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(回答先: 「生死は人間の領域ではない」とよく言われるが 投稿者 乱 日時 2005 年 10 月 02 日 19:32:02)
我々は老い、死にゆく存在だ。
今ははちきれんばかりの若さに溢れたあなたも、いつかは老い、たぶん病を抱え、そして死んでゆく。
もちろん若くして亡くなる人たちも少なくはないが、生まれ、生き、老い、死ぬというプロセスから、人は一瞬として逃れられない。
そうであれば、今は「若い」あなたが、現役を引退した世代の人間を「老人」と呼び、さらに彼らを「産業廃棄物」と認識することが、明らかに自傷行為であることくらいわかりますよね?
いつから我々は、若い自身を「こっちがわ」、年齢を重ねた人たちを「あっちがわ」の人間と認識し始めたのだろう。
そして、今は「こっちがわ」にいる人間に、いずれは自身も「あっちがわ」に行かざるをえないという事実を意識させない世の中になってしまったのか。
「自分自身が老いゆく存在」であることには目をふたぎ、今、老いてしまった人々を疎み、さながら「汚いもの」のように扱い、「早く死ね」と・・。
なるほどね、「お荷物」ですか・・。
それだったらあなたは、自分が老いる前に、首でもくくる?
いつかは「産業廃棄物化」する為に、我々は日々を生きているのだろうか?
オギャアと生まれてきた瞬間から、宿命として我々には老いも、死も約束されている。
みんな、一人の例外もなく一緒なのに。
少しでも多くの「分け前」を奪い合うような社会、生きていられたら、「俺の取り分が少なくなる」相手を攻撃し、片隅に追いやり、彼らの一日も早い死を願う。
歳をとり、社会から「早く死ね」と迫られる自分自身を想像することは、そんなに難しいことなのだろうか?
▽
しかるに「お年寄りを大切にしよう」等のキャンペーンを繰り広げて、尊敬できようができまいが年をとっているという理由だけで、大切に「しなければならない」という価値観を捏造することにどんな意味があるだろう。
△
それはまったく逆であり、「若さ」というものに対する妄信的な価値こそが、捏造されたものであるということ。
それは「老人」という言葉に、不当にネガティブな“意味”を与え、「老いゆくこと」から人として学ばなければならない大切な価値を剥奪し、人々を、そして個人を過去と未来に断裂させ、いつか万人を例外なく自己疎外へと導いてゆく。
ところで、以下はソキウスからの抜粋。
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たとえばつぎのような常識的知識もしくは通念を疑ったことはあるだろうか。「子供の世話や食事のしたくは妻[母親]の仕事である」「会社のお茶くみは若い女性の仕事である」「結婚したら夫の姓になる」「若いってすばらしい」「犯罪者は悪い人間だ」「マスコミの力は絶大だ」「選抜試験はもっとも平等な制度である」「差別されるのはなにか理由があるからだ」「糖尿病やガンにかかった人は病人だから働けない」「宗教は非合理的だ」「火のないところに煙はたたないのだから、うわさのいうようになにかあるにちがいない」「文部省検定済教科書は正しい」「厚生省の許可した薬だから安全だ」「科学技術は中立だ」「専門家のいうことは信じられる」――まだまだあげられそうな気がするが、この辺にしておこう。
おそらく「そうじゃないのかもしれないけど、それでいいんじゃない」「あんまり考えたことないなあ」という人がけっこう多いと思う。たとえばあなたが、これまでまずまずの成績でやってきて、その結果なんとか大学に合格した若くて健康でわれながら素直で明るい男性だとすればとくに、これらはその程度の自明な――つまり「とやかくいう必要のない」――ことに感じられるだろう。あるいはまた「とりあえず今の自分とは関係ないことだ」と思ってしまう。じつはこれが常識的知識とかステレオタイプとかクリーシェと呼んできたもののもつ自明性・神話作用・信憑性構造の具体的な姿なのである。
裏返してみる
ためしに〈裏〉を想像してみることだ。
たとえば「若いってすばらしい」という価値観の〈裏〉にあるのは「老いるのはみっともないことだ」「老人はみじめだ」ということだ。現代の日本社会が老いの意味を見失った社会であることは、マーケティングのターゲットとしてメディアや資本からちやほやされている大学生や若者には認識しにくいことである。
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http://www.socius.jp/lec/02.html