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(回答先: 日航ジャンボ機が墜落して16時間という殺人的時間を確保したのはそのアリを殺す為だったのではないかと疑われている 投稿者 TORA 日時 2005 年 12 月 26 日 13:56:16)
フジ記者の事故死
どこかに残しておきたくて投稿させていただきました。
日航機事故を、おそらく最も早い段階から目撃した方が、その後飛行機
事故で亡くなっていることをどこかに残しておきたくて、投稿させて
いただきました。
御巣鷹山の事故現場に比較的早く到着したのはフジテレビの取材班で、
(マスコミの中では一番乗りだったと聞きました)現場レポートは若い
入江敏彦記者。記憶によるとフジのクルーはこの功績により何かの賞を
受賞したと思います。
その後、1994年12月6日、入江記者は自衛隊のルアンダPKO取材に向かう途中、
飛行機事故で亡くなりました。
/////////////////////////////////
共同通信社 チャンネル-K 編集日記より引用
「記者が追うリスク」 2004年03月07日 編集長 小池新
1994年11月、アフリカのルアンダ難民救済のため、自衛隊が派遣された問題では、
社会部の担当デスクだった。共同は最寄りの支局がケニアのナイロビだったが、
支局長はルーティンの仕事を抱えており、社会部から記者を出していた。当初は
1人だったが、他社が2人態勢にして抜き合いになったため、もう1人、キャップ格
の記者を出し、2人態勢にした。
取材拠点のザイールのゴマは生活条件が悪く、2人の社会部記者は時折、交替で
ナイロビに休養に行っていた。12月6日、たしか日曜日で僕は自宅にいた。夜、
風呂から出たとき、つけっぱなしにしていたテレビの画面にニュース速報が流れた。
「ナイロビ空港近くで小型機墜落」。その日は、最初に現地に入った社会部記者が
ゴマからナイロビに行く予定だった。僕は一瞬「やられた!」と思った。慌てて
社会部に電話すると、社会部記者が乗る予定の飛行機ではあったが、ナイロビから
ゴマに向かう途中だったことが分かった。そしてその機には、共同の沼沢均、
フジテレビの入江敏彦両ナイロビ支局長が乗っていた。
社に駆けつけ、社会部からちょっと離れた外信部に行ったときの雰囲気は忘れ
ようがない。静まり返って、私語は全くない。沈痛の一言に尽きる。沼沢という
記者は北海道大探検部出身の「冒険野郎」で天真爛漫(らんまん)。あごひげを
はやした風ぼうから、ゴマでは「ザビ(ザビエルの略)」と呼ばれていた。年末、
都内で行われた葬儀のため、重い気持ちで走り回ったことも忘れられない。
取材上のリスクは記者やカメラマンにはつきものだし、ある程度は覚悟のうえだ。
それでも、そうした事故が起きるたびにやりきれない思いになる。特に、巻き
込まれたのが若いジャーナリストの場合には。
http://ch-k.kyodo.co.jp/ch-k-archive/hen/200403071400.html
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日航機事故を、おそらく最も早い段階から目撃した方が、その後飛行機
事故で亡くなっていることをどこかに残しておきたくて、投稿させて
いただきました。
御巣鷹山の事故現場に比較的早く到着したのはフジテレビの取材班で、
(マスコミの中では一番乗りだったと聞きました)現場レポートは若い
入江敏彦記者。記憶によるとフジのクルーはこの功績により何かの賞を
受賞したと思います。
その後、1994年12月6日、入江記者は自衛隊のルアンダPKO取材に向かう途中、
飛行機事故で亡くなりました。
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共同通信社 チャンネル-K 編集日記より引用
「記者が追うリスク」 2004年03月07日 編集長 小池新
1994年11月、アフリカのルアンダ難民救済のため、自衛隊が派遣された問題では、
社会部の担当デスクだった。共同は最寄りの支局がケニアのナイロビだったが、
支局長はルーティンの仕事を抱えており、社会部から記者を出していた。当初は
1人だったが、他社が2人態勢にして抜き合いになったため、もう1人、キャップ格
の記者を出し、2人態勢にした。
取材拠点のザイールのゴマは生活条件が悪く、2人の社会部記者は時折、交替で
ナイロビに休養に行っていた。12月6日、たしか日曜日で僕は自宅にいた。夜、
風呂から出たとき、つけっぱなしにしていたテレビの画面にニュース速報が流れた。
「ナイロビ空港近くで小型機墜落」。その日は、最初に現地に入った社会部記者が
ゴマからナイロビに行く予定だった。僕は一瞬「やられた!」と思った。慌てて
社会部に電話すると、社会部記者が乗る予定の飛行機ではあったが、ナイロビから
ゴマに向かう途中だったことが分かった。そしてその機には、共同の沼沢均、
フジテレビの入江敏彦両ナイロビ支局長が乗っていた。
社に駆けつけ、社会部からちょっと離れた外信部に行ったときの雰囲気は忘れ
ようがない。静まり返って、私語は全くない。沈痛の一言に尽きる。沼沢という
記者は北海道大探検部出身の「冒険野郎」で天真爛漫(らんまん)。あごひげを
はやした風ぼうから、ゴマでは「ザビ(ザビエルの略)」と呼ばれていた。年末、
都内で行われた葬儀のため、重い気持ちで走り回ったことも忘れられない。
取材上のリスクは記者やカメラマンにはつきものだし、ある程度は覚悟のうえだ。
それでも、そうした事故が起きるたびにやりきれない思いになる。特に、巻き
込まれたのが若いジャーナリストの場合には。
http://ch-k.kyodo.co.jp/ch-k-archive/hen/200403071400.html
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