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(回答先: Re: 自殺や安楽死についての明確な区別の基準がわかりません!他 投稿者 あっしら 日時 2005 年 10 月 22 日 16:56:01)
あっしらさんへ。
>文章表現が稚拙だったのでわかりにくかったことを詫びます。
俺に対しては、詫びてもらうことなど何ひとつありません。稚拙となると俺の方だろうし、稚拙を悪いとも思ってはおりません。
>前回も書きましたが、自殺できる条件を整えること(自殺幇助)は認めています。
>殺人行為として問題にしている「安楽死」は、直接の致死的行為を本人以外のものが実行するもの、
>とりわけ本人の意思確認をしないままの「安楽死」をイメージしています。
では、例えば
@.医療従事者が医療現場にて、自殺を志願している人に自殺できる条件を整えること(自殺幇助)は、許容できるでしょうか?
A.自殺を志願している人に、他人が注射等で「安楽死」を施してあげた場合はどうでしょうか?
B.医師が「安楽死」をするというバーチャルゲームが発売されることを許容できるでしょうか?
C.いかに自殺者に喜んでもらえるような自殺環境を色々と考え出してあげるかというバーチャルゲーム(18歳未満可)が発売されることを許容できるでしょうか?
>何をおっしゃりたいのかよくわかりませんが、治癒の見込みがないのに苦しみもがいている患者を
>「安楽死」させてあげるのが“善”だと考えている医療従事者に対する批判というのが“アンチ”という意味です。
>相手が死に至る行為であっても、ある判断に基づくものなら善といった区分は、殺人の際限のない許容につながります。
>「正しい」と個々が判断したことではなく、医療従事者は、法で規定された範囲を逸脱した行為をしてはならないと思っています。
>倫理はともかく、医療従事者が業として他者に何かを為すときは法で許容された範囲にとどめなければならないと考えています。
アンチの対象を「医療従事者」なのか、医療従事者の「行為」なのか「善と考える思想」なのかという点で、『医療従事者へのアンチ』と書かれておりましたので、「医療従事者」がアンチの対象であり、「医療従事者」だからいけないのかと思ったわけです。なら“医療従事者の”行為でないなら、つまりそれは自殺幇助を“善”だと考えている非医療従事者の組織や個人の行為(安楽死)に対する場合だとどうなのか?ということで、それに対するアンチはないのか?と疑問に感じただけです。(上で私の提示した例題のあっしらさんの回答を待ちます。)
そしてそれに関連して、医療従事者が、業として他者に何かを為すときは法で許容された範囲にとどめるべきであり、「安楽死」は、法で規定された範囲を逸脱した行為だから医療従事者に“限って”は許されないと、もし思っておられるなら、医療従事者に限らず人は法律で許容された範囲内しか行動が許されていないはずで、自殺幇助も現行の法律では犯罪であるのだから、自殺幇助のみ受容できるというのは矛盾してはいませんかと思い問うただけです。そしてその矛盾を先回りして予測した結果が次の社会的・常識的というのに繋がっていったというわけです。
>「社会的や常識的なものに左右される」ことを否定はしませんが、今回のやり取りのどこからわざわざそのような推論が出てきたのか知りたいですね(微笑)。
上で記載のように、アンチの対象を「医療従事者」であろうと判断したうえでの推論です。医療従事者は、“社会的・常識的には”最も責任感を必要とされる部類にはいると言われていると思っておりましたので。
で、あっしらさんが「社会的や常識的なものに左右される」というなら、自殺幇助も社会的・常識的には、完全に“悪”とされているのに、それを許容できるということに対して、その価値判断の拠り所は何?と純粋に疑問が沸いただけです。
>>ある種の「正しい」ということへの誘導に対する拒否というなら、アンチによってま
>>た新たな誘導を作り上げてはいませんか?
>それは、その通りです。何か問題がありますか?
これは誤解されるような書き方をしたかもしれません。
ある物事に対してそれを「正しい」として価値判断をし、他者を誘導しようとすることは、結局は紛争等の「諸問題」を引き起こす原因になり得るということを重視し、それを誘導しようとする者に対して、それは間違っているという意味でのアンチによって、さらに逆の新たな価値観を生み出し他者を誘導することになり、それはまた、新たな紛争等の諸問題の火種になり得るということであり、つまりそれは戦争を止めさせようとして戦争を仕掛けていくことに似たどこかな矛盾したことであり、そのことを自覚していますか?ということです。ただし問題であるとは思ってはおりません。
この後で2ブロック分の応答個所を飛ばされているように思われますが、どうしてでしょうか?
できれば、下記の個所のみでもお答え頂くと議論が深まると思います。
【あっしらさん】
>「生」は、「死」と違い、生まれ出る人にとって、事前にその意味や好悪を考えたり受諾・拒絶の選択が許されることなく与えられるものです。
>「死」は、身体的ないし外的要因がそれを必然化しなくても、自分の意志で選択し実現することもできるものです。
【BBマーク】
「死」を、外的要因がなく自分の意志だけで実現できると考えることができたのはなぜですか?自殺は外的要因無しに、「よし自殺しよう」ということが起こると思われるのですか?どんな場合にそのような事が起こるのでしょうか?
自分の意志が介入する自殺は、外的要因を受けてそして自殺を決意すると俺は思っています。その場合の意志は、「本当は生きたいのだけど、外的要因のせいで生きることはできない。だから死のう。」ということだと思います。これはどこか殺人行為という他者(外的要因)に殺されることに似ていることに気づきます。違うでしょうか?
また意志が肉体を滅ぼすのなら、肉体と意志の関係はどのような関係でしょうか?意志もあなたという自己にとっては外的要因のひとつと捉えることができる可能性はあり得ませんか?
>価値判断とはそのようなものです。
>そして、それに意味があるからこそ、人はいろいろな営みに励んでいるのだと思っています。
価値判断を必要としている人に意味があるわけであり、すべての人に意味があるわけでも必要なことでもありません。
>「死」に対する観念は、死を“予定”されたものと考えている生きている人にとって意味があることで、
>死そのもの(死んでしまったこと)は、意味あるとしたら死後でしかなく、生きている時点では意味がないと思っています。
>“彼ら”に限らず支配層が、人々の「死」に対する観念を利用していることは私自身も書いたことでであり認めております。
「死」に対する観念は、死を“予定”されたものと考えている生きている人にとっては、意味があることでしょうが、ただしそれは「死」そのものを歪めて捉えてしまっているということです。
また、「死」に対する観念は、生きている状況から発生するものであり、それは「死」に対する観念というより、「生きている」という状況に対する観念だと思っております。それらの観念は「死」と同じ次元で語られるべきものではないとも思っております。
>>「死」は「死」であり、「生」は「生」。それ以下でもそれ以上でもない、ただそれ
>>だけだと思っております。
>そのような価値判断も問題ないと思っています。
>ただ、「生」の真っ只中にあるときにはあまり意味のない価値判断ではないかという思いはあります。
「死」は「死」、「生」は「生」とは、価値判断のつもりで書いたものではありません。そこに善悪は生じていないつもりです。
また何故意味のないものであるのかがわかりません。価値判断の無い人間は生きることはできないのですか?ただ生きて死んでいくだけの人は、生の真っ只中にはいないのでしょうか?
>“生あるものの死の不可避性”の陳述(主観の表明)であっても、「死ぬ必要」の説明にはなっていないように思えます。
生まれたものは死んでいくと書いたものが、主観の表明とありますが、 あっしらさんは絶対に死なないものを知っているのですか?
死が不可避なら、それは死が約束されており、避け難いものであり、必ず要するものではないでしょうか?
人は、生まれなければならないし、生まれたものは死ななければならない。なぜそんなことを繰り返す必要があるのか?という根本的な意味において使っております。
>「「死」は「死」であり、「生」は「生」。それ以下でもそれ以上でもない、ただそれ
>だけだと思っている」あなたが、「生」や「死」の必要性を問うこと自体に違和感を覚えます。
「死」や「生」を価値判断しているわけではありませんが、何故そんなことをするのだろうと思っているだけです。
また、「生まれること」や「死ぬこと」というよりも、「生きること」に対する無意味さを感じてしまっていることのほうが大きいです。「生きること」は、結局は苦痛からの回避であると悟るにつれて、段々とその感情が大きくなってきているだけです。
「なんで生きているんだろう?」→「なんで生まれたんだろう」って。
だから「死ぬ」という選択をする者の気持ちはよくわかるつもりではいるし、ただ「死ぬ」ということに対しての世間の“悪”だとする観念に対して、果たしてそうなのかと思っているだけです。
>>俺が聞きたいのは、それぞれの主観的な生きる理由ではなく、誰も仲間はずれにしな
>>い、完全なる客観的な生きる理由です。
>それぞれが主観的な生きる理由があり、生きるために他者が必要だと判断するなら、その関係性をあれこれ考える、というのでいいのじゃありませんか?
>「完全なる客観的な生きる理由」なぞないと思っています。
少し書き方で、誤解されたかもしれませんが、生きるために他者が必要だから、仲間外れにしないようにと思っているわけではなく、ただ単になぜ人は生きているんだ?という問いからきたものです。
>なぜ生まれたかは、生物学的な説明ならできるでしょうが、哲学的ないし宗教的に説明する意味はあまりないと思っています。
>「生きる意味」の考察に意味を感じていません。
「自殺」「安楽死」「殺人」等の「死」についての考察をしていこうとするなら不可欠な問いのようにも思えてならないからです。