の崇高性、絶対性」を信仰しているのだ。
市場主義者にとって、金融資本も、純粋には、邪魔者である。 」
[あっしら]
「ケインズ主義は、金融資本という、個別に制御可能な媒体に目を向けた」と言われる、「個別に制御可能」とはどのようなことを指すのかお示しください。
市場は、近代経済システムで絶対性を持っているとしても、崇高でも下劣でもありません。
成功と失敗が渦巻く市場に崇高性を見い出しているとしたら倒錯と言えるでしょう。
「市場主義者にとって、金融資本も、純粋には、邪魔者である」というのはどういうことでしょう。
市場主義者にとっては、財やサービスを供給する経済主体も、通貨を供給する金融経済主体も同列なのではないのですか?