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自殺や安楽死についての明確な区別の基準がわかりません!他
http://www.asyura2.com/0510/dispute22/msg/194.html
投稿者 BBマーク 日時 2005 年 10 月 22 日 02:27:38: Nk.3rfti3Zsak
 

(回答先: Re: 俺の今の心境と、自殺や安楽死についての質問です。 投稿者 あっしら 日時 2005 年 10 月 21 日 04:14:27)

あっしらさんへ。

>「自殺」はダメだとは思っていませんし、そのようにも書いていないはずです。


そうなんですか。てっきり下記の文章で、そう判断しましたが、はっきりは言っておらず心細かったので「ダメ?」としておきました。


>まず、他者の手による「安楽死」は、善悪は別として殺人行為だと判断しているので受容できません。
>自殺や延命措置をやめて死へ向かう状態を放置することに問題はないと考えています。


ということは、安楽死は殺人行為で、自殺は殺人行為ではないということで、宜しかったでしょうか?
この違いは何でしょうか?他人が介在しているか否かということでしょうか?
それなら、自殺も他人の手(自殺幇助)が加わると、殺人行為に変わるということでしょうか?


>他者が「自殺」できる条件を整えてあげることは許容できます。


ちょっと待って下さい。これと安楽死の違いがわかりません。自殺を助けることは許容できて、安楽死は受容できないというのは、どういうことでしょうか?


>「自殺」は天命だと思っています。
>「安楽死」については、死んだ人にとっては天命ですが、医療従事者の行為という点を重視して除外しています。
>「安楽死」を殺人行為とは考えず、保持する価値観に照らして“善行”と考える医療従事者へのアンチだと受け止めてください。


アンチ?ということは結局どっちなのですか?アンチがなければ、安楽死は許容できるということですか?自殺を“善行”だと考える人達へのアンチはないのですか?被アンチ者の数の違いですか?それとも被アンチ者の社会的な立場の違いですか?
あっしらさんの価値判断の基準は、社会的や常識的なものに左右されるということでしょうか?別に間違っていると言っているわけではありませんが、明確な基準というものはあるのでしょうか?なぜ被アンチ者を許容できないのでしょうか?
ある種の「正しい」ということへの誘導に対する拒否というなら、アンチによってまた新たな誘導を作り上げてはいませんか?
また、医療従事者は正しい事をするべきだとか、医療というものは正しいものだとか、新たな違う価値基準に左右されているのなら、それは本当に「正しい」ものなのかを考えましたか?法律や社会や倫理や常識に流されているだけではありませんか?


>「生」は、「死」と違い、生まれ出る人にとって、事前にその意味や好悪を考えたり受諾・拒絶の選択が許されることなく与えられるものです。
>「死」は、身体的ないし外的要因がそれを必然化しなくても、自分の意志で選択し実現することもできるものです。


「死」を、外的要因がなく自分の意志だけで実現できると考えることができたのはなぜですか?自殺は外的要因無しに、「よし自殺しよう」ということが起こると思われるのですか?どんな場合にそのような事が起こるのでしょうか?
自分の意志が介入する自殺は、外的要因を受けてそして自殺を決意すると俺は思っています。その場合の意志は、「本当は生きたいのだけど、外的要因のせいで生きることはできない。だから死のう。」ということだと思います。これはどこか殺人行為という他者(外的要因)に殺されることに似ていることに気づきます。違うでしょうか?
また意志が肉体を滅ぼすのなら、肉体と意志の関係はどのような関係でしょうか?意志もあなたという自己にとっては外的要因のひとつと捉えることができる可能性はあり得ませんか?


>また、人の生のなかには「死」の観念が付きまとっており、それは決定的とも言える重みを持っています。


「人の生のなかには」の“なかには”とは、「生のなかには観念が付随している」ということか、「生のなかには観念が付随している生もある」ということかは意味が変わりますが、たぶん前の方だと解釈しますが、観念とはつまり思考と記憶と期待と認識から作りあげられるものだと思います。それが無い「生」は、考えられないのでしょうか?それらが無い「生」は重みがないということになるのでしょうか?


>その意味で、いろいろなことに意味付けしたり価値判断するのと同じように、「死」は語られるのだと思っています。


色々と「死」が語られるのはわかっております。しかし褒められても貶されても、「死」という状況に変わりはないということです。自殺でも他殺でも安楽死でも煙草による死でもドラッグによる死でも人命救助による死でも災害による死でも、「死」という状況には変わらない。そこに価値判断するものは何もないはず。あるのは価値判断をした人の思考があるだけでは?
価値判断というのは主観的な判断にしか過ぎません。環境や教育や記憶によっていかようにも価値判断は形成されます。そんなものくっ付けても「死」という状況は変わらない。
そんな飾りに振り回されるのは、「死」というものをどういうふうに扱ってもらいたいかという、あっしらさんの言われるところの“彼等”の支配するための誘導手段に使われるだけとも思ってはおります・・・。
“理念的な”飾りをとり払って眺めていくと、そこには「生」があり「死」がある。ただ「生」も「死」もただの観念の戯れだというならそうかもしれません。そうなると「生」や「死」すらも無くなるのでしょう。しかし付加するより取り払ったほうが、よりシンプルな真実(真の姿)に“近い”というものだと俺は思っています。

また、もし死について原因を付加するとしたら、無数の如くに関連した要因が出てくるでしょう。それら全てを付加せずに、一つの側面のみをただ取り上げて、それのみにおいて価値判断を下すべきことは妥当ではないと思っております。
また、その関連した要因には、その後の生きる者にどのような影響を与えたかまで考えるべきであり、過去そして未来に渡る膨大な量の付加されるべき要因が現れてくるでしょう。もし「死」になにかを付加するなら、それら全て(際限なく)を付加するのか、または全てを付加しないかということではないでしょうか。

「死」は「死」であり、「生」は「生」。それ以下でもそれ以上でもない、ただそれだけだと思っております。


>死ぬ必要があるのかどうかは不明です。
>死ぬまでは死を蓋然性だと思い、実際に死ぬときに必然だったと思う(思うことさえできないかもしれませんが..)と思っています。
>※ (蓋然性というのは、人は死すべき存在のようだ必ずしもすべての人がそうだとは確定していないという意味で使っています。
>ほとんどありえないが不死の人が出てくる可能性はゼロではないかも..というたわ言か妄想的願望だと受け止めてください)


なぜ「死」に思いやら願望やらを付加しようとされるのでしょうか?思考や願望がどれだけ「俺は死なない」と叫ぼうが、切り刻まれれば肉体の死は訪れます。「生」と「死」は表裏一体。死なないものは生まれはしないし、生まれたものは、いつかは死ぬ必要があると俺は思っている。この世界に死なないものなど何もないと。
だから「なぜ死ぬ必要があるのか?」を問うと、「なぜ生まれる必要があるのか?」になるというわけです。


>生きる必要はないと思っています。
>生き続けるかどうかは、それぞれが、諸般の事情を考慮して選択することだと思っています。


俺が聞きたいのは、それぞれの主観的な生きる理由ではなく、誰も仲間はずれにしない、完全なる客観的な生きる理由です。
生きる必要がないなら、なぜ生まれたのですか?何かの行動が起きるためには、そこにはなんらかの意志(衝動)が必要だと思います。なぜその意志が起きる必要があったのでしょうか?
「わからない」以外の答えが見つかりますか?ということ。

また、諸般の事情を考慮してと言われますが、結局はその諸般の事情への欲求もなぜ起きるのか?と考えなくては、生きる意味を考察したことにはならないと私は思っております。

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