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(回答先: 自殺や安楽死についての明確な区別の基準がわかりません!他 投稿者 BBマーク 日時 2005 年 10 月 22 日 02:27:38)
あっしら:「自殺や延命措置をやめて死へ向かう状態を放置することに問題はないと考えています。」
>ということは、安楽死は殺人行為で、自殺は殺人行為ではないということで、宜し
>かったでしょうか?
文章表現が稚拙だったのでわかりにくかったことを詫びます。
「自殺であったり、延命措置をやめて死へ向かう状態を放置することに問題はない」という表現に変えさせておきます。
>この違いは何でしょうか?他人が介在しているか否かということでしょうか?
>それなら、自殺も他人の手(自殺幇助)が加わると、殺人行為に変わるということで
>しょうか?
前回も書きましたが、自殺できる条件を整えること(自殺幇助)は認めています。
殺人行為として問題にしている「安楽死」は、直接の致死的行為を本人以外のものが実行するもの、とりわけ本人の意思確認をしないままの「安楽死」をイメージしています。
>>「安楽死」を殺人行為とは考えず、保持する価値観に照らして“善行”と考える医
>>療従事者へのアンチだと受け止めてください。
>アンチ?ということは結局どっちなのですか?アンチがなければ、安楽死は許容でき
>るということですか?自殺を“善行”だと考える人達へのアンチはないのですか?被
>アンチ者の数の違いですか?それとも被アンチ者の社会的な立場の違いですか?
何をおっしゃりたいのかよくわかりませんが、治癒の見込みがないのに苦しみもがいている患者を「安楽死」させてあげるのが“善”だと考えている医療従事者に対する批判というのが“アンチ”という意味です。
相手が死に至る行為であっても、ある判断に基づくものなら善といった区分は、殺人の際限のない許容につながります。
問題になっているテーマは医療現場における「安楽死」ですから、自殺以降の文章で提起された疑義は的外れというか意味がないと思っています。
>あっしらさんの価値判断の基準は、社会的や常識的なものに左右されるということで
>しょうか?別に間違っていると言っているわけではありませんが、明確な基準という
>ものはあるのでしょうか?なぜ被アンチ者を許容できないのでしょうか?
「社会的や常識的なものに左右される」ことを否定はしませんが、今回のやり取りのどこからわざわざそのような推論が出てきたのか知りたいですね(微笑)。
「被アンチ者を許容できない」って、どういう意味なのかわかりません。
>ある種の「正しい」ということへの誘導に対する拒否というなら、アンチによってま
>た新たな誘導を作り上げてはいませんか?
それは、その通りです。何か問題がありますか?
>また、医療従事者は正しい事をするべきだとか、医療というものは正しいものだとか、
>新たな違う価値基準に左右されているのなら、それは本当に「正しい」ものなのかを
>考えましたか?法律や社会や倫理や常識に流されているだけではありませんか?
「正しい」と個々が判断したことではなく、医療従事者は、法で規定された範囲を逸脱した行為をしてはならないと思っています。
倫理はともかく、医療従事者が業として他者に何かを為すときは法で許容された範囲にとどめなければならないと考えています。
>自殺でも他殺でも安楽死でも煙草による死でもドラッグによる死でも人命救助による
>死でも災害による死でも、「死」という状況には変わらない。そこに価値判断するも
>のは何もないはず。あるのは価値判断をした人の思考があるだけでは?
>価値判断というのは主観的な判断にしか過ぎません。環境や教育や記憶によっていか
>ようにも価値判断は形成されます。
価値判断とはそのようなものです。
そして、それに意味があるからこそ、人はいろいろな営みに励んでいるのだと思っています。
>そんなものくっ付けても「死」という状況は変わらない。
>そんな飾りに振り回されるのは、「死」というものをどういうふうに扱ってもらいた
>いかという、あっしらさんの言われるところの“彼等”の支配するための誘導手段に
>使われるだけとも思ってはおります・・・。
「死」に対する観念は、死を“予定”されたものと考えている生きている人にとって意味があることで、死そのもの(死んでしまったこと)は、意味あるとしたら死後でしかなく、生きている時点では意味がないと思っています。
“彼ら”に限らず支配層が、人々の「死」に対する観念を利用していることは私自身も書いたことでであり認めております。
>“理念的な”飾りをとり払って眺めていくと、そこには「生」があり「死」がある。
>ただ「生」も「死」もただの観念の戯れだというならそうかもしれません。そうなる
>と「生」や「死」すらも無くなるのでしょう。しかし付加するより取り払ったほうが、
>よりシンプルな真実(真の姿)に“近い”というものだと俺は思っています。
そのような考え方に違和感はありません。
>「死」は「死」であり、「生」は「生」。それ以下でもそれ以上でもない、ただそれ
>だけだと思っております。
そのような価値判断も問題ないと思っています。
ただ、「生」の真っ只中にあるときにはあまり意味のない価値判断ではないかという思いはあります。
>なぜ「死」に思いやら願望やらを付加しようとされるのでしょうか?思考や願望がど
>れだけ「俺は死なない」と叫ぼうが、切り刻まれれば肉体の死は訪れます。「生」と
>「死」は表裏一体。死なないものは生まれはしないし、生まれたものは、いつかは死
>ぬ必要があると俺は思っている。この世界に死なないものなど何もないと。
“生あるものの死の不可避性”の陳述(主観の表明)であっても、「死ぬ必要」の説明にはなっていないように思えます。
>だから「なぜ死ぬ必要があるのか?」を問うと、「なぜ生まれる必要があるのか?」
>になるというわけです。
「「死」は「死」であり、「生」は「生」。それ以下でもそれ以上でもない、ただそれ
だけだと思っている」あなたが、「生」や「死」の必要性を問うこと自体に違和感を覚えます。
>俺が聞きたいのは、それぞれの主観的な生きる理由ではなく、誰も仲間はずれにしな
>い、完全なる客観的な生きる理由です。
それぞれが主観的な生きる理由があり、生きるために他者が必要だと判断するなら、その関係性をあれこれ考える、というのでいいのじゃありませんか?
「完全なる客観的な生きる理由」なぞないと思っています。
>生きる必要がないなら、なぜ生まれたのですか?何かの行動が起きるためには、そこ
>にはなんらかの意志(衝動)が必要だと思います。なぜその意志が起きる必要があっ
>たのでしょうか?
なぜ生まれたかは、生物学的な説明ならできるでしょうが、哲学的ないし宗教的に説明する意味はあまりないと思っています。
>「わからない」以外の答えが見つかりますか?ということ。
「わからない」という答えで十分だと思っています。
>また、諸般の事情を考慮してと言われますが、結局はその諸般の事情への欲求もなぜ
>起きるのか?と考えなくては、生きる意味を考察したことにはならないと私は思って
>おります。
「生きる意味」の考察に意味を感じていません。