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(回答先: 戦後60年 新聞各紙論調 (2005年1月1日社説) 投稿者 月読 日時 2005 年 8 月 16 日 03:28:56)
2005年08月15日 朝日新聞
(戦後60年) 元気と思慮ある国に
長い戦争の末、みじめな敗戦を味わったあの日に生まれた赤ん坊が、きょう、ついに満60歳を迎える。「戦後」はそれほどの歳月を刻んだことになる。
世界はすっかり変わった。廃虚と占領に始まった日本の変貌(へんぼう)は特にすさまじい。この間、一度も戦争をすることなく、経済・技術の発展は社会を別世界に変えた。60年前に比べれば、はるかによい国になった。
だが、その日本がいま、もやもやとした不安の中にある。
長い不況はようやく脱したが、気の遠くなる財政赤字や急激な少子高齢化で、明るい展望が描けない。働く意欲のない若者も増える。このままでは子供を産みたくても産めない、という親が増えている。
いまや終戦直後のベビーブームなど夢物語なのに、その産物の団塊世代が間もなく続々と定年を迎える。年金が破綻(はたん)しないか、働き手は足りるか。社会のひずみが膨らむことも、戦後60年がはらんだ不安だ。
●勇ましさの功と罪
そうした中、小泉純一郎という異色の首相が人気を保ってきたのは、その元気さからではないか。
「改革」の看板を掲げ、苦境にめげず摩擦も恐れずに立ち向かう。首相の好きな西部劇さながらの勇ましさが受けるのだ。郵政法案の否決に不敵な笑みを浮かべて踏み切った今度の解散は、その典型だった。
古来、むら社会を基盤にしてきた日本は、強権発揮より全体の合意を大事にしてきた。じっくり調整し、そこそこ我慢し、そこそこ満足し合う。総務会で全会一致を原則とする自民党も、終身雇用と年功制の企業風土も、やはり「むら」だった。
だが大きな変革の時代、それでは素早く大胆に対応できない。元気を取り戻すため、痛みを伴う大改革をしたり、思い切って外資を入れたりした企業は多い。「むら」を壊してでも進む小泉流が、だからいま、頼もしく見えるのだろう。
その勢いはまた、不安も招く。
「テロとの戦い」を掲げる米国に呼応して、アフガン戦争ばかりかイラク戦争まで勇ましく「支持」に踏み切り、自衛隊の派遣までやってのけた。そして泥沼に陥ったイラク。テロの行方におびえつつ、いまはその後始末に悩んでいる。
不安といえば、中国や韓国で高まった「反日」も日本のいら立ちの種なのだが、これは互いのナショナリズムの悪循環だ。首相の靖国神社参拝、新しい教科書の動き、そして自衛隊を軍隊にしようという改憲論。これらが隣国の不安をかき立てているのも事実だからだ。
日本のナショナリズムにも理由はあろう。加害の歴史を半世紀以上も責められ続け、首相が繰り返し謝ってきた。それでいて、中国ばかりか北朝鮮まで核やミサイル開発で周囲を脅かす。「加害者扱いはもういい加減に」と被害者意識が広がっていたところに、北朝鮮の拉致問題では本当の被害者になった。
中韓両国の抗議を聞き入れずに靖国参拝を続けた小泉氏は、「内政干渉を許すな」という反撃気分を盛り上げた。中国を侵略したことなど忘れたように「あれはアジア解放の自衛戦争だった」と言い張る勢力まで元気づけてしまった。
●アジア村で生きる術
だが、さすがの小泉氏にもアジア村では人事権も解散権もなく、ダメならぶっ壊すというわけには行かない。もとより戦前のように、力ずくという道もない。揚げ句は国連安保理の常任理事国入りに、両国からあれほど強く反対されようとは。アジアでの和解を目指してきたはずの日本にして、戦後60年の大失態だった。
東アジアは大きく動いている。中国の経済は急成長し、矛盾を抱えた社会には激動の予兆もある。朝鮮半島は行方の定まらぬまま、南北融和ムードが新たな民族感情を育てている。こうした事情が行き過ぎた「反日」にも結びつきがちだ。
一方で、日中には密接な経済関係が育ち、日韓には前代未聞の韓流ブーム。そんな貴重な財産もつくったというのに、無用な元気で彼らの神経を逆なでし、「反日連合」をつくらせるほど愚かなことはない。
つまるところ、アジア村ではじっくり話し合い、何とか合意を求め、譲り合って行くしかないのだ。エネルギーや環境問題など、互いの悩みを共同作業で解決する方法もある。経済でも民主主義でも、日本がリーダー国だと思うなら、そんな旗を振る度量と余裕が必要だ。
冷戦時代が終わって15年。内も外もつくづく難しい時代だ。摩擦を覚悟してやり通すべきは何なのか。和はどこに求めるべきなのか。60歳になった戦後日本に求められるのは、そんな勇気と思慮である。
2005年8月15日 読売新聞
[戦後60年」「『戦争責任』を再点検したい」
60年目の「戦後」である。今年も、東京・九段の日本武道館で政府主催の全国戦没者追悼式が開催される。
追悼対象者の中には、いわゆる「A級戦犯」も、含まれている。過去、その遺族らにも式典の招待状が送られてきた。しかし、そのことが、とりたてて国民の間で議論されることはなかった。
他方で靖国神社への「A級戦犯」の合祀(ごうし)は、しばしば国内でも議論の対象となり、国際問題にもなってきた。
戦争の記憶の風化がいわれるが、「A級戦犯」問題は風化していない。むしろ「60年」という区切りもあって、例年にも増して議論の熱度が高いようだ。
「A級戦犯」問題の複雑さの表れといえるだろう。
なぜ複雑なのかといえば、一つには、いわゆる「A級戦犯」とされた人たちも個々に見れば、「あの戦争」への関(かか)わり方は多様だったということである。
たとえば、死刑になった7人の中で唯一の文官だった広田弘毅元首相については、極東国際軍事裁判(東京裁判)の判事たちの間でも意見が割れた。死刑確定は6対5の1票差だったという。
靖国神社には、死刑の7人を含む「A級戦犯」14人が合祀されている。この中には、開戦回避に尽力し、開戦後も早期講和の方途を探り続けた東郷茂徳元外相がいる。
こうした人物も「A級戦犯」と位置づけられていることが、議論を複雑にしている。
ほかにも「A級戦犯」がいる。合祀された14人を含めて、全部で25人である。この中には、後に池田内閣で法務大臣を務めた賀屋興宣元蔵相もいる。重光葵元外相も含まれている。重光元外相の死去に際しては、国連総会で黙とうが捧(ささ)げられている。
「A級戦犯」問題が風化しない要因として、さらには東京裁判そのものの「性格」についての疑問が付きまとっていることもある。
インド代表のパル判事は、東京裁判そのものは勝者による敗者への「儀式化された復讐(ふくしゅう)」とし、被告全員を無罪とする長大な「パル判決書」を提出した。
ただし、この「判決書」は、講和条約が発効して日本が主権を回復するまで、連合国軍総司令部(GHQ)により、公表、出版は禁じられていた。
東京裁判の国際法的「性格」については、パル判事だけではなく、当時、欧米の多数の国際法学者などから疑問が投げかけられていた。
たとえば、米国の最高裁判所のダグラス判事は「司法的な法廷ではなかった。それは政治権力の道具に過ぎなかった」と述べている。
他方で東京裁判の間、裁く側の国際法違反や侵略行動も同時進行中だった。
ソ連は約60万人の日本人捕虜をシベリアで奴隷労働に従事させていた。
フランスはベトナムを、オランダはインドネシアをそれぞれ再び植民地化しようとして、現地民族独立軍と“再侵略戦争”中だった。
今年5月7日、ブッシュ米大統領は、ラトビアの首都リガで、第2次大戦後の世界の枠組みを決めた米英ソ3国首脳によるヤルタ会談の合意について、「中東欧の人々を囚(とら)われの身とした歴史上最大の誤り」と演説した。
いわば米大統領による「歴史の修正」である。日本にとってヤルタ会談は、米国がソ連に対し日ソ中立条約違反、日本侵略を誘った米ソ“共同謀議”の場でもあった。
とはいえ、「あの戦争」が東アジアの人々に惨害をもたらしたことは間違いない。それは、いまだに歴史的負い目になっている。
結果的に、欧米植民地の独立を早めたとしても、日本はそれを目的に開戦したわけではない。
そして戦争は、日本国民をも塗炭の苦しみに陥れた。
しかし、当時も開戦に反対した人たちは、政・軍・官・民の各界にも少なからずいた。それなのに、なぜ、あのような無謀な戦争に突入してしまったのか。
対米英蘭戦争の責任は、東条英機内閣だけにあったのか。その前の近衛文麿内閣は、どうだったのか。対米英蘭戦争につながることになった日中戦争は、どういう人たちの責任なのか。広田元首相の死刑は不当だったとしても、責任はなかったのか。
開戦後も、戦局の悪化にもかかわらずいたずらに早期講和への道を阻んで、内外の犠牲を増やし続けていった責任はどうなのか。
東京裁判がきわめて疑問の多い粗雑なものであったとすれば、こうした「戦争責任」を、日本国民自らが再点検してみるべきではないか。
戦勝国による政治的枠組みの中で規定された「戦犯」概念とは一定の距離を置いた見直しが、必要だろう。
それは、「A級戦犯」14人を合祀した靖国神社の論理とも一定の距離を置いた見直しでもあろう。
「60年」という区切りにどういう意味合いがあるにせよ、そうした国民的な歴史論議を始める「時代の節目」を迎えているのではないだろうか。
2005年8月15日 毎日新聞
終戦記念日 とんがらず靖国を語ろう 還暦機に幼稚さから脱して
終戦の日から今年で還暦。小泉純一郎首相はじめ世間の多くの影響力ある人たちにとってさえ、あの戦争は記憶の中にあるのでなく記録の中にある。
だからこそなのだろう。この60年を問い直す動きが内外で盛んにわき出している。小泉首相の靖国神社参拝への賛否に象徴されるあの戦争とその後の60年全体に対する再評価の必要性が切実さを増している。それなしには前に進むことに支障をきたすことが現実にふえている。
今年春中国で起きた連続的な反日デモ、国連安全保障理事会常任理事国入りに対する中国や韓国の非常に積極的な反対運動、教科書の記述内容などで再燃した歴史認識問題、東シナ海ガス田開発や竹島領有権問題が象徴する不必要な境界紛争など「戦後」にまつわる解決困難な問題が次々にクローズアップされている。
◇日中不仲は双方損だ
その結果たとえば東アジア共同体構想、アジア全体の自由貿易協定、北朝鮮の核問題に象徴される東アジアの安全保障、さらにはグローバリゼーションが進む中での日中協力の基本的な将来像作りと日米関係再構築のバランス、米軍再編成に伴う日本の安全保障体制の再設計などなど、将来を決める重要テーマの前提が不安定になっている。
日中首脳会談が自由に開けない現状それだけでも、日本中国両国だけでなく世界にとって迷惑な話になっている。たとえば元の為替自由化を近い将来に控え、円ドル委員会30年の経験を中国通貨当局に伝えるかどうかに始まって、数々の省エネ技術から上海万博のお客さん対応での門外不出のノウハウを愛知万博当局から伝授するかどうかまで、中国が必要としている日本のノウハウは実は無限に近くあるのだ。それらを気持ちよく共有できるかどうかは日中両国信頼関係の根源につながっているし、世界経済運営への影響も絶大なのだ。なにも伸び盛りの中国だけが優位に立っているわけでは決してない。
むしろ日中不仲で、日本が60年かけて積み上げてきた各方面さまざまなノウハウや特許、知的所有権やシステム設計力と中国の生産意欲や活力やダイナミックな社会変化の力が奇跡的にでも結びついて、現在地球上で最も強力な経済連携地域ができないことに、米国や欧州はほっとしているのかもしれない。
たとえば小泉首相の靖国参拝で再び中国で猛烈な反日デモが起きて困るのは誰なのか。周囲の情勢変化によって影響も反応も同じではない。時には参拝が中国当局に対する脅しにさえなることを小泉首相は途中から十分に認識しているに違いない。力関係だけからみれば攻守逆転しかけているともいえる。
だがそうしたそのつど主義だけで目先の難問を解決したつもりになっているのは誤りだろう。あの戦争が100%否定され、中国共産党が一点の曇りもない正統な存在だ、いや全くそうではないと全否定同士のぶつかり合いを続けて、レベルの高くないナショナリズムをあおりあって、国内政権維持に利用しあうのはおろかなことである。
時の政権がそれぞれ自分に都合のいい歴史の見方をするのは古来仕方のないことで、そういうことをする力を政権という。それを日中ともお互いが否定しあうだけでは実に幼稚である。
お互いの言い分の存在を認めた上で、矛盾したり不都合な部分をどう案配していくか、それが外交である。それができなければ今時、現代、つまり過剰なほどの情報が世界中を行きかっている時代の立派な政府とはいえないということだ。「二度と戦争を起こさないと靖国参拝して、どこがいけないのか理解できない」と支持者の内々で言うなら勝手だが、日本国の首相が国会でそんなレベルの低い言い方をしてはいけない。
戦争被害者からみれば日本軍は自分に都合のいい理屈の下で勝手に押し寄せてきて、山ほど殺されたのだ。その日本軍に命令を発し続け、見ようによってはもっと早く戦争終結が可能だったのを続行に全力を傾注し、国際的に認められていた戦争捕虜の権利を兵に教えず、「生きて虜囚の辱めを受けず」と玉砕を強要し、数百万人以上の死にかかわる決定を下し、そう行動した東条英機元首相ら戦争指導者が祭られている靖国神社を首相が参拝してはいけない。
◇分祀はやればできる
ましてやその賛否論を通してあの戦争は正しかったとナショナリズムをあおる人たちは上品でない。愚手だ。
もともと天皇が参拝してこそ意味のある靖国だ。靖国に祭られる最後の御霊(みたま)がなくなったころ小泉首相はまだ幼児、長じて首相になったからといって眦(まなじり)を決して参拝しても遺族の参拝以上のありがたみはない。力をこめればこめるほど見ているほうが気恥ずかしくなる。
今後も首相が代わるたびに毎回同じことを繰り返すことに大きな意味は見いだしがたい。政教分離問題もあるが、終戦から暦が一巡したのを機会に、A級戦犯ほか希望者の分祀(ぶんし)によって靖国を内外ともわだかまりなく参拝できるようにすればいい。
靖国神社や特定の遺族だけで分祀はできないと決める資格はないはず。戦没者の扱いは全国民の関心事だからだ。分祀など靖国があまりにも歴史の短い神社なのでやったことがないだけのことだ。このたび初めて分祀すればそれがしきたりになる。
2005年8月15日 日経新聞
〔戦後60年を超えて〕謙虚にしたたかに国際社会を生き抜く
あの敗戦の日から60年を迎えた。南洋のジャングルで、南海の孤島で実に多くの将兵が悲惨な最期をとげた。空襲や原爆、沖縄戦で多くの非戦闘員も犠牲になった。日本人の犠牲者の総数は310万人に達する。多くの人々が癒やしがたい傷を負い、廃虚に立ちつくした。中国は日本の侵略による犠牲者が2000万人に達するとしている。改めてすべての戦争犠牲者に哀悼の意を表し、厳粛な思いを込めて平和国家、民主国家への誓いを新たにしたい。
敗戦のけじめ忘れるな
それにしても理不尽な戦争だった。軍部の独断専行でなし崩し的に中国を侵略し、日中戦争が泥沼化すると場当たり的に南方に進出し、ついには勝ち目のない対米英戦争に突入して国家を破滅させ、周辺国に多大の損害を与えた戦争指導者の責任をあいまいにしてはならない。
戦後60年の今年、日本の「戦争のけじめ」が大きな論議になった。東条英機ら戦争指導者を合祀(ごうし)する靖国神社への小泉首相の参拝に中国、韓国が強い異議を唱え、日中、日韓関係が一気に険悪化したからである。ことあるごとに歴史問題を持ち出す中国、韓国の姿勢には同調しないが、日本が過去の戦争のけじめをあいまいにする態度をとれば、近隣諸国と信頼関係を維持するのが難しくなるのも事実である。
日本は東条ら戦争犯罪人を裁いた東京裁判の結果をサンフランシスコ平和条約で受け入れて対外的な戦争のけじめをつけ、主権を回復して国際社会に復帰した。東京裁判については様々な見方がありうるが、いまさらその当否を蒸し返しても国際的に通用しない議論であり、日本の国際的な信用を損なうだけである。
敗戦国の日本が戦争のけじめをあいまいにして国際社会で生き抜くことは難しい。A級戦犯を合祀する靖国への首相参拝が諸外国に誤解を与えることがないよう、小泉首相は国益や外交戦略を踏まえて慎重の上にも慎重な判断をすべきである。
戦後の日本は平和国家に徹し、めざましい復興を遂げ、世界有数の経済大国になった。これは誇りうる歴史である。痛恨事は1980年代後半のカネあまり状況で企業も個人も投機に走ってバブル経済を現出させ、その崩壊によって巨額の国民の富を一気に失ったことである。
バブル経済崩壊はまさに「第二の敗戦」である。今年の経済財政白書は日本経済がバブル崩壊の後遺症である過剰債務、過剰雇用、過剰設備からようやく脱したと宣言した。戦後60年の節目にあたり、わたしたちは先の大戦の敗戦や第二の敗戦から真剣に教訓を学び取り、これを将来に生かしていくべきだろう。
「根拠のない熱狂」は身を滅ぼすもとである。戦前の日本はナショナリズムと軍国主義の熱狂に踊って国を壊滅させた。バブル経済の時代には土地や株、さらにゴルフ会員権や美術品などへの投機に熱狂し、巨額の借金と不良債権の山が残った。
人々は日々の仕事と生活に追われ、成功すれば気分が高揚し、失敗すれば気分が落ち込んで何かに不満のはけ口を求めようとする。そうした積み重ねで気がつけば国全体が極端に偏った方向に流されることが起こりうる。わたしたちジャーナリズムの自戒も込めて、常に謙虚さと冷静さを失わないよう肝に銘じたい。
小さな賢い政府めざせ
リアリズムの欠如は国を誤らせるもとである。戦争末期、当時の政府や軍部は終戦の仲介をソ連に要請した。ソ連は戦争の分け前を狙ってすでに米国と対日参戦で合意していた。あるはずのないスターリンの善意にすがろうとした政府や軍部のお粗末さには愕然(がくぜん)とする。そのために終戦の決断が遅れ、さらに多くの人たちが犠牲になった。
戦後も「非武装中立」などの空理空論を大まじめで主張する人たちがいた。国際政治では各国の国益がぶつかり、熾烈(しれつ)な駆け引きや情報戦が展開される。国益を守るためには思い込みや唯我独尊を排し、正確な情報を集め、粘り強くしたたかに行動することが大事だ。
戦前の軍部、とりわけ陸軍は制御不能な巨大組織であり、エリート意識過剰でおごり高ぶり、下克上がまかり通る退廃した組織だった。バブル経済崩壊によって、日本の官僚組織も肥大化しすぎて政治のコントロールがきかず、国民の重荷になっている実態が明らかになった。
肥大化した官僚組織は国民の災いのもとになる。構造改革は巨大化した政府組織をスリム化する試みである。活力ある経済社会と文化国家をめざし、主権者である国民の努力と責任で「小さな賢い政府」をつくり上げることが戦後60年を超えた21世紀の日本の課題である。
2005年8月15日 産経新聞
終戦記念日 分水嶺となる戦後60年 総選挙が絶妙に用意された
きょう八月十五日、日本は六十回目の終戦記念日を迎えた。人間で言えば六十歳、還暦である。
再び生まれたときの干支に還(かえ)るその由来から、日本人は還暦に新たな始まりを見てきた。だから日本もまた節目の時を迎えているという寓意(ぐうい)は、戦後六十年ならではのことである。
≪慰霊の月に思いを致す≫
しかし、いままず思いを致したいのは、日本にとって八月とは永遠に慰霊の月であるということである。
先の大戦で日本は三百万を超す貴い命が犠牲になった。国土は破壊され、終戦の日、東京や主要都市には焼け野原が広がっていた。中国はじめアジアの地にも多くの犠牲を強いた。
それは国策遂行、戦争指導の無残な結末であったが、当時、多くの国民が「自分たちの戦争」との思いで必死に戦ったこともまた、紛れもない事実ではなかったか。
いまを生きる日本人は、もはや大半があの戦争を実際には知らないとしても、犠牲者への真摯(しんし)な追悼の気持ちを忘れぬよう、八月こそ絶えずこの原点に立ち返る月でありたい。
奇(く)しくも戦後六十年の日本は、参議院での郵政民営化法案の否決によって小泉純一郎首相が解散・総選挙で国民の信を問うという戦後政治史上初めての事態となった。厳しい残暑の中、事実上の熱い選挙戦は始まっている。
これからの日本をどうするのか。国はどうあるべきなのか。還暦の寓意にこれほどふさわしい状況もない。
国際政治学者の中西輝政氏は「歴史観の六十年周期説」が持論という。多くの人々の歴史観を決定づけるような大戦争や革命は、六十年ほどたつと評価や見方(いわゆる歴史観)が不思議なくらい大きく変わり始める。
時間の経過による「展望」の変化によって、目に見える景色とそのイメージが質的に変容を来す臨界点というものがあるからだという。
中西氏は普仏戦争とナポレオン、第一次大戦、日露戦争などを例として挙げているが、日本の戦後六十年も、こうした「展望」の変化と臨界点を目撃し始めているように思われる。
例えば外交である。近現代史を通じて日本のアキレス腱(けん)でありつづけてきた対中外交は今春、中国全土での暴力的反日デモの嵐にさらされた。
だが特筆すべきは、日本人が総じてデモの本質を冷静に見抜いていたことだ。少し前までの日本人なら、相手の非を問うより自ら恐れ入って反省し、頭をたれるのに忙しかっただろう。
現実は雄弁である。
首相の靖国参拝は「軍国主義復活」と言われても、実際の日本は六十年の間、一度として他国と戦わず、国連や世界銀行など国際機関を支え、途上国経済援助は十年間世界一位だった。
この間、中国は朝鮮半島へ出兵し、金門島を砲撃し、インド、ソ連(当時)、ベトナムと戦端を開いた。内にあっても大躍進政策に文化大革命、天安門事件と多数の国民を死に追いやり、窮乏、悲嘆の淵(ふち)に陥れた。いまは経済力の発展に伴って、急速な軍備拡大を続ける。
≪「展望」の変化の加速を≫
少なからぬ日本人は、反日デモなるものは日本の国連安保理常任理事国入り反対に歴史カードが使われたためと見た。すでに日中関係は、東アジアにおける戦略的競争・対立という新しい段階に入っているのである。
変化する国際情勢の下、イラク・サマワへの自衛隊派遣は日米同盟を緊密化させ、現地住民に感謝されている。だが同時に、駐サマワ自衛隊が他国に治安を委ねながら、その他国はもとより自分自身さえ十分に守れない現実も直視しなければならない。
「経済大国・政治小国」と揶揄(やゆ)もされるアンバランスな国でありながら、そのことに痛痒(つうよう)を覚えない二重の意味で特異な国として、戦後の大半を過ごしてきた。ようやくいま憲法改正を望む世論は半数を超す。
「偶然は準備ある者のみに恵むもの」と述べたのはフランスの細菌学者パスツールである。解散・総選挙は国のあり方を根底から問う歴史的機会として、絶妙に用意された「偶然」なのかもしれない。戦後六十年を「展望」の変化を加速させ、新たな旅立ちへの分水嶺としたいものである。
2005年8月15日 北海道新聞
終戦から60年*「記憶」受け継いでいく責務
終戦から六十一年目の夏がめぐってきた。
三十年間を一世代とする数え方に倣えば、敗戦の日から二世代分もの時間が流れ過ぎたことになる。
六十年の間に、日本の人口の四人に三人は戦後生まれになり、大がかりな世代交代が進んだ。
それは、あの戦争と戦時下の暮らしをじかに知る人びとが、年ごとに少なくなっていることを意味する。戦争体験者のかけがえのない記憶が、日々失われている。
歴史を知ることは、現在を理解し、未来を見通すことだともいう。今の、あるいは次の世代が道を誤らないための道しるべが歴史だ。
その標識の文字が薄れてはいないのか、ひとしお気を配らねばならない時代に、私たちはさしかかった。
*一人一人の体験の重さ
戦後六十年の今年、北海道新聞は、さまざまな場所、状況で戦争に出合った人々にその体験を語ってもらう「戦禍の記憶」を連載してきた。
あらためて通読した時、それぞれの体験の、あまりのむごさ、痛ましさに言葉さえ失う思いがする。
八十歳の男性は、中国大陸で「上官の命令は大元帥(天皇)陛下の命令」と強制され、心で「許してください」と謝りながら、中国人女性を銃剣で突き刺した兵士時代の体験を明かし、こう語っている。
「女性の『グワ』という声が六十年たった今でも脳裏から離れない」
旭川の師団から南方に派遣された八十六歳の男性は、ガダルカナル島での悲惨な戦闘を語っている。
この作戦は、軍の指導層が敵をあなどり、十分な食料も武器も情報もないまま強行した。その結果、上陸した三万人の日本兵のうち二万人が死に、しかも大半が餓死だった。
「ヤシの木のしんまでしゃぶった。腕くらいの太さのトカゲも皮をはいで食べた」
戦地での体験だけではない。朝鮮人労働者が、道内の炭鉱や建設現場で虐待され酷使されるさまを目の当たりにした子供時代の記憶を、鮮明に語る証言もある。
一人一人の胸に焼き付けられたこうした記憶は、貴重だ。
ふつう「歴史」として語られるものは、さまざまな出来事の全体を上から眺めた図面のようなものだ。
それに対し、個々の記憶には、歴史を形づくる事実の細部を、まざまざと浮き立たす力がある。細部から、時代を貫く教訓をくみ取る時、歴史は鮮明な道しるべとして立ち現れてくる。
戦争を語り継ぐ重みは今もなお、いささかも減じてはいない。
*戦後は終わっていない
次の世代へと戦争の歴史を伝えていかなければならない必要性は、このところ特に高まっている。
終戦から二世代の時間を経過した結果、日本の中に、戦争そのものを過去の歴史に封じ込めるかのような風潮が強まっていることを感じるからだ。
その例として、最近の中国や韓国との激しい摩擦や、憲法改正への動きに注目したい。
中国は、日本の首相の靖国神社参拝をとがめ、韓国は日本の植民地支配の中で生じた被害の戦後処理の不十分さにいらだっている。
中韓両国民の、反感と憎悪をむき出しにしたかのような言動には時に、鼻白む思いがするのは確かだ。
ただ、その激しさには、日本が加害国となった戦争の影が、濃くにじみ出ている。本紙連載「戦禍の記憶」では日本が中国や朝鮮半島の人々に何をしたか、が語られている。
これは、された側にも被害者としての「記憶」が鮮明なことを意味する。痛みの記憶は容易には消えない。「戦後」は、なお終わってはいない。
中国や韓国の激しい反日感情の沸騰に日本国内では、侮蔑(ぶべつ)的とも傲慢(ごうまん)ともとれる反応が目についた。
それは加害の記憶が薄れつつあることを示唆してはいないのだろうか。
*「名誉ある地位」目指し
戦後の日本は、日本が戦争の当事国となり敗戦国となった事実を踏まえて国づくりを始めた。国家の基本法である日本国憲法そのものが、いわば敗戦の産物だ。
だから、現憲法を改めようとする動きには、過去の戦争から身軽になるという一面がある。しかも、主要な改憲論の眼目は「戦争をしない国」という原則を変えることにある。
日本は、戦争を放棄することで、国際社会に「名誉ある地位を占めたい」(憲法前文)と願った。その願いは達成されたのかを確かめることも、この際、必要なことだろう。
そのためには、日本による被害の記憶を幾世代も受け継いでいる、アジアの声に耳を傾けなければならない。
その時、戦争を、絶えず振り仰ぐ確かな道しるべとしているのでなければ、日本が共感を得ることは難しい。
十年前の戦後五十年に、日本は「痛切な反省の意と心からのおわび」を世界に表明した。以後も政府は、同じ趣旨のことを述べてきた。残念だが、それが本心からのものとしては理解されていない。
その現実を戦後六十年の今こそ、重く受け止めたい。
2005年08月14日 河北新報
戦後60年/失っていけないものは何か
60年という歳月は、生まれたばかりの赤ちゃんにその孫を抱かせる時間に相当する。
1945年8月15日。日本はポツダム宣言を受け入れ、終戦に至った。当時、小泉純一郎氏は3歳の幼子。60年後の今は一国の指導者の地位にある。
戦後60年。日本はこの間、何をなしえて、何をなしえなかったのか。折から、総選挙を控える。1票の行使に当たってはこの点も忘れたくない。
<隣国との友好>
少なくとも、近隣の中韓両国との間に十分な信頼関係が築けていない。ここ数カ月、日本の国連安保理・常任理事国入りをめぐる問題はそれを象徴する。両国は国際舞台で反対運動を繰り広げる厳しい姿勢をとる。
とりわけ中国との関係は1972年の国交正常化以降、ここ4年弱が最悪の環境にある。首脳同士の相互訪問がすっかり途絶えてしまった。
中国国民の感情もまた良くない。長年の反日教育は度を越す。この春の暴徒化した反日デモは見ての通り。大使館の窓ガラスを破るなど破壊行為が横行した。反日感情の政治利用もあって一筋縄でいかない。
中韓両国のわだかまりの一番は首相の靖国神社参拝にある。中止を求められる度、首相はこう応じる。「戦没者の尊い犠牲のうえに今日の平和と繁栄がある…。平和の誓いを新たにするために参拝している」
かつて戦争遂行を指導したA級戦犯を合祀(ごうし)する神社に首相が詣でるというのは、向こうにすれば戦争責任の忘却、無反省に映る。戦犯の顕彰、不戦の誓いの放棄にも見える。加害者側の論理でもって被害者側の記憶は薄められない。
わたしたちは時代を引き継ぐとき、プラスの財産だけを受け取れない。マイナスの財産も負う。わだかまりは解いていくしかない。これが否応(いやおう)のない民族の世代継承の歴史である。
日中・日韓間には、ほかにも懸案事項がいくつも横たわる。尖閣諸島や竹島の領有権、東シナ海のガス田開発などがすぐ挙げられる。日本は主張すべきは主張したうえで解決を図りたい。誠意を持って。
<財政再建早く>
過去60年を振り返れば、未処理の課題が山積する。ロシアとの間に北方4島問題があり、北朝鮮とに核・拉致被害者の問題などが残る。これも世界の冷戦に組み込まれたがゆえだが、沖縄をはじめ国内には米軍基地・施設が多数存在する。独立国なら本来、ないのが国の形である。東アジアに残る対立構造の雪解けはいつになるのか。
内政を見ても難題は多い。膨大な財政赤字は、国・地方合わせて800兆円に迫る。国民一人当たり約600万円と計算できる。3割自治と揶揄(やゆ)される地方分権もなかなか伸展しない。年金、医療、郵政も大きな曲がり角に来ている。
最近こそ勢いは失われたものの、戦後しばらくの経済成長には目を見張るものがあった。
ここで、日本の貿易の現況を見てみたい。昨年の全貿易中、対中国は20.1%を占める。これに対し対米は18.6%にとどまる。初めて関係が逆転した。これは、戦後長くの対米依存姿勢の転換を求めていることをも物語る。
中国は、米に比べれば政策・制度・社会などに不安定な面があることは否めない。しかしながら貿易の現実に従えば、外交通商の比重は、米と同格の位置付けが急がれる。アジア全体との貿易総額は45%を超える。過去の米との関係に等しい。
日本は少子高齢の時代を迎えている。人口は2年後に減り始める。生産年齢層が縮小を続ければ、経済も縮んでいく。国際競争力は次第に衰える。この面から言っても、アジア各国との生産力、労働力の分担は避けられない。
<平和憲法の心>
自民党による憲法改正草案第一次案が先ごろ出た。民主党も来年、案を明らかにする。
平和憲法を手にして約60年。制定のいきさつがどうあれ、わたしたちはこの憲法を道標として世界の国々と付き合い、日々の暮らしを立ててきた。
国際テロが暗躍する。これに対テロ戦争が応える。さらに多くの国々では地域紛争が頻発する。明らかに憲法制定時と国際情勢は変化している。軍隊を持たない国の国際貢献には限りがある。
これまで政府は、便法として特別措置法を立て自衛隊の海外派遣を行ってきた。盟友に求められたアフガンとイラクの両戦争への協力はその典型だ。
しかしながら、いつまでもどこまでも九条の拡大解釈は許されないというのが世論の大勢だ。そこで改憲派は正規の軍の必要を訴える。
ただし仮にそうであったとしても、縛りは厳格に定める必要がある。極めて限定的にしか派遣できない法整備であらねばならない。解釈の幅が大きくては、軍なり自衛隊なりが恣意(しい)的に使われる恐れがある。いつか来た道は決して許されない。
軍を持つとなれば、近隣諸国は大いに反発しよう。そのとき、日本はあらためて戦争放棄の旗を高く掲げなければならない。世界の国々の心配が杞憂(きゆう)であると思うほど高く。
平和憲法を持って国再建の道を歩んだというのが戦後史の中心的デザインだ。おかげで、その後の戦争が回避できたとも言える。これからの国家像・憲法は、この60年を引き継いだ形を基本にしたい。
近隣の国々から、また世界から信頼に足る日本の建設。次の節目の100年までには必ずや。
2005年08月15日 東京(中日)新聞
戦後60年に考える
『変調』を見逃さずに
反省を忘れると、過ちを繰り返す。敗戦から六十年、最近の外交の行き詰まり、それをめぐる政治や世の中の動き、空気を見ているとあらためて心配になります。
「微妙な変調を呈しはじめた」
吉田茂元首相の回想録を読むと、戦前の部分によく「変調」という言葉が出てきます。クーデター、日英同盟廃棄などの歴史の曲がり角で、少しずつ方向を間違え、結果として、国は過ちを犯しました。
ことしは敗戦から六十年、東洋の暦では一回りして元に戻るという意味があります。
過ちを繰り返さないために、今の世の中「変調」を来していないか、当時に戻って、一度点検してみるいい機会です。
■自国中心主義の台頭
もっとも気になるのは、外交の行き詰まりです。小泉純一郎首相の靖国神社参拝などが原因になって、中国や韓国の反日感情、ナショナリズムを刺激しています。
このため、北朝鮮による日本人拉致問題で両国の積極的な協力が得られず、国連安保理常任理事国入りの障害にもなっています。
その反動で、国内では領土問題もからんで反韓国、反中国感情が高まっています。「何回反省したり、謝罪しなければならないのか」といういら立ちや、中韓への声高な非難、強硬論に拍手がわきます。
小泉首相は、内外からの参拝取りやめの声に耳を傾けず、むしろ自国中心主義、排外主義をあおる格好になっています。
一方で、北朝鮮の核兵器開発や中国の軍事力増強などを理由にした、ミサイル防衛(MD)、イージス艦の配備など自衛隊の軍備強化が確実に進められています。そして自衛隊はイラクまでも。
小泉政権の日米関係偏重は、自衛隊を自衛でなく、米国の世界戦略を支える存在に変えつつあります。
■「現実的対応」の危うさ
「現実的対応という合言葉のうちに、理念と理想が失われれば、第二次世界大戦前の外交の誤りを繰り返すことになりかねまい」
小倉和夫・前駐仏大使の警告です(「吉田茂の自問」藤原書店)。
一九五一年、吉田元首相は外務省若手に指示して、戦前を検証して調書「日本外交の過誤」をまとめました。それを分析してのことです。
「それしか現実に選択肢はない」「現実の中国の情勢を考えれば、武力に頼るのもやむを得ない」という「現実」との妥協の積み重ねが外交を誤らせ、悲劇を招いたのです。
そして、小倉氏は「日本の過去の反省に基づく理想主義的な平和外交の理念」がいまタブーになっていないかと「変調」を危惧(きぐ)します。
周辺国からは「軍事大国化」という誤解による非難も聞こえます。
そこで、添谷芳秀・慶大法学部教授は、「中級国家外交」の勧めを説きます(「日本の『ミドルパワー』外交」ちくま新書)。
日本は、軍事力をよりどころにして、世界秩序に関与する超大国、大国にはなれません。それに「アジア侵略の歴史」もあります。
「大国外交にはなじまない領域(多国間協力など)においてこそ重要な影響力を行使できる」
具体的には(1)日米関係を基軸に(2)「人間の安全保障」を外交の「顔」として(3)アジアにおける共同体形成に深く関与する−をあげます。
「人間の−」は、一九九四年に国連開発計画(UNDP)が唱え、故小渕恵三首相が推進役になり、今でも日本外交の柱の一つです。「欠乏からの自由」「恐怖からの自由」を目標に、経済、環境、食糧、健康、地域社会などの分野で、人びとの生存、生活、尊厳を保障する仕組みをつくることです。
対東アジアでは軍拡でなく、不安定要因の除去、対立の緩和の仕組みづくり、東アジア共同体により積極的に努力する必要があります。
日本の平和主義、非核三原則、武器禁輸政策は大きな説得材料です。
こうした「等身大」の外交戦略を内外に広くアピールすることで、周辺国の誤解を招くことなく、国際的役割を果たせるはずです。
ところが、最近はここから逸脱しようという動きが強まっています。先に述べた偏狭なナショナリズムや過去の反省を忘れた「大国主義」とあいまってのことです。
杞憂(きゆう)かもしれませんが、海外での武力行使を禁じる憲法を持っていてよかったと思います。
外交が行き詰まり、国内に不満がたまると、武力を背景に相手を従わせる誘惑に駆られる。これが戦前の誤りですが、いまは憲法が歯止めになっています。これからの憲法論議で忘れてはならない部分です。
■総選挙の選択材料に
六十年後、あのときの「変調」がこの国を誤らせた、と次の世代から指弾されてはいけません。戦争をしなかった六十年をさらに引き継ぐのが私たちの務めです。
この暑い夏に総選挙です。どの政党、候補者がそのための努力をするのかも、選択肢の一つに加えたいものです。
2005年8月15日 神戸新聞
終戦60年/あの日々の記憶を呼び覚まそう
山陽電車西代駅すぐそばのマンションの一室の電話が、この七月末から日に何度も鳴った。「神戸空襲を記録する会」が事務局を置く、会代表の中田政子さんの自宅の電話である。
「記録する会」が空襲犠牲者の名簿づくりをするために、新聞などを通じて遺族や知人に協力を呼びかけたのに対する回答や問い合わせだった。
いまから六十年前の先の大戦末期、日本は米軍機の空爆撃にさらされ、被災都市は全国で百十三(合併後百八)にもおよび、五十万人を超える犠牲者が出た。神戸も幾度となく襲われ、特に激しかった三月十七日と六月五日の二日間だけで犠牲者は八千人以上といわれる。
しかし、公式記録はなく、正確な犠牲者数は不明のままである。犠牲者の名前も多くはわかっていない。
一九七八年から「記録する会」が神戸市兵庫区の寺院で慰霊祭を始めたのをきっかけにして、寺の過去帳に記帳する形で四百四十八人分が集まったが、多くの犠牲者のごく一部にすぎない。戒名だけというケースもある。信仰、宗派が違うと、記帳をためらう人もあっただろうと思われる。
宗教を問わず、あらためて犠牲者の名前を集めて慰霊をするとともに、戦争を繰り返さない誓いにしたい。中田さんたちのこの夏の活動を支える思いである。
犠牲者名が持つ意味
六十回目の「八月十五日」がめぐってきた。節目の年の今年は、特別の思いで迎える人が多いだろう。その一方で、戦争体験を持たない人が国民の三分の二を占めるようになり、あの惨禍も遠い時代のことになりつつある。自分の国が戦争をしたことさえ知らない若者が少なくないのも、またまぎれもない現実である。
そんな中で、神戸に先んじて東京、大阪や富山、岡山などで、市民運動を中心にして空襲犠牲者の名簿づくりが広がった。それには、いくつかの意味がこめられていると思う。
ひとつは、体験世代が高齢化し、いま取り組まなければ不可能になるという現実である。もうひとつは、空襲被害に具体性を加えることだろう。
名前があることによって、一人一人が生きていた事実に近づく。ついその瞬間まで、一家のために働き、将来の夢に向かって学び、家族に見守られて育ちつつあったいのちが、なぜ無残に断ち切られなければならなかったか。犠牲者何人の中の一人ではなく、生きていた人間の実体をともなって迫ってくる。
中田さんのケースをたどってみよう。
実は、中田さんには空襲体験がない。神戸大空襲の三月十七日当時は、お母さんのおなかの中にいたからだ。記憶は、戦後、物心ついたころからの大輪田橋(兵庫区)東たもとから始まる。
母は毎年、この日に中田さんを連れ、自宅近くの橋を訪れた。花と線香を供えて、「お姉ちゃんがいたんだよ。弘子という名前だったんだよ」と語り続けた。
空襲の日、母は一歳十カ月の弘子を背負って逃げた。大輪田橋の東たもとにたどり着き、意識を失った。火炎の熱で気を取り戻したが、全身やけどの火ぶくれで弘子を抱くこともできなかった。投げ出した足の上に弘子を乗せ、空をかくようになでるまねをするのが精いっぱいだった。次の爆撃で吹き飛ばされて、気づいた時は橋の西たもとにいた。探しても、探しても弘子はみつからなかった。
戦争の実相を知る
たった二枚残った写真の中に、愛らしい弘子がいる。死ぬ必要のまったくなかった幼い姉の姿と、母が語り続けて残した言葉から、中田さんは戦争を実感する。
わたしたちの国は、惨禍の体験から「戦争をしない国」として戦後を生きてきた。大きな喪失体験を持つ世代が社会の中心にいたころは、「不戦」の意志は揺るがなかった。しかし、時間がたつにつれ、戦争は遠い時代の出来事になった。
残念なことだが、世界で戦火が絶えることはなかった。名前を持ち、普通に生きる人々がいのちを落とし、傷つき、家や仕事を失い、生きるすべを奪われる。
しかし、記憶の薄らぎとともに、わたしたちの想像力はしぼみ、戦争は人間の輪郭をともなわないものになりつつあるのではないか。
それに正比例するかのように、「普通の国」になるべきだという声が高くなってきた。この夏、自民党が発表した憲法改正草案の一次案は、自衛「軍」を保持し、「国際社会の平和および安全確保」のために自衛「軍」を使い、海外での武力行使にも道を開いている。集団的自衛権も自衛に含まれるとして、明記こそしていないが容認した。「一国平和主義は通用しない」が改憲を主張する人々の論拠のひとつだ。
イラク戦争にみるように、唯一の超大国による「力の支配」に歩調を合わせ続けることが、国際貢献なのだろうか。
わたしたちには、想像力を取り戻す努力が要るだろう。戦争では、なにが起こり、だれが、どのようにして、いのちを失うのか。六十年前の名前をたどるのは、その有効な方法だろう。いまが最後の時かもしれない。
2005年8月15日 中国新聞
終戦記念日 歴史をもっと知ろう
きょうは終戦記念日。戦後六十年たった今も犠牲になった兵士・市民の遺族、アジアの人々の痛みは続く。犠牲者を二度と出さないように戦争、暴力のない世界の構築へわれわれは歩み続けたい。不戦の誓いを新たにするには日本の戦前戦後の足跡をたどり、自らの歴史認識を培うことが出発点になると思う。
外務省がホームページに「歴史問題Q&A]を掲載している。戦後六十年に当たって「先の戦争に対するわが国の歴史認識および戦後処理等に関する内外の関心が高まっていることを受け作成した」。英語版にも載せる。
取り上げているのは、歴史認識のほかアジア諸国への公式謝罪の有無、総理の靖国神社参拝、「南京大虐殺」に対する考え方など十項目だ。
歴史認識について「かつて植民地支配と侵略によって、とりわけアジア諸国の人々に多大な損害と苦痛を与えた。痛切なる反省と心からのおわびの気持ちを刻みつつ…」としている。
靖国参拝では、小泉純一郎首相が「今日の日本の平和と反映は多くの戦没者の尊い犠牲の上にあると思います。不戦の誓いを堅持することが大切であります」と表明していることを紹介。過去の植民地支配と侵略を正当化しようとするものではないとする。
ただし、中国や韓国との間で論点になっているA級戦犯合祀(ごうし)への言及はない。これでは中韓の人々への説得力に欠けるばかりでなく、日本国民に対しても不誠実である。
「南京大虐殺」に対する見解では「日本軍の南京入城後、多くの非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています」と説明。しかし、被害者の人数については諸説あり、政府として人数を認定することは困難である、と表明している。まるで第三者のような答え方である。
長い歳月の中で、できることならば触れたくない「加害意識」の風化は進んでいく。しかしそれに安住していたのでは、被害を受けた人々との感情の「すき間」は広がるばかりではないか。小泉首相が不用意に発した「罪を憎んで人を憎まず」は、その一つともいえよう。
日本がアジアの人々の信頼を取り戻すには、意識的な努力が要る。遠回りだが一人一人が「過去の記憶」をすくい上げ、身につけることが大切ではないか。
その取っ掛かりになるのが六十年前の八月から九月にかけての出来事。六日の広島原爆投下、九日の長崎原爆投下、十四日のポツダム宣言(降伏勧告)受諾、十五日、昭和天皇による降伏の放送、九月二日の米国軍艦ミズーリ号上での降伏調印と続いた。
これらの惨禍と敗戦までの経緯をいま一度、たじろがずに直視する時である。
2005年8月15日 西日本新聞
「首相談話」を実行で示すとき 戦後60年の夏に
小泉純一郎首相が終戦六十年を機に「談話」を発表した。
終戦五十年に当時の村山富市首相が出した談話を踏襲して「かつての植民地支配と侵略によって、アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を謙虚に受け止め、あらためて痛切な反省と心からのおわびの気持ち」を表明している。
そのうえで中国や韓国をはじめとするアジア諸国とは「ともに手を携えてこの地域の平和を維持し、発展を目指す」ことを誓う内容だ。
× ×
私たちもそのとおりだと考える。首相談話の言葉どおり対アジア外交が、今後実行されることを期待したい。
談話が言葉だけに終われば、行き詰まっている日本の対アジア外交は、打開の糸口さえ見いだせなくなる。
先の大戦で敗れ、米国の占領を経験した日本は平和憲法を持ち、一度も戦争にかかわることなく驚異的な経済発展を遂げた。私たち国民の多くは荒廃から出発し、先進国入りした復興の軌跡に少なからぬ自負がある。そこには対米関係を最重視しアジア諸国などとの経済協力を中心にした国際協調外交に対する国民の合意もあった。
しかし今年、日本は近隣諸国からの「反日運動」にさらされ、国連安保理改革をめぐっては国際社会での存在感の希薄さを突きつけられた。
いま、日本の外交は八方ふさがり状態に直面している。米国やアジアとどう向き合い、国際社会でどういう役割を担うのか。厳しい現実が日本の外交戦略の立て直しを迫っている。
そのことを切実に思い知らされたのが、国連常任理事国入りを目指した日本外交の「挫折」である。
日本、ドイツなど四カ国が提出した安保理拡大案はアフリカ連合との一本化調整に失敗し事実上、採択断念に追い込まれた。頼りでもあった米国が、大幅な安保理拡大に反対したことが事態を決定的にした。
だが、それよりも目を向けなければならないのは、日本の提案をめぐるアジア諸国の動きだろう。
小泉首相の靖国神社参拝などで関係が険悪化している中国、韓国が反対し、頼みとしていた東南アジア諸国連合(ASEAN)などアジアの国はほとんど提案に賛同しなかった。
日本は一九五〇年代後半から経済協力を基軸にしたアジア重視外交を展開し、東南アジアでは最大の支援国、貿易相手国であり、頼りにされた国でもあった。だが近年、急激な経済発展を続けASEAN諸国に急接近する中国の存在が構図を変えつつある。
ASEAN諸国は、いまや日本か中国かの二者択一ではなく、日中双方との連携を強化することが得策と考えている。そうした状況で、対米配慮からアジアへの政治・安全保障面での関与を自己規制しているようにみえる日本の姿はどう映っているのか。
「アジア諸国との相互理解と信頼に基づいた未来志向の協力関係を構築していきたい」(首相談話)というのなら、真剣に考えなければならない日本外交の課題だろう。
日本の外交は日米同盟を基軸に国連重視、アジア外交を三つの軸に据えてきた。しかし、四年前の9・11テロを境に小泉首相が対米同調にのめり込む姿勢を強めたことで、アジア外交の比重が相対的に軽くなっている。
■対米、アジアの両立を
小泉政権は米英両国が強行したイラク戦争をいち早く支持し、ブッシュ米大統領の要請に応じて自衛隊派遣へと踏み込んだ。その一方で、中国との首脳同士の相互訪問は三年半も途絶え、腹を割って意見交換する関係にはほど遠い。国交正常化四十年を迎えた韓国との関係もぎくしゃくしたままだ。
外交軸の「ずれ」は北朝鮮の核開発をめぐる六カ国協議にも影を落とす。核問題とともに拉致問題解決を目指す日本は先の協議で核放棄をめぐる米朝の攻防を見守るしかなかった。中国や韓国など日本以外の参加国が難色を示す拉致問題では、北朝鮮の人権状況を問題視する米国と連携を深めること以外に、打つ手がほとんどなかったというのが現実だった。
こうした対米偏重がもたらす「いびつな実態」は日本外交の選択肢を狭め、柔軟性を奪うことになろう。
アジアでは地域統合の動きが加速し、年末には東アジアサミットが開かれる。ASEANと日中韓、インドなど域外国も含めた十六カ国が参加する。「東アジア共同体」構想の実現への一歩となるものだが、経済急成長を背景に中国とインドはASEANとの経済連携を強めており、この二つの国を核にした巨大な貿易圏形成への流れへの布石になるかもしれない。
対米一辺倒では、こうした流れに取り残され、アジアで孤立しかねない。
日米関係を深めることはもちろん重要だが、肝心なのは適切な距離を保つことだ。米国とアジアとの関係を両立させて、初めて日本外交は国際政治の中で有効に機能する。
そのためには、日本が世界の中でどういう役割を果たすのか、明確な姿勢を示して近隣諸国の不信を解き、国の信頼を高める必要がある。
戦後六十年を、アジア重視外交への転換点にしてもらいたい。
2005年8月15日 東奥日報
戦後60年/この空漠感は何だろう
「わたしが一番きれいだったとき/まわりの人達が沢山死んだ/工場で 海で 名もない島で/わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった」
(茨木のり子「わたしが一番きれいだったとき」より)
昭和の敗戦の夏から六十年の歳月が流れた。終戦記念日のきょう、全国で追悼と祈りの催しがある。
未曽有の惨禍をもたらした戦いと、その犠牲になった多くの人たちの無量の思いを、静かにかみしめる。
そうした鎮魂の季節に、だが昨今は体を風が吹き抜けていくような思いも禁じ得ない。この見定め難い空漠感、物寂しさは何だろう。
戦争の深い反省から、国と人々が積み重ねてきた戦後のさまざまな価値。それらは今や空洞化の域を越え、ひび割れたり、破片となって散乱しているようでもある。
一方で新しい座標軸も見えていない。暮らしを元気づけ、安心と安全を守る。揺れ動く世界としっかり向き合う。そうしたシステムが現実に追いつけないでいる。
戦後還暦という時間をぐるっとめぐれば、こんな行き惑う日本社会の現在が浮かび上がってくる。先に述べた空漠感も、そこにかかわる。
きのうとあすをつなぐ確かな座標軸。現在が問われている根本のところだろう。戦争の記憶と向き合い、戦後に形づくられた価値を再検証することは、それゆえ一層重い意味を持つ。
冒頭に掲げた詩も、そんな手掛かりの一つになる。一番きれいだった時に多くのものを失った「わたし」は、戦いに敗れた卑屈な町を、ブラウスの腕をまくりのし歩いた。そして長生きすることに決めた。
この若い女性のまなざしが意味したものは、自らを縛ってきた抑圧との決別、平穏な生活への願い、自立への強い意志だろう。そこには戦後の原点が鮮やかに刻まれている。
もう一つの手掛かりも考えてみたい。太宰治の短編小説「トカトントン」である。青森に生まれた「私」は軍隊で敗戦を迎え、玉音放送を聞いて死のうと思った。
その時、兵舎の方からトカトントンという金づちの音がしてきた。「私」は悲壮も厳粛も一瞬に消えていくのを感じた。そんな場面が描かれている。
太宰がここで言いたかったのは、日常の再発見ではなかろうか。集団的な情感にも流されない、その確かな場所。太宰は、そのように「軍国の幻影」をはぎ取った。
あの戦争を考え、現在の課題にも照らし合わせてみる。手掛かりは、ほかにもたくさんあるだろう。身近な場所から、戦後の軌跡の追体験から、そうしたことを持続的にくみ上げていきたい。
折しも、衆院が解散され、総選挙へと向かう政治の季節が重なった。内外に山積する当面の課題はむろん、戦後六十年の空間を見据えた俯瞰(ふかん)の視線も忘れたくない。
過去に学びつつ、あすへの選択を模索していく。そのことが一層大事になっている、この夏ではないか。
2005年8月15日 岩手日報
終戦60年
いつまでも平和が続け
終戦から60回目の夏を迎えた。多くの同胞(はらから)を奪った戦禍、人と人のきずなも愛も引き裂いた悲劇を忘れてはならない。
きょう15日は、東京・日本武道館で全国戦没者追悼式が行われ、犠牲者の霊を慰める。
第二次世界大戦で死亡した軍人、軍属は230万人を超し、広島、長崎の原爆犠牲者を含み80万人以上の一般人が亡くなった。追悼式は恒例の催しだが、戦火の中で父や子、兄、弟を失った遺族の悲しみは、終戦から60年たった今でも癒えることはなかろう。
息絶えた子を抱く母
経済発展を遂げ、平和に見える日本だが、南北に切り裂かれた朝鮮半島に火種を抱え、中国との関係も不安定になってきた。また、一部アジアの国々と真の友好関係を築けずにいるのは、戦後補償問題を引きずっているからにほかならない。過去をしっかりと処理し、世界平和の追求に貢献したい。それが被爆国日本の責務でもある。
1945(昭和20)年8月9日。この日の昼前、旧横川目村(現北上市和賀町横川目)に飛来した米軍機が民家に爆弾を投下した。犠牲になったのは10歳の少年だった。
住民が駆け付けたとき母親は左足を吹き飛ばされて息絶えた子を胸に抱き、ただ泣くばかりだったという。
岩手への空襲などをまとめた加藤昭雄著「あなたの町で戦争があった」(熊谷印刷出版部)に収録されている悲しい一場面である。
県内では各地に「戦争」の記録が残る。
「あなたの町で…」によると県内28市町村が攻撃を受け、犠牲者は1100人超。旧甲子村小佐野(現釜石市小佐野)では艦砲射撃の砲弾が防空壕(ごう)を直撃、避難していた母子が死亡するなど、釜石地域だけで約1000人の生命が戦火に消えた。ほとんどが一般民間人である。
大戦というと激戦地だった南方諸島や沖縄、あるいは原爆が投下された広島と長崎に目を向けられがちだが、岩手の中の、あなたの町でも確かに「戦争」があった。その戦禍について、今では語り継ぐ人が少なくなったのが寂しい。
戦争を知らない年代
戦争を知る年代が高齢化し、B29の編隊がかなり高い上空を通過した大戦末期を知る人は、65、6歳以上だろう。
出兵し、外地で米軍と対峙(たいじ)するなど過酷な実戦の経験者も非常に少なくなった。
つまり、わが国の人口構成は、戦争を知らない年代で占められている。
列島は平和が続いている。平和憲法のたまものだと思うが、かつて悲惨な戦禍を体験した事実を風化させてはならない。戦争を知らない年代層に継承していくことが今後も平和を維持する絶対条件だし、豊かで幸せな日本をつくる原動力になるだろう。
2005年版防衛白書は「機動性と実効性に富む防衛力の整備」を主要目標に掲げた。世界が揺れ動き、安全保障環境が変化したことは否定しないが、なお「防衛力の整備」を求める白書の言葉に心が痛む。
2005年08月15日 福島民報
戦後60年歴史を語り継ごう
きょうは終戦記念日である。戦後60年という節目の年でもある。毎年、この時期になると「戦後」はいつまで続くのだろうか、という素朴な疑問がわく。昭和20年の終戦の年に生まれた人は今年、還暦を迎える年になり、戦争の記憶がしっかりしている人でも当時10代は70代、20代の人は80歳を超える。
県内の戦没者6万6000人の遺族で構成する県遺族会会員のうち戦没者の妻は現在1598人だが、10年前と比べると、2529人も減っている。戦争体験者の高齢化はますます進行し、いずれ戦争を知らない世代ばかりになるだろう。
最も危惧(きぐ)される戦争の風化は現実のものとなっている。教育史研究家の岩本努さんの調査だと、「銃後(じゅうご)」「御真影(ごしんえい)」といった言葉を知っている大学生が減っている。さらに「沖縄戦終結」を6月23日、「太平洋戦争ぼっ発」を12月8日と正しく記憶している割合も低下している、という。近代史教育に時間を十分に当てなかった戦後教育の結果ではなかったか。
今春の私立高校入試の英語問題で、そのひずみが現れた出題があった。修学旅行で沖縄を訪れた生徒が、太平洋戦争末期の沖縄戦に動員された元ひめゆり学徒の体験談を聞き「退屈で飽きてしまった」という文章が出題された。しかも、この問題を教師が自らの体験に基づいて作成したという。戦争を知らない世代による教育がどんな間違った方向に進むのかを示した例といえよう。
長野県上田市にある美術館「無言館」の前庭にある戦没画学生慰霊碑「記憶のパレット」に赤いペンキがかけられる事件が起きた。広島市の平和記念公園でも原爆慰霊碑の碑文が男にハンマーで傷つけられた。「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」という碑文の「過ちは」の部分を男は気に入らなかった、という。この碑文をめぐる論争は昭和27年の碑文の除幕直後から起きている。碑文に主語がないため「日本が原爆を落としたわけではない」など論争が繰り返された。その結果、「碑文はすべての人びとが原爆犠牲者の冥福を祈り、戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である」という説明板を設置して決着した経緯がある。
アメリカではいまだに「原爆投下で戦争を早期に終わらせ、米国人の命を救ったと思う」人が大勢を占める、という。しかし、広島への原爆投下で終戦の年だけで一般市民ら推定約14万人が死亡したことを考えると、非人道的な所業といわざるを得ない。被爆国として今後も核兵器廃絶を訴えていく義務がある。
戦争の語り部が確実に減る中、戦争がどんなに悲惨なものかを学ぶ機会も少なくなっている。「もったいない」という言葉も死語になり、平和な世の中がどれほどありがたく、尊いものなのかを今の若者に理解してもらおうとしても無理があるのかもしれない。沖縄戦で4人に1人の県民が犠牲になった沖縄では高校の日本史の副読本に20ページ以上も費やすなど努力している。これからの「戦後」を考えるとき、あらためて平和教育に光を当てていかなければならないと思う。歴史の歯車を戻してはいけない。だから歴史を語り継いでいく必要がある。
2005年08月15日 茨城新聞
終戦記念日 平和を尊ぶ一日にしたい
「戦争の記憶」展。水戸市立博物館のフロアに並ぶ約二百点の展示品は、訪れる人たちに戦争の悲惨さ、恐ろしさを訴える。
空襲で焦げたズボン。水戸の住宅街を焼き尽くした米軍の収束焼夷しょうい弾の残骸ざんがい、その焼夷弾が雨のように降り注ぐ写真パネル。再現した燈火管制下の部屋には重苦しい空気が漂い、弾よけのお守り「千人針」は見る人の涙を誘う。
戦後六十年。節目の8・15を迎えた。一九四五(昭和二十)年八月十五日正午、昭和天皇の玉音放送が流れた。
「朕ちん深く世界の大勢と帝国の現状とにかんがみ、非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なるなんじ臣民に告ぐ」
「今後、帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず。しかれども朕は時運のおもむくところ、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世のために泰平を開かんと欲す」
当時の玉音放送はテレビの戦後特集番組などで聞いたことはあった。その経験から言えば、堅苦しい漢語の表現と、ラジオの音質も相当悪く、聞き取りにくいという感想を強く抱いていた。歴史的にみれば、これにより、長い長い戦争がようやく終わりを告げた。
その一方、そこから「戦後」が始まったことも確かだった。日本は平和の享受と、世界に類をみない経済発展を遂げた。
いま、県内でも戦争体験者の高齢化がますます進み、歳月の積み重ねとともに、その記憶を語り継ぐことが難しくなりつつある。
「風化を防ぐ…」。終戦記念日を迎えて、その歴史の継承者である私たち一人一人が、戦没者への慰霊する心を持ち続け、平和を尊ぶ−という思いを強くする大切な一日としたい。
大戦に思いをはせれば…。終戦の詔勅は、米英への宣戦布告について「帝国の自存と東亜の安定」のためだったとした上で、「他国の主権を排し、領土を侵す」ことは意図していなかったと強調している。しかし、実際には他国領土で戦争を行い、彼我ともに多大な犠牲者を出した。日本が敗北し、その後にアジア各国が独立を果たした事実はあるが、それは歴史の皮肉だ。
最近の靖国神社をめぐる論争にも、二つの大きな歴史観が対立しているように思える。先の大戦が「侵略戦争」として否定されるべきなのか。それとも「自衛戦争」「正義の戦争」だったのか。あるいは、その両方の要素を併せ持つものだったのか。
歴史の教訓から学ぶことは大切だろう。県内各地では戦争の悲惨さを語り継ごうと、戦時にかかわる収蔵品や写真の展示、朗読劇の上演などのイベントが行われている。戦争の記憶展もその一つで、二十一日まで開催中。
終戦記念日は、時代を遠く見据えて、深く静かに考えるにふさわしいときでもある。
2005年8月15日 神奈川新聞
敗戦60年
本紙「ぐるっとかながわ面」に、今月、読者のコラムが登場した。「あのとき、私は」である。初回に川崎の江名武彦さん(82)が、戦争中の特攻隊の体験をつづっている。
生還を期さぬ特別攻撃機で出撃し、飛行機が故障したため海上に不時着。元の部隊へ戻る途中、原爆投下直後の広島で大勢の被爆者、死者を目撃した。江名さんは「戦争は人類に対する犯罪の極みで、狂気以外の何ものでもない」と見定めた。一度は死を覚悟した当事者だけが持つ重みが証言にはある。狂気を再び出現させないようにするのが、今を生きる私たちの務めである。
先の大戦が終わり、六十年がたつ。敗戦直後、いたるところ焦土と化した日本はその後、驚異的な経済発展を遂げ復興を果たした。
しかし一方で、戦争体験は風化するばかりである。日本と米国が戦った事実でさえ、若い世代には十分には受け継がれていない。「八月十五日」が何の日か、と問われて正しく答えられる若者は少ない。戦争が必然的に持つ悲惨さも、悲惨な状況が実際に国内のあらゆる場面に現れたことも、知るに至っていないようだ。
こうした状況と軌を一にするかのように今、これまでの歴史認識を揺るがすような言動が国境を越えて広まってきている。偏狭なナショナリズムを煽(あお)るような風潮が高まっている。そう感じられてならない。
歴史教科書や竹島の帰属問題などをめぐって、最近、反日デモが盛んに行われた。それがけしからんという抗議が日本国内でわき上がった。相手を理解しようとするより、まず気持ちの上で反発が先に立つ。双方ともに、である。不幸な状況というほかない。
”小さな不幸”が積み重なっていけば、やがて”大きな不幸”、戦争につながっていく恐れなしとしない。十分な理解がないまま感情に押し流されれば、行き着く先は広島・長崎の原爆投下の再現、と言っても過言ではないだろう。
二度と戦火に見舞われないために何をなすべきか。私たち一人一人が、あらためて身近なところから問い直す作業が必要である。なぜ戦争に至ったのか。どうすれば戦争を避けられたのか-。
まず自分の住んでいる町に六十年前、何があったのか、関心を持ってみよう。身近に戦争体験者がいれば、その声に耳を傾けてみよう。体験者は、子や孫たちに戦争のありさまを伝えてほしい。事実を知ることが悲劇の道を歩まないための第一歩だからである。
特攻機に乗った江名さんが出撃した鹿児島には、隊員を慰霊する知覧特攻平和会館がある。出撃を控え家族らにあてた遺書が多数紹介されている。戦のない、平和が永遠に続く世の到来を願う文面に心打たれる。その心情を乱す事態を二度と招いてはならない。
2005年8月15日 新潟日報
終戦60年に思う 確かな未来をどう築く
日本の降伏を告げる玉音放送がラジオから流れたのは、真夏の太陽が照りつける一九四五年八月十五日の正午だった。人々は家庭で職場で兵営でラジオに耳をそばだて、敗戦を知った。
あの日からきょうで六十年になる。悲惨な戦争を体験した多くの国民が世を去った。戦後生まれの団塊の世代は間もなく還暦を迎え、日本は二年後には人口減少社会に突入する。
六十年という時の流れは日本を一変させた。二度と戦争をしない国に生まれ変わっただけではない。食うや食わずだった国が戦後復興、高度成長を経て世界有数の経済大国にのし上がった。
☆日本を問い直す出発点に
忘れてならないのは、戦争の犠牲の上にいまの日本があるということだ。先の大戦では三百万人を超える国民の命が奪われた。近隣のアジアの国々や人々にも筆舌に尽くし難い痛苦を与えた。
八月十五日は戦火に散った犠牲者の霊を慰めるとともに、不戦、平和への誓いを新たにする日である。六十回目の終戦記念日を日本の生き方を再構築する出発点にしなければならない。
十二月には初の東アジアサミットがマレーシアで開かれる。日本、中国、韓国に東南アジアの国々が参加するこのサミットは「東アジア共同体構想」の具体化に向けた第一歩でもある。
構想を提唱したのは、ほかならぬ小泉純一郎首相だ。欧州統合の歴史に学びながら、東アジアにまず緩やかな経済共同体をつくり、地域の平和と繁栄を確かなものにしようという試みだ。
十年、二十年がかりの大仕事になることは間違いなく、先行きも不透明ではある。しかし、経済の相互依存が戦争の可能性を排除する力になってきたことは欧州統合の歩みを見れば分かる。
欧州は先の大戦の反省に立って経済統合、通貨統合を進めてきた。出発点は不戦の誓いだった。そのために共同体をつくり、石炭と鉄鋼を和解と平和の糧に転換することから始めた。
日本が東アジアの国々と新たな生き方を模索するのは歓迎したい。だが、アジアでの共同体づくりは欧州以上に難しさが予想される。宗教、文化、民族、政治体制などが大きく異なるからだ。
こうした多様な顔を持つ国々が議論を深めるには、何よりも信頼関係が欠かせない。問題は、日本がどこまで信頼を得ているかである。
小泉政権が誕生して四年四カ月近くになる。この間、小泉政権は米国のブッシュ政権に背中を押されるように自衛隊を初めて戦争状態のイラクに派遣し、対米偏重の道を突き進んできた。
そればかりではない。首相の靖国神社参拝など歴史認識をめぐる問題で中国や韓国との関係がこじれ、事態打開の糸口すら見いだせない状況にある。極めて不幸な事態といっていい。
小泉首相は先の大戦の「A級戦犯」を合祀(ごうし)している靖国神社に参拝することを公約に掲げて政権の座に就いた。「戦没者に哀悼の誠をささげたい」という首相の率直な思いは分からぬではない。
問われているのは、それがなぜA級戦犯を祭る靖国神社でなければならないのかだ。首相の信念は信念としても、政治・外交問題に発展した事態をいつまでも放置しておくわけにはいかない。
☆新たな追悼施設の検討を
とりわけ、中国との関係は深刻だ。四月には中国各地で暴徒化した反日デモが相次いだ。五月には中国の副首相が小泉首相との会談を直前にキャンセルし、帰国する異例の事態も起きた。
反日デモでは謝罪の言葉もなく、責任は日本にあるといわんばかりの態度をとる。さらに外交上の非礼を顧みず、会談をすっぽかす。こうした中国側の対応は責められてしかるべきだ。
ただ、首相の参拝を戦争責任をあいまいにするものだという中国や韓国の反発の根は極めて深い。小泉首相も「他国が干渉すべきことではない」と突っぱねているだけでは済まないだろう。
首相は追悼の在り方について検討を求めた二〇〇一年八月の談話を思い起こしてほしい。内外の人々がわだかまりなく追悼できるにはどうすればいいか。自ら問題提起をしていたはずだ。
この首相談話を受けて当時の福田康夫官房長官の下に設置された懇談会が「国立の無宗教の恒久的施設が必要」との報告書をまとめている。この提言をいまこそ具体化してはどうか。
日中、日韓関係がこのままでは日本の確かな未来を築けるとは思えない。東アジアの新秩序づくりのためにも、終戦六十年を対米偏重からアジア重視の外交にかじを切る「元年」にすべきだ。
2005年8月15日 北日本新聞
終戦60年/歴史に学ぶ姿勢を大切に
六十回目の終戦記念日を迎えた。太平洋戦争では三百万人を超える国民が犠牲になっ
た。県内でも約三万人を数える。各地で戦没者の冥福を祈る追悼式が行われる。
戦後還暦という節目からだろうか、先の大戦とは何だったのかを問う論議が今年ほど高
まったことはなかった。歴史を学ぶためには非人道的な戦争の悲惨さを直視することも求
められよう。あらためて終戦の意義をかみしめ、不戦と平和の誓いを新たにしたい。
実際に戦争を体験をした人は次第に少なくなってきた。戦争そのものの風化が懸念され
る。しかし、まだ戦争が終わっていないことを示すかのような「情報」が、五月に国内を
駆け巡った。フィリピン南部のミンダナオ島で二人の旧日本兵が生存しており、帰国を希
望している、という知らせがもたらされた。
外務省が確認した結果、「情報」の真偽は分からなかったが、フィリピンをはじめイン
ドネシア、ミャンマー(旧ビルマ)など、旧日本軍が進駐したアジアの国々では今でも残
留日本兵の情報が絶えない。終戦後も現地にとどまり、中には旧宗主国との建国の戦いに
義勇兵として参加し、命を落とした人もいるという。戦争と敗戦が、歴史上の棄民≠
生み出す悲劇をもたらしたのだ。
そのアジアの国々から、日本の指導者の歴史認識について、一斉に批判の声が上がった
のも今年の特徴だろう。中国では大規模な反日デモにつながった。小泉純一郎首相の靖国
参拝や、歴史教科書の検定問題、憲法改正の動きなどに、厳しい視線が注がれている。日
中戦争開戦から太平洋戦争終結まで、日本人は戦争から何を学び取り、そして何を検証し
てきたかが問われているともいえよう。
昭和二十年八月十五日の昭和天皇の詔勅(玉音放送)を契機にして、日本はその後、新
しい国づくりに進むが、アジア各国が問題にするのはそれ以前のことだ。詔勅では、米英
への宣戦布告について「帝国の自存と東亜の安定」のためだったとした上で、「他国の主
権を排し、領土を侵す」ことは意図していなかったとしている。しかし実際には他国の領
土で戦争を行い、多大な犠牲を強いた。
このような歴史観は、最近の靖国神社をめぐる論争にも表れているように思える。先の
大戦は「侵略戦争」として否定されるべきとする意見が大勢だが、一部には「自衛戦争」
「正義の戦争」との主張がある。A級戦犯の分祀(ぶんし)問題と国立追悼施設の建設が
手つかずのままなのは、この対立が背景にもなっている。
経済記者として活躍し、戦後に首相を務めた石橋湛山(明治十七年−昭和四十八年)は
戦前、日本人の多くが、海外領土がなければじり貧になると考えていた中にあって、「小
日本主義」を説き、旧満州の放棄論を展開した。日本の「生命線」とされた朝鮮・台湾・
旧満州との貿易総額が九億円なのに対し、日米貿易が十四億円に達する数字を示しなが
ら、旧満州を放棄し、中国市場を米国に開くことが日本の生きる道だと主張した。
石橋の主張は、「拡張主義」に沸き立つ当時の日本に受け入れられるはずはなく、戦争
への道を突き進んで行ったことは歴史が証明している。図らずも、終戦によるポツダム宣
言の受諾で実現することになるが、すべての海外領土を失い「小日本」になったことが、
今日の平和と繁栄のスタートにつながったのは皮肉であり、意味深い。
戦争の脅威は今も世界を覆う。平成十三年の9・11米国中枢同時テロにより、ブッ
シュ政権は反テロ戦争を主要戦略に据え、アフガン攻撃、そして英国とともにイラクへの
軍事進攻に踏み切った。復興支援のため自衛隊が現地で活動しているが、米英の力の支配
に日本が組み込まれているいるという印象はぬぐえない。
戦後六十年間、日本は他国に対し、国家として「銃口」を向けたことはない。現憲法の
平和主義による「専守防衛」を誇りに思い、再確認すべきだろう。戦争の犠牲者が家族や
後世に託したかったのは何か。時代の先を見据え、終戦の日に深く思いをめぐらせてみた
い。
2005年8月15日 北國新聞
終戦記念日 「日本人」の意識を育てたい
六十回目の終戦記念日を迎えた。還暦という年月を経て、それなりに成熟した民主主義 国家になった。バブルが弾けて深く傷つき、長い不況に見舞われながらも、経済規模は世界第二位を維持している。豊かな暮らしを求めてよく頑張った六十年であるが、国民の意識や精神の面はどうだろうか。日本という国や、「日本人」であることに誇りを持って生きてきただろうか。その点では未熟であると言わねばなるまい。
その未熟さは、ある意味では戦後の思潮によって強制された結果といってよい。個人の 尊重、人権の尊重を第一とする戦後民主主義の中で、愛国心や国家意識を説くことがはばかられてきたからである。
例えば、自分の国や民族のことを大事に思う気持ち(ナショナリズム)は人間として当 たり前であり、かつては右翼・左翼、保守・革新を問わずに共有されていた。ところが戦後の日本では、ナショナリズムはどちらかといえば、危険なもの、悪いものとして忌避されてきた。戦前の行き過ぎた国家主義の反省からであるが、戦後のナショナリズム否定もまた行き過ぎであった。
いま、隣国との付き合いがうまくいっていない。特に日中関係は戦後最悪ともいわれる 。日本の歴史教科書問題や小泉純一郎首相の靖国神社参拝などが原因とされ、その点をことさら取り上げて、日本のナショナリズムを問題視する向きが国内にある。しかし、過剰なナショナリズムの危険性では、中国の方がはるかに問題である。そのことは措(お)くとして、日本はむしろ戦後のナショナリズム理解の誤りを正し、良き「日本人」であろうという意識をはぐくむことが大事であろう。
といって、愛国心の涵養(かんよう)などと大上段に構えることはない。まず、自分た ちが住むこの地域に目を向けることから始めればよい。
ふるさとの歴史や伝統、文化を虚心に学べば、自ずとふるさとが好きになり、地域を大 切にしたいと思うようになるはずだ。そうしてはぐくまれる郷土愛や愛郷心の延長線上に、国を愛する心がある。
また、自分たちのまちを美しくする取り組みが各地に広がり、積み重ねられれば美しい 日本が形づくられ、それに伴って、ふるさとや国に対する愛着心や誇りもわき上がってくるだろう。美しいふるさとがテロや侵略の被害に遭っては困ると思えば、守る意識が生まれてこよう。
そのようにして生じる「国を愛する心」はごく自然なものであり、憲法前文に盛り込ま れてもなんら不思議ではない。
ふるさとを大切に思う気持ちとその実践から、国づくり、人づくりが進むと心得たい。
2005年8月12〜15日 信濃毎日
社説=終戦の日(上) 歴史をつかみ直すとき
「私はこれからレイテ島上の戦闘について、私が事実と判断したものを、出来るだけ詳しく書くつもりである。七五ミリ野砲の砲声と三八銃の響きを再現したいと思っている。それが戦って死んだ者の霊を慰める唯一のものだと思っている」
大岡昇平は「レイテ戦記」でこう記しつつ、微に入り細をうがって戦いの実相をえぐり出した。
作家の筆は、兵士の苦しみや無残な死を描いて容赦がない。そのことが同時に、死んだ人々へ向けるまなざしの温かさを感じさせる。
大岡は加えて、一番ひどい目にあったのは島に住むフィリピン人だったとも述べる。アジアへの加害の視点を書き込むことで、作品は世界に通じる普遍性を獲得している。
<60年の時を重ねて>
六十回目の終戦記念日がめぐってくる。人間でいえば還暦である。月日の歩みが一めぐりして、新たなステージを開くときだ。
次への確かな一歩を踏み出すには、過去の歴史について、国民の間である程度の共通理解が欠かせない。しかし先の戦争の評価は深刻な亀裂を見せたままだ。
呼び名一つ取ってもいまだに定まらない。太平洋戦争、大東亜戦争、日中戦争、十五年戦争など、それぞれの呼び名がそれぞれの歴史認識を引きずり、摩擦を起こす。
あの戦争は侵略戦争だったのか。そうではなく帝国主義的な覇権を求める国同士の衝突だったのか。日本が掲げた大東亜共栄圏の表看板はどこまで本物だったのか…。
「東京裁判史観」「靖国史観」など、レッテル張りと非難の応酬が続く。国民の多くが受け入れ可能な像が結ばれてこない。
<認識の溝なお深く>
似た光景が十年前にも繰り広げられた。「戦後五十年国会決議」をめぐる各党間のあつれきだ。
妥協の末まとまった決議は、日本が進めた戦争を「世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為」と同列に並べ、反省色の薄いものになった。それでも与野党議員の多くが本会議を欠席、賛成は衆院議員総数の半分以下だった。
決議のあいまいさを補う形で村山富市首相は八月十五日、談話を発表する。「国策を誤り」「痛切な反省と心からのおわび」など踏み込んだ文言を盛り込んだ。
これに対しても自民党などから異論が続出。終戦記念日に予定していた「戦後五十年を記念する集い」も二転三転の末、十二月にやっと実現するありさまだった。
今年は小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題が、歴史認識の問題を一層鋭くしている。賛成論、反対論がぶつかり合い、一定の方向に集約していく気配はまだ見えない。
今月初めに衆院が可決した「戦後六十年国会決議」も十年前の決議に増して、焦点が定まらない。
過去の歴史について、すべての国民の考えが一致することは望み得ない。それでも、溝を少しでも埋める努力は必要だ。
論議を深める出発点は、戦後処理が東西冷戦の制約の中で進められた結果、中途半端に終わった事実を知ることである。
日本を西側陣営の一員に加えるために、米国は筋の通った戦後処理を必ずしも求めなかった。侵略行為の責任追及、アジア諸国に対する賠償など徹底しない面が残った。
中国の指導部が、戦争指導者と一般の日本兵、日本国民を分けて考える姿勢を取ったことも大きい。「日本人民も一握りの軍国主義者の犠牲者だ」という周恩来首相の言葉は、よく知られている。
高級軍人は別として、赤紙一枚で駆り出された兵士とその家族が自分たちを犠牲者と考えるのは無理ない面がある。同時に、海を渡って中国の人々に銃を向けた日本兵を犠牲者とだけ見るのは、一面的に過ぎる。
<世界史に照らしつつ>
しかし中国側は、周首相の発言内容に沿って日本との国交を正常化した。そして対日賠償請求権を放棄した。中国側のこの姿勢に寄り掛かる気持ちが、日本人の中になかったとは言えない。
歴史に時効はない。六十年を超えて次の時代へ進むには、結局、日本人自身の手で戦争の意味を洗い直し、つかみ直すほかない。
靖国神社の戦争博物館「遊就館」を訪ねてみる。戦車や特攻機が並ぶ片隅に、兵士たちが使った水筒やメガネ、ペンが見える。さりげない展示だけに、兵士の苦しみが一層、胸に迫ってくる。
靖国神社の展示の限界は、アジアに対する加害の視点が欠落していることである。これでは世界の共感を得るのは難しい。日本人が共有できる歴史にもなり得ない。
憲法前文に言う「名誉ある地位」を世界で占めるためにも、あの戦争と戦後処理の実際の在り方を、世界の歴史に照らしつつ正確にとらえる取り組みが必要だ。残された課題はなお多い。
× ×
戦争と植民地支配の過去に区切りをつけ、日本が新しい歴史を刻むために、いま何が必要か、三回続きの社説で考える。
社説=終戦の日(中) アジアに生きる国として
先の戦争を同盟国として戦い、敗れた日本とドイツは、戦後の歩みでもしばしば比べて論じられる。
どちらがより手厚い戦時賠償をしたか、という問題をここで取り上げるつもりはない。考えたいのは、先の戦争から60年、両国が足元の国々、アジア、欧州とどんな関係を結んできたかということだ。
「ドイツの欧州化を目指す」。戦後ドイツの外交は、東西統一を成し遂げたゲンシャー元外相のこの言葉に象徴される。
ドイツはかつての宿敵フランスと結び直したきずなをてこに、欧州連合(EU)へ至る統合の流れを引っ張り続けた。イラク戦争をめぐって米国との関係が悪化しても、ドイツの政治、経済は揺らがない。それは戦後ドイツ外交が世界に誇っていい成果と言える。
<足元軽視の危うさ>
これに対し日本は、アジアの国々と強固な関係を結べているとは言い難い。それどころか、中国、韓国との間では、歴史教科書や領土問題での摩擦が続く。
韓国で「親日」という言葉は「反民族的」を意味し「裏切り者」の語感すら帯びるといわれる。日本人として残念で、やりきれない。
今の状態で日米関係が決定的に悪化したら、と考えてみよう。円や株式は暴落し、日本経済はたちまち行き詰まる。足元の国々との関係を軽視してきた危うさが、このこと一つとっても分かる。
アジア諸国と信頼の糸を結ぶ原点は、先の戦争での加害の歴史をもう一度かみしめることだ。そして戦後処理などやり残してきた課題をきちんと清算することである。
<「過去の問題」でなく>
戦時中の日本は人手不足を埋めるため、中国人を集めることを決めた経過がある。全国の鉱山や炭坑、ダム建設現場などで強制労働が行われた。長野県内も例外ではない。
これらは「昔話」ではない。今も過去を忘れず、日本人が行ってきたことを告発し続ける人たちがいる。無理やり連れてこられ、労働を強いられたとして、中国人男性らが国と建設会社に損害賠償を求めた訴訟が長野地裁でも進行中だ。
法廷では、当時の過酷さを中国人男性らが証言している。朝早くから日が暮れるまでほとんど休みなしに働かされた、病気になっても医者がいない、栄養失調で目が見えない人もいた−といった具合だ。
1990年以降、強制連行訴訟をはじめ、多くの戦後補償訴訟が起こされている。日本人が向き合わないまま、あるいは気付いても気付かないふりをしてきた問題である。
国と国の間では解決済みというのが政府の見解だ。確かにそれぞれ賠償協定などを結んではいる。だからといって問題なしと片付けられるものではない。
強制連行訴訟では、司法の判断が分かれている。原告が高齢になっていることを踏まえれば、問題の解決は時間との競争だ。病気などで亡くなった人たちもいる。いつまでも司法の判断にゆだね、待っていることは許されない。政治の責任で、けじめをつけなければならない。
強制連行ばかりではない。韓国など海外に住む「在外被爆者」への支援、中国に残されている旧日本軍の毒ガス弾処理、元慰安婦への補償など向き合うべき課題は山積する。企業と国が一緒に補償の基金をつくるといった具体策を探るときだ。
原爆投下を受けた広島、長崎の悲劇は、風化させられない戦後史の出発点だ。同じように、アジアの国々で多くの犠牲者を出したことを心に刻まなくてはならない。
各国と固くきずなを結ぶのは、言うほど易しいことではない。共同通信社が5月に実施した日中韓3カ国の世論調査は、厳しい現実を突き付ける。日本に親しみを感じないとの回答が中国、韓国ともに、10人のうち8人ほども占めている。粘り強く溝を埋めていくほかない。
<加害の歴史を見据え>
木曽郡三岳村の王滝川にかかる橋の脇に一つの碑が立っている。大戦中に強制連行され、死亡した中国人を弔う「木曽谷殉難中国人慰霊碑」である。川を挟み、向こう側の山には御岳発電所が見える。
隣の王滝村や上松町を含め、一帯では当時、外国人らが発電所の建設工事に従事させられた。中国から連れてこられた人は2000人余に上る。劣悪な環境の下、182人が命を落としたとされる。
慰霊碑は、勤労動員で木曽谷の発電所建設工事に携わった旧制中学の卒業生らの提案で20年ほど前、建てられた。ほぼ5年に1度、慰霊祭を開いている。碑の手入れをしているのは、村の老人クラブの人たちである。かつての、むごい出来事を今に伝える一つの例だ。
強制連行訴訟の原告らの話を聞く集会を開いている住民グループも県内にある。過去をきちんと見据えようとする人たちはたくさんいる。
こうした取り組みを重ねることが各国と信頼関係をつくっていく力になる。歴史と向き合い、努力する人たちがいることをアジアの人々に知ってもらうことも大事だ。戦後60年の節目を新たな出発点にしたい。
社説=終戦の日(下) 「なぜ」を問うことから
詩人の茨木のり子さんに「知らないことが」という作品がある。
過酷な戦争体験のある同世代の青年との出会いをつづったものだ。戦場での恐怖による神経系の疾患を抱えながら、前向きに暮らしている若者に対して、詩はこう語りかける。
「精密な受信器はふえてゆくばかりなのに/世界のできごとは一日でわかるのに/“知らないことが多すぎる”と/あなたにだけは告げてみたい」
茨木さんは一九二六年の生まれだ。同じ戦争の時代を経験しても、自分はその恐ろしさや痛みをどれほど知っているのか。詩には作者のそういう思いが込められている。
<針路誤らないために>
敗戦から六十年。中国では抗日戦争勝利から六十年にあたる。韓国では八月十五日を「光復節」と呼ぶ。日本の植民地支配から解放された日と位置付けられている。
戦争のことは知らないでは済まされない。茨木さんの詩のように「知らないことが多すぎる」と、自分にも、隣国の人々にも、素直に認めることから始めたい。
それに戦争は過去のことではない。イラクでは毎日のように多くの市民が死んでいる。そこでは自衛隊が活動している。若者たちがいつ戦争に巻き込まれるか、分からない世の中になってきた。
戦争の歴史を学ぶのは、中国や韓国と仲良くするためだけではない。日本の針路を誤らないために、欠かせない営みである。
では、どうやって学び、伝えていったらいいのか。三つの提案をしたいと思う。
一つは、歴史の「なぜ」を大切にすることである。
<身近な史料によって>
なぜ日本はアジアの近隣諸国に多大の犠牲者を出す戦争を起こしてしまったのか。なぜ青年たちは「お国のために」と銃を取り、戦場へと向かったのか。
子どもも大人も、ともに「なぜ」と問い掛け、自分たちの力で「なぜ」を解いてみたい。
教科書や歴史書が手引になるのはもちろんだが、素材は身近にある。地域の歴史から学ぶこと、これが二つ目の提案である。
戦争を体験したお年寄りに話を聞くのもいいだろう。オーラルヒストリー(聞き取りによる歴史記述)は近年、大きな注目を集めている手法である。丹念な聞き取りを報告集にまとめている飯田下伊那地方の「満蒙(まんもう)開拓を語りつぐ会」の活動は、好例といえる。
戦争の史跡を調べることも一案だ。長野県内には近代史を考える上で貴重な史料や史跡が多い。その気になれば題材はいくらもある。
例えば、松本市には旧開智学校がある。資料室には明治、大正、昭和の教育史料などが約九万点保存されている。その中から、戦前の教科書を見てみよう。
一九四二(昭和十七)年の「初等科国語二」には、「三勇士」の話が載っている。三人の兵士が爆弾を抱えて敵陣に突撃し、戦死する物語だ。「天皇陛下万歳」と言って、「静かに目をつぶりました」で終わっている。
当時は道徳教育として「修身」の授業があった。教師用の修身の指導書には「天皇陛下の御為には、一身を顧みず忠義を盡(つく)すべきことを教える」(一九三五年発行)とある。戦争と教育の深いかかわりを示す史料である。中学、高校の授業でも生きた教材になるはずだ。
<視野を広く持って>
長野市の長野俊英高校の郷土研究班は松代大本営地下壕(ごう)の調査を続けて二十年になる。
大戦末期、本土決戦に備えて掘られた地下壕である。天皇御座所や大本営などを移す計画だった。朝鮮半島から強制連行された人や自主渡航の労働者が数千人規模で動員されたといわれている。
現在教頭をしている土屋光男さんが、生徒たちとともに、在日の元労働者や地元の人たちなどから丹念に聞き取り調査を続けてきた。いまでは生徒たちが、県内外から訪れる中学生や高校生などにガイド役も買って出る。
班長の石原崇さんは、松代を強制連行の「加害の地」としてのみとらえてはいない。例えば、朝鮮人労働者と地元の人たちとの交流もあったことを知り、「戦争遺跡の見方は決して一つではない」と考えるようになったという。
「価値観を押しつけるのではなく、事実を調べることで生徒たち自身が考える」。土屋さんの方針は、教育の場での歴史研究の在り方に一つのヒントとなるだろう。
最後にもう一つ、どうしてもはずせないことがある。次の世代、次の時代に引き継ぐべき歴史とは何かを常に考えることだ。
先の戦争については国の内外で歴史認識の分裂が深刻になっている。難しい作業だが、歴史をつかみ直し共有する不断の努力が必要だ。
八月十五日。戦争体験者の話に耳を傾け、身近な史跡を訪ねてみよう。そこから出発しながら、どの国の人々にも通じる平和や非核の理念へと結晶させたい。
2005年8月15日 福井新聞
戦後60年・読者の思い つらい体験繰り返すな
命は必ず持って帰ると母に約束しながら戦死した兵士、空襲下で逃げ込んだ防空壕(ごう)で炎熱地獄を味わった一家―本紙が募集した「私の戦後60年」に百通を超える読者の原稿が寄せられた。戦争での苦しく、悲しい体験が生々しい記憶でつづられている。十五日は六十回目の終戦記念日。戦争のない平和な日本が続くことが戦争体験してきた県民共通の切実な願いだ。
武生市の女性は母親が昭和十八年に幼い三姉弟を残して病死。その二カ月後父は覚悟の出征した。祖母と残された姉弟にとって戦地へ向かう列車の中から父が投げてくれたリンゴが最後の思い出となっている。若狭町の女性の兄は日中戦争の戦地から帰還、結婚して子供も生まれたのに再召集されフィリピンへ。「みんなによろしく」が別れの言葉だった。
福井市の男性は太平洋で輸送船が被弾して沈没。海面を漂っているとき低空飛行の敵機の機銃掃射を受け、両親の顔がよぎった。ビルマへ出征した鯖江の男性は自軍の兵士が銃弾に倒れ、濁流におぼれ死ぬ惨状を目の当たりにした。
福井と敦賀の空襲は地獄絵だった。春江町の男性は、血に染まったり黒こげの遺体が丸太ん棒のように路上に転がっていたのを見た三歳時の光景が今も衝撃とともに記憶に残っている。終戦後も苦しみが続いた。シベリア抑留の福井市の男性はネズミや虫を食べて生きてきた。丸岡の女性は栄養失調の五歳の弟と赤子を朝鮮半島で亡くした。小浜の女性は終戦後、朝鮮半島から知り合いの青年の助けで辛くも最後の引き上げ列車に乗れた。福井市の女性は疎開先で父とその兄弟の戦死の知らせが入り「あんたの父ちゃん犬死にや」と言われた悔しい思いが今も時折よみがえる。
肉親を失い、つらく苦しい思いをしながら生き抜いてきた県民読者の共通の願いが「二度と戦争を繰り返してはならない」だ。世の中が少しずつ戦争を忘れ自衛隊を海外へ派遣するなど様変わりしていくにつれ、逆に平和への思いが強まるという。
第二次大戦では非戦闘員も合わせて全世界で八千万人を超える死者が出たとされる。日本の犠牲者も三百万人近い。こんな大勢の犠牲者が出たにもかかわらずその後も戦争はなくならない。朝鮮戦争、ベトナム戦争をはじめ中東、アフリカ、中南米と各地で血で血を洗う戦争が繰り広げられ、毎年大勢の死者が出ている。今もどこかで犠牲者が生まれている。
大戦が終わって六十年、この間、日本は戦争の悲劇に巻き込まれることはなかった。県民読者と同じように全国の戦争体験者らが平和の大切さを訴え続け、その声が広く浸透していった結果だ。これからもこの声を小さくすることなく、戦争を知らない世代へ、さらにその子へ、孫へしっかりと伝えていかなければならない。
2005年8月15日 山陰中央新報
終戦記念日/歴史の過ちを繰り返すな
「朕(ちん)深く世界の大勢と帝国の現状とにかんがみ、非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なるなんじ臣民に告ぐ」
「今後、帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず。しかれども朕は時運のおもむくところ、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世のために泰平を開かんと欲す」
六十年前の一九四五(昭和二十)年八月十五日正午、国民は初めて昭和天皇の玉音放送を聞いた。終戦の詔勅だ。じりじりと真夏の太陽が照り付ける中、国民は長い戦争の終わりを知った。
そこから「戦後」が始まった。しかし、問題はそれ以前にある。「戦前」体制は何が間違いだったのか。
終戦の詔勅では、米英への宣戦布告について「帝国の自存と東亜の安定」のためだったとした上で、「他国の主権を排し、領土を侵す」ことは意図していなかったと強調している。
しかし、実際には他国領土で戦争を行い、彼我ともに多大な犠牲者を出した。日本が敗北し、後にアジア各国が独立を果たした事実はあるが、それは歴史の皮肉だ。
最近の靖国神社をめぐる論争にも二つの大きな歴史観が対立しているように思える。先の大戦が「侵略戦争」として否定されるべきなのか。それとも「自衛戦争」「正義の戦争」だったのか。あるいは、その両方の要素を併せ持つものだったのか。
これを考えるのに、戦前の経済記者で、戦後、首相を務めた石橋湛山の思想が参考になる。日本人の多くが、海外領土がなければ日本はじり貧になると考えていた時代に、石橋は「小日本主義」を説き、満州放棄論を展開した。
十九世紀末に植民地を拡張する帝国主義への反省が起き、英国では「大英国主義か小英国主義か」の論争、ドイツでも「大ドイツ主義か小ドイツ主義か」の論争が起きたが、日本では拡張主義が当然視された。
対して海外領土拡大を戒める小日本主義は、わずかに石橋や内村鑑三らによって提起された。
一般に満州は「二十億円の国家予算と二十万人の犠牲」によってあがなわれたとされ、日本の「生命線」とされた。しかし石橋は朝鮮・台湾・関東州との貿易総額が九億円なのに対して、日米貿易が十四億円に達する数字を示しながら、満州を放棄し、中国市場を米国に開くことが日本の生きる道と主張した。歴史にイフは禁句だが、もし石橋の小日本主義を採用していたら、日中戦争、日米開戦から敗戦に至る道はなかったろう。
図らずも石橋の主張はポツダム宣言受諾により実現する。文字通りすべての海外領土を失ったことが戦後の繁栄の出発点となった。持ち前の勤勉と匠(たくみ)の技に専念したことで、戦前には信じられないほどの経済大国の地位を得た。ここをよく考えておくべきだ。
戦前、石橋らの考えは少数派だった。政治家、新聞、国民の大多数が目先の戦勝に沸き立ち、戦争のわだちから抜けられなかった。終戦の日は、歴史の教訓から学び、時代を遠く見据え、深く静かに考えるにふさわしいときである。
2005年8月15日 山陽新聞
戦後60年 かみしめたい平和主義の重み
今日十五日は、六十回目の終戦記念日である。戦後生まれが還暦を迎え始める。国にとっても大きな節目になる。過去としっかり向かい合いながら、国のあり方をあらためて見つめ直したい。
いまや日本の人口のおよそ三分の二は戦後生まれになった。空襲で焼けただれた町も、肉親や知人を亡くした悲しみも、アジアの国々に大きな犠牲を強いた悔恨も、記憶として持たない世代が社会の中心を占める。
あたりまえのように平和が享受できる時代の中で、戦争は歴史の一こまになろうとしている。風化させない努力がますます必要になる。
悲惨な体験をした人たちが「二度と戦争を起こしてはならない」との意思を持ち続けたからこそ、六十年の平和な時が持てたし、経済大国への道も開けた。忘れるわけにはいくまい。
きな臭さ漂う世界
日本が経済発展に専念している間も、世界各地で戦火がやむことはなかった。現在もきな臭さは消えない。
米ソ冷戦は終わったが、二〇〇一年九月の米中枢同時テロ以降、米国はアフガニスタンを空爆し、英国などとともにイラクを攻めた。戦争には勝利したものの、イラク各地でテロが頻発する。今も多くの死傷者が出ている。
今年七月には英国でも地下鉄やバスが爆破された。世界中に広がっているテロとの戦いが、現在の国際社会の最大の悩みと言えよう。
自由と民主主義を守るという大義が米国にあっても、武力で押さえつけて実現することは容易でないと、現実は教える。
米国と同盟関係にある日本も、イラク復興支援特別措置法をつくり、イラクへの自衛隊派遣に踏み出した。「非戦闘地域」が、いつ「戦闘地域」に変わるかもしれないという不安が募る。
不戦の決意生かせ
日本周辺にも課題は多い。北朝鮮の核をめぐる六カ国協議は難航し、拉致問題も解決の見通しがたたない。靖国神社参拝問題などをめぐり、中国、韓国との関係もかつてないほど冷めている。
お互いが主張すべきことを主張し合い、相手国の理不尽な対応に抗議するのは当然のことだ。ただ、根底には常に、二度と戦争を起こさないという決意があるべきだ。
国会では憲法改正の議論が本格化している。平和理念を支える九条を改正して「普通の国」になろうとの議論もある。国連安全保障理事会の常任理事国入りを目指して、働きかけも続いている。
敗戦国日本は、経済大国になっても国際社会の中で発言力は大きくならない。不満はくすぶっている。ただ、きな臭さがただよう世界だからこそ、日本の平和主義は生きてくる。その理念を具現化し、世界唯一の被爆国として核のない世界の実現を目指すことを、常任理事国入りの目標にすべきだ。
原点を見つめて
少子化が進む日本は、間もなく人口減少時代を迎える。定職につかない若者が増え、国力の衰退が懸念されている。高度成長を続ける中国などの猛追もあって、自信喪失気味だとも言われる。
威勢のいい言葉にすがりたくなるが、「普通の国」になれば現状が変わるだろうか。むしろ六十年も平和を維持し、世界一の長寿国になったことを誇りにすべきだろう。焼け野原から、戦争のない世界の実現に向けて力を尽くしてきた歩みを正確に学ぶことから、自信を取り戻していかなければならない。
戦争を起こさないためには、どんな努力も惜しむべきではない。徹底して話し合うことを柱に外交力を鍛え、中国をはじめとした東アジア諸国と共通の目標を定めて、関係改善を急ぎたい。環境問題や新エネルギー開発の分野で先頭に立つことでも、国際社会に貢献できよう。
国民を戦争に駆り立てる要因にもなった中央集権体制は今も残っている。多様な意見を認め合う土壌をつくるため、地方分権型に社会を変える必要もあろう。
不戦の誓いは、再出発へ向けて歩み始めた六十年前の日本の原点である。平和を引き継いでいくことが、私たちの使命であるはずだ。記憶が歴史に変わっても、過去から学ぶことはできる。決して目をそらしてはならない。
2005年8月15日 徳島新聞
戦後還暦・終戦記念日 平和への新たな一歩に
きょう六十回目の終戦記念日を迎えた。日本の行く末に危うさを覚える今、不戦の誓いを新たにしたい。
本紙の連載「伝える 徳島戦後還暦」に戦争体験者のこんな言葉が載っていた。
「イラク戦争やテロで戦争への不安が高まる中、平和の尊さを知ってほしい」「生き残った者の務めとして戦争の悲惨さを伝えていきたい」「八十歳を超え、残された時間が少なくなった。体験を若者に話さなければと思う」
悲惨な体験を風化させてはならないという熱い思いが伝わってくる。若い世代に戦争を語り伝えていくことが平和を守る第一歩となる。
還暦とは年月がひと巡りして元に帰ることをいう。戦後還暦を迎えた今年、日本の歩みを総括し、平和への再出発の年にしなければならない。
世界各地で今もテロや戦争の悲劇が繰り返されている。日本は復興支援の名のもとに自衛隊をイラクに派遣し、現在も駐留を続けている。
同時テロは米国だけでなく英国でも起こった。日本もテロの標的になっている。こんな事態を誰が想像しただろう。未来を憂えざるを得ない。
イラクへの自衛隊派遣は武力行使を禁じた憲法の枠をはみ出す恐れがあり、こうした事態を正当化するための改憲論が浮上している。
自民党が先日、条文で示した改憲案では、自衛と国際貢献のための「自衛軍保持」を明記した。これまではタブーだった集団的自衛権の行使も容認する形となっている。
平和主義の象徴としての「憲法九条」の精神が揺らいでいるのである。平和の理念は堅持されなければならない。
今月初め国会で採択された「戦後六十年決議」では国際平和への貢献を約束し、過去の戦争に対する反省を表明した。さらに世界で唯一の被爆国として核廃絶や戦争回避などに努力するよう政府に求めている。
しかし、村山富市政権下での「戦後五十年決議」と比べると、「侵略的行為」「植民地支配」といった加害の表現が削除され、内容が後退した感が強い。
中国や韓国との関係は、小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題や歴史教科書問題をめぐり、近年になく関係が悪化している。日本はあらためて米国一辺倒の関係を見直し、アジア諸国との関係改善を急ぐべきだ。
最近は特に安全保障政策など外交面で手詰まり感が強まっている。激動する世界情勢を冷静に見据え、柔軟に対応していく姿勢が求められる。
一方、国民の間では戦争体験を次代へ継承する努力が続いている。徳島県内でも各地で語り継ぐ会が開かれている。しかし風化のスピードはそれを上回り、人々の関心は薄れていくばかりだ。取り組みを強めなければならない。
徳島人権・平和運動センターはきょう、徳島駅前でビラを配るなどして戦争の悲惨さを訴える。こうした平和の「種」をまく地道な活動が重要だ。
今年は郵政民営化法案をめぐって急きょ衆院が解散され、国民の気持ちが総選挙に向かっている。しかし、少なくともきょう一日は心静かに平和のありがたさをかみしめたい。
忘れまいあの日を、怠るまい語り継ぐ努力を−。
2005年8月15日 愛媛新聞
終戦記念日 惨禍の体験受け継ぎ不戦堅持を
先の大戦で日本が敗戦してから、ちょうど六十年を迎えた。
犠牲者は国内だけで三百万人にのぼった。多くは無謀な戦場に駆り出された兵士や、空襲などで無差別に殺戮された市民らだ。海外で多大な迷惑をかけたことも忘れてはいけない。
国の過ちが招いた甚大な犠牲に思いを致して冥福を祈り、不戦の誓いを新たにしたい。
ただ現実はどうだろう。
「イラク行き告げた息子の親友」―先ごろ本紙「門」欄に、そんな投稿が載った。亡くなった息子の親友が自衛隊員としてイラクに派遣されることになり、報告に来たという話だ。
身近なところから大切な人が「戦地」へ赴く事態は、残念ながら過去のものではない。
国連平和維持活動や国際緊急援助活動で実績を重ねるに従い、自衛隊の海外派遣が国際貢献として国民に支持されるようになったのは確かだろう。
だが、アフガニスタンに展開する米軍を後方支援するためのインド洋派遣に続き、戦闘のやまないイラクへもなし崩しで派遣したことには懸念をぬぐえない。海外での武力行使や集団的自衛権の行使を禁じた憲法に抵触する恐れがあるからだ。
イラクでは武装勢力の攻撃でいつ被害が出てもおかしくない。同時に対テロ最前線での活動では、日本人が引き金を引く場面が来ないとも限らない。
ところが、自民党が先ごろ公表した憲法改正草案の一次案はむしろそうした方向へ後押しする内容だ。「戦争放棄」を「安全保障」と言い替え、自衛軍の保持も明記した。集団的自衛権も認める立場だ。海外での武力行使にも道を開いている。
この十年を振り返ると、不戦の誓いは色あせつつある。歴史認識もその一つだ。「従軍慰安婦という言葉は当時なかった」「A級戦犯は日本国内ではもう罪人ではない」―過去に目をつぶるような発言が政府内で相次ぐのはどうしたことか。
用語の有無と、事実として問題が存在したことは別だ。A級戦犯らを裁いた東京裁判も、戦勝国による一方的なものとの批判はあるにせよ、日本は講話条約受諾で判決を受け入れ、国際社会に復帰した経緯がある。
なのに、かつてのように発言の責任を問われることもない。
そうした空気は戦後六十年の国会決議にも反映されている。戦後五十年決議にあった「植民地支配」「侵略的行為」の文言はなくなり「歴史観の相違を超え、歴史の教訓を謙虚に学び」といった表現も消えた。反省が後退した感は否めない。
小泉純一郎首相の靖国神社参拝も、戦争の反省から政教分離を定めた憲法に違反する疑いがある。批判に耳をふさぎ、既成事実化を進める態度は近隣諸国とのあつれきも生んでいる。
戦後生まれは人口の四分の三以上にのぼる。惨禍が実体験として語られる機会はますます減るが、それを継承して血や肉とし、不戦を堅持するのは今を生きる者の務めだ。次の十年は、過去と向き合いながら恒久平和を勝ち取るものにしたい。
2005年08月15日 高知新聞
【戦後60年】他国の痛みにも目を
60年目の終戦記念日がめぐってきた。
太平洋戦争では軍人、軍属はもとより民間人も含めた多くの日本人の命が失われた。犠牲者の霊を慰めるとともに、平和への誓いを新たにする一日でありたい。
太平洋戦争の大半で、日本は苦しい戦いを余儀なくされ、悲惨な最期を迎えた兵士も少なくない。
こうした経過や体験、記憶から被害者としての意識が前に押し出されるのはやむを得ない。
しかし、それだけでいいのだろうか。こんな問いが年を追うごとに重みを増している。加害者として戦争を総括する姿勢だ。
ことしもアジア諸国との間で、歴史認識をめぐるあつれきが続いている。日本の国連常任理事国入りに関連して、歴史認識の在り方を理由に反対運動が起きたのは、その典型的な事例と言える。
60年の歳月を重ねても、なぜアジア諸国との溝を埋められないのか。同じ立場だったドイツの歩みなどを参考に、過去と向き合う時期が来ている。
東南アジアの人々に、太平洋戦争はどう映っているのか。その答えは多種多様であろうが、手掛かりを得ようと、インドネシアの首都ジャカルタにある独立宣言記念館を訪れた際、女性学芸員のイブ・スリハーニングシーさんに尋ねた。
太平洋戦争中、日本は3年半この国を占領統治した。それ以前はオランダが約300年間も支配した。「確かに日本支配は長くなかった。でも、つらい過去です」。これがイブさんの答えだった。
ロームシャ(労務者)という日本語がインドネシア語としてそのまま残っている強制労働があり、日本兵による残虐行為があった。民族の誇りも傷付いた。こうした負の記憶や感情が、「つらい」という言葉になってあらわれている。
こうした痛みに対し、日本はこの60年間、誠実に向き合ってきたのだろうか。
歴史教科書の記述、補償問題、靖国神社参拝など、ことあるごとに噴き出す反日感情は、日本人の歴史認識の在り方を問うている。
ドイツの対応
示唆を与えてくれるのは、同じ敗戦国だったドイツの取り組みだ。
分断国家だった旧西ドイツ時代には、ナチス・ドイツの戦争行為やユダヤ人に対するホロコースト(大虐殺)などの評価をめぐり、激しい意見対立があった。
空気を変えたのは1969年に登場したブラント政権で、東欧諸国や旧ソ連との対話路線を推し進めた。ブラント首相は翌年、ポーランドを訪問してユダヤ人の犠牲者を追悼、その時、雨上がりの地面にひざまずいて祈りをささげた。
こうした流れの中で、ナチス犯罪追及の時効廃止、ポーランドとの歴史教科書の共同研究などが具体化した。賛否はあっても、幅広い論議を通じ、国民的な歴史認識を形成する努力が実を結んでいる。
日本と韓国の間でも歴史の共同研究が始まっている。これまでの研究では歴史認識の違いが浮き彫りになっているが、それを知るのも大切な作業だ。こんな取り組みは他のアジア諸国にも広げる必要がある。
イブさんは時々、日本からの修学旅行生を案内する。東南アジアの歴史をあまり教えられていないと感じる。「何がいいことか、何が悪かったのか。それを次の世代に伝えることが大切」と力を込める。
戦後60年の節目は、歴史認識の在り方を再点検する日でもある。
2005年08月15日 熊本日日新聞
戦後60年 歴史に向き合う政治の責務
六十回目の終戦記念日。節目であるだけでなく、例年にも増して喫緊(きっきん)の課題が多い。靖国神社参拝や教科書問題に象徴される歴史認識では、国としての戦後処理の到達点が問われ、世界的なテロの多発は、今後の国際安全保障のあるべき姿を求めている。
◆変わる「歴史」の周辺
政治や外交の現実がどうであれ、平和や不戦は万民共通の願いだ。ただ、これらの言葉を率直に口にできないような雰囲気がある。一種のとげとげしさとでも言おうか。人類の素朴な願いが国内外の対立にほんろうされている印象だ。
歴史認識をめぐるアジア諸国とのあつれきが、いい例ではなかろうか。戦争責任については、小泉純一郎首相をはじめ歴代首相が折に触れ日本としての反省の弁を述べてきたように、先の大戦でとりわけアジア諸国に多大な被害と苦痛を強いたのは事実である。当時の歴史的背景や個々の評価はともかく、日本はサンフランシスコ講和条約を受け入れ、中国とは一九七八年に日中平和友好条約を締結している。
このように、戦争被害国との間では国交正常化という国同士の約束事を積み重ねてきたにもかかわらず、中国では反日の嵐が吹き荒れた。この問題では、中国の指導層が国内の不満を意図的に日本に差し向けている「官製」のものだとか、これまでの反日教育の結果、などの解説も聞かれる。おそらく的外れの指摘ではないだろう。
ただ一つ言えるのは、中国も例外ではなく、時代とともにものを言う環境が変化し、人のものの見方も変わってきたことである。条約締結の七八年当時、国内で受け入れられた中国政府の対応や見解が、いま必ずしも全能ではないということだろう。当時とは言論に関する制約の度合いも違うし、インターネット社会の進展で情報に触れる機会も増えている。
さらに言えば、そういう状況を、世界の大国をめざす中国が対日外交に利用する政治的な側面も否定はできない。もちろん、小泉政権の対アジア外交のまずさもあるのだが、日本が目指す国連安保理の常任理事国入りに、中国や韓国が猛反対している現状を引き合いに出すまでもない。国際的な力関係が大きく変化する中で、それぞれの国益とも微妙に絡みながら、歴史問題が論じられるというのが最近の傾向でもある。
◆欠かせぬ地道な検証
歴史認識は、原則的にはその国の問題であり、他国からとやかく言われることではない。ただ、国民のすべてとは言わないまでも、基本認識の最大公約数を築いていく歴史の検証作業は、時の流れに左右されることなく、地道かつ丁寧に続けられなければならない。
その作業は、この六十年間できちんとなされてきたのだろうか。最近の話で言えば、例えば外国での反日デモや首相の靖国神社参拝といった、その時々の出来事に一喜一憂する程度で終わってきたのではないかと思う。
その責任は、まずは政治の場で自覚されるべきだ。この点、今月二日に衆院で採択された「戦後六十年の国会決議」をめぐる動きでは、国会が十分に役割を果たしていない一面を見せつけた。
当初の与党案では、十年前の「五十年決議」に盛り込まれていた植民地支配や侵略的行為の文言がなかったが、与野党調整の結果、「五十年決議を想起」との表現を加えることで採択にこぎつけた。
侵略かどうか、植民地支配だったのかどうかは単なる表現上の問題ではない。戦争責任のありようにかかわる根幹部分である。ただ、個人レベルまで含めれば原体験の違いなどから多種多様な見方があるのは事実である。しかし、国会としての見識が問われる節目の場面で、妥協や分かりにくさを印象づけてしまったのは残念だ。
◆国会の指導性発揮を
今年六月に公表された「日韓歴史共同研究」の報告書でも明らかなように、歴史をめぐる認識の違いは国内外を問わず存在する。この現実を直視することからすべては始まるのではないか。そのリーダーシップは、やはり政治に発揮してもらわなければならない。
二日の国会決議では、「国会は法案審議の場であり、国論を分けることをあえて決議することには疑問がある」「党内議論をまったくしていない」などの理由で一部の自民党議員が採決に加わらなかった。決議という手法の是非はともかく議論を深める努力をせず、六十年目の通過儀式のように映る決議では、国会としての責任を果たしたとは言えない。時間がかかっても、国民に見える形で正面から議論し、現状打開の好機にすべきではなかったか。
きょうの全国戦没者追悼式(東京・日本武道館)では、一九六三年の第一回以来初めて、戦没者の親の参列者がゼロになる。六十年の時の流れを象徴する話だが、その一方で歴史の検証という戦後処理が道半ばであることを痛感する。
2005年08月14日 宮崎日日新聞
戦後60年・終戦記念日 歴史の教訓から学ぶ謙虚さを
あす十五日は終戦記念日である。
六十年前の一九四五(昭和二十)年八月十五日正午―。国民は昭和天皇の玉音放送を聞いた。終戦の詔勅だ。
「朕ちん深く世界の大勢と帝国の現状とにかんがみ、非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なるなんじ臣民に告ぐ」
「今後、帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず。しかれども朕は時運のおもむくところ、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世のために泰平を開かんと欲す」
漢語表現とラジオの音質の悪さでかなりの国民には意味不明の部分もあった。だが、長い長い戦争がようやく終わったことだけは確かであった。
いまも靖国問題論争
そこから「戦後」が始まる。しかし、問題はそれ以前にある。「戦前」体制は何が間違いだったのか。終戦の詔勅では米英への宣戦布告について「帝国の自存と東亜の安定」のためだったとしている。その上で「他国の主権を排し、領土を侵す」ことは意図していなかったと強調している。
しかし、実際には他国の領土で戦争を行い、相手諸国と日本国内ともに多大な犠牲者を出したのである。日本が敗北し、その後にアジア各国が独立を果たした事実はあるが、日本が独立を果たさせたわけではない。
最近の靖国神社をめぐる論争にも二つの大きな歴史観が対立しているように思える。先の大戦が「侵略戦争」と否定されるべきなのか。それとも「自衛の戦争」「正義の戦争」だったのか。あるいはその両方の要素を併せ持つものだったのか。
戦後六十年たっても、靖国神社問題は解決していないままだ。A級戦犯が一九七九年に合ごう祀しされたことがきっかけで再燃したともいえるが、合祀以降、天皇が一度も参拝されていないことの持つ意味は大きいだろう。
異論、少数者排除せず
戦前、経済記者であり、戦後に首相を務めた石橋湛山の思想はいまなお、日本の国家を考える上で大いにに参考になる。日本人の多くが海外の領土がなければ、日本はじり貧になるとの考えが主流の戦前、石橋は「小日本主義」を説き、満州(中国東北部)放棄論を展開する。
そのころ、英国、ドイツでは植民地を拡大する帝国主義への反省が起き、「大英国主義か、小英国主義か」、「大ドイツ主義か、小ドイツ主義か」の論争がそれぞれ起きていた。だが、日本では拡張主義が当然視されていた。
満州は日本の「生命線」とされていた。石橋は朝鮮・台湾・満州との貿易総額が九億円なのに対し、日米貿易が十四億円との数字を示しながら、満州を放棄し、中国市場を米国に開くことが日本の生きる道と主張したのだ。
歴史に「もし」はないが、石橋の小日本主義が受け入れられていたら、日中戦争、日米開戦から敗戦に至る道はなかったであろう。
図らずも、石橋の主張はポツダム宣言受諾で実現する。すべての海外領土を失ったことが戦後の繁栄の出発点となった。国民の勤勉さなどで戦前には信じられないほどの経済大国の地位を得た。ここをよく考えておくべきだ。
異論、少数意見排除の政治・世相が主流になることは国家を危うくする。終戦記念日は子や孫の生きる時代を遠く見据え、この国を深く静かに考えたい。
2005年08月15日 南日本新聞
【終戦記念日】“戦後還暦”機に不戦の誓いを新たに
戦後60回目の終戦記念日を迎えた。東京の日本武道館では全国戦没者追悼式が開かれ、鹿児島県内各地でも戦争の悲惨さや平和の尊さを訴える集会、イベントがある。
「堪(た)え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す」−。有名な昭和天皇の玉音放送が流れたのは60年前のこの日だ。
ラジオの音質が悪く、国民には意味不明の部分もあったが、長い戦争に終わりを告げたことは確かだった。それから60年。日本が平和憲法を重んじ、不戦の誓いを守ってきたのは間違いない。
だが、戦後60年を過ぎて、不戦の誓いも風化しつつあるように思える。
専守防衛を貫いてきた日本の安全保障政策は、小泉純一郎政権の自衛隊のイラク派遣などで、その性格を急速に変化させつつある。憲法九条を改正しようとする動きも激しさを増すばかりだ。
歴史認識のずれに端を発した中国、韓国との摩擦は強まる一方で、春には中国での大規模な反日デモにつながった。
60年は人間なら還暦に当たる。しみじみと平和をかみしめ、不戦の誓いを新たにしていいはずである。この“戦後還暦”という記念の年に、きな臭い空気が漂うのは残念である。
平和憲法が危ない
日本の将来に、まるで戦前に回帰するかのようなきな臭さを感じさせる最大の要因は、憲法改正の動きに違いない。
自民党の新憲法起草委員会は今月1日、改憲草案の条文案を発表した。
焦点の九条に関しては、平和主義の理念は維持しつつも自衛軍の保持を明記、国際的に協調して行われる活動にも参加できるという内容である。
海外での武力行使を伴う活動に道を開く内容で、専守防衛という日本の戦後一貫した安全保障政策を根本から覆しかねない危うさを持つ。
自民党草案だけでなく、今年は憲法が根本的に揺さぶられ続けている。
衆参両院の憲法調査会が、5年にわたる議論を集約した最終報告書を両院議長に提出したのは4月のことだ。衆院は九条を含めた改憲の必要性を打ち出し、参院も九条については賛否両論を併記したが、改憲の必要性を明示した。
改憲論議が高まる背景には、戦後60年を経て、憲法が時代に合わなくなっているという時代認識がある。憲法改正を戦後の総決算にしたいという自民党の狙いもあるだろう。
だが、憲法は本当に時代に合わないと国民に受け止められているだろうか。
共同通信社が行った6月の世論調査では「憲法を改正する必要がある」「どちらかといえば改正する必要がある」とする改正派は64%に上り、「改正の必要はない」「どちらかといえば必要はない」の反対派27%を大きく上回った。
しかし、九条に関しては「改正する必要がない」が42%で、「改正する必要がある」の35%を上回っている。
平和憲法を否定して日本も軍隊を持ち、国際貢献の美名のもと、海外にも派兵すべきとする一部の改憲論議に国民が共感しているとは到底思えない。
もとより、憲法は「不磨の大典」ではない。時代に合わないところは改正する必要があろう。しかし、最近の憲法改正の動きが九条狙い撃ちであるとすれば、国民の共感は得られまい。
現在の改憲論議が国民の要求から生まれたものか、それとも一部勢力が先走りしているのか、終戦記念日を機に、もう一回、冷静に見つめ直す必要がある。
戦前回帰の動き顕著
「もはや戦後ではない」は1956(昭和31)年の経済白書に書かれた有名な一節だ。しかし、その後も今日まで、戦後という言葉が使われてきた。
だが、最近では現在の日本を「戦前」と指摘する動きも生まれてきた。自衛隊のイラク派遣、憲法九条改正、有事法制などきな臭い動きに歯止めがかからない状態は、すでに次に待ち構える戦争の前の状態ではないかというのだ。
例えば、小泉首相が日米同盟を重視してイラクへの自衛隊派遣に踏み切った動きはどうだろうか。日英同盟があるからと、第一次世界大戦に参戦した戦前の日本の動きと似通ってはいないか。
第一次世界大戦では日本は戦勝国となったが、第二次世界大戦では敗れた。
イラク戦争で米英を中心とする有志連合は一見、戦勝国に見えるが、ロンドンで2度にわたるテロが起き多数が犠牲になるなど、戦争が増幅させた“文明の衝突”は激しくなるばかりである。
日本に求められるのは、日米同盟に過度に寄りかかることではなく、中国、韓国など近隣諸国に目配りした全方位の外交を展開することである。そのためには、首相の靖国神社参拝をはじめとする歴史問題でも日中韓が胸襟を開き、率直に意見を交換しなければならない。
総選挙公示を間近に控え、各党の選挙スローガンづくりが盛んである。首相は「郵政選挙」を強調するが、選挙の争点は決してそれだけではあるまい。
八方ふさがりの外交をどう打開するか、安全保障政策をどう構築するかも重要な争点である。選挙では、どの政党が将来の日本の進路を明確に示すかも綿密に点検し、「平和国家ニッポン」を継続させるための選択肢を広げたい。
2005年08月15日 沖縄タイムス
[終戦記念日に]終わりと始まりの責任
「韓流」でも埋まらない溝
六十回目の八月十五日がめぐってきた。
ひたすらに平和な国家を目指し歩みだしたはずの戦後日本が、「危険な位置」に立っていることを感じずにはいられない、「鎮魂の夏」である。
その一端を、かつてなく深いアジア近隣諸国との亀裂が物語る。
中断している日中首脳の相互訪問はめどさえたたず、中国各地で相次いだデモが反日感情の根深さを見せつける。
日韓首脳会談は、盧武鉉大統領が「合意に達した点はなかった」と言い切るほどぎすぎすしたものとなり、国交正常化四十周年という節目も色あせた。
小泉純一郎首相の靖国神社参拝や歴史認識問題が影を落としている。
戦争が終わって六十年がたつというのに、いまだに「近くて遠い国」のままでいるのは、「負の遺産」をきちんと処理してこなかったからだ。
国会は衆院本会議で、戦後六十年の決議を採択した。
今回の決議では、五十年決議にあった「植民地支配」「侵略的行為」との文言が消え、「わが国の過去の一時期の行為がアジアをはじめとする他国民に与えた多大な苦難を深く反省」という表現に薄められている。
戦争体験のない若い世代からすれば、「戦争をしたのは私たちではない、いつまで謝り続けるのか」との気持ちにもなるだろう。
しかし過去の歴史事実は戦後世代と決して無関係ではない。なぜなら現代に生きる若者は、そうした問題について、正しい評価を下す役割を担っているからだ。
韓国ドラマや韓国人俳優を見ない日がないくらい、韓流はますます広がり、国民の間に浸透している。
一方で、歴史の問題を置き去りにしたブームに違和感や物足りなさを感じている人も少なくない。
多くの日本人は、自分自身の被害が大きかったため、加害について忘れがちである。
殴った方は忘れても、殴られた方は忘れない。溝を埋めるのに必要なのは、歴史を直視する姿勢だ。
「攻撃される側」の真実
東京大空襲を題材に戦争の悲惨さをつづった「ガラスのうさぎ」が、今年初めてアニメ映画化された。
原作者の高木敏子さんはアニメ化を断り続けてきたが、「イラク戦争はミサイルがピョーンと飛んでいって、落ちた先の悲惨さを映さない。戦争とはこういうものだときちんと伝えたかった」と思いを語る。
空爆下のバグダッドにとどまりイラク戦争を伝え続けたジャーナリストの綿井健陽さんは、「攻撃される側の戦争を伝えたかった、それが取材の視点だった」と話す。
イラクで武装勢力の人質となった高遠菜穂子さんは、帰国後、「報道されない命がある」と住民被害の真実を訴えている。
若い世代を中心に、戦争に対する「垣根」が低くなっていることを危惧する声は多い。自分たちの問題としてとらえることができず、現実感がともなわないためだ。
血まみれとなった子ども、自爆テロに巻き込まれた女性、無数の悲しみと怒り…。攻撃される側から戦争を見つめ直したとき、「自由」や「大義」といった言葉が、いかに空虚であるか気付かされる。
無関係では済まされない
沖縄から広島、長崎と続いた「平和への祈り」が、きょう東京で開かれる全国戦没者追悼式で締めくくられる。
イラクへ自衛隊が派遣され、憲法九条の改正論議が進む中、現実に進行している政治との落差を広げながら。
日本の人口の四分の三が戦後生まれとなった。毎年この季節になると多くの人が戦争のことを考えるが、戦争を記憶する世代はわずかしかいない。
どう心に刻み、次代へ継承していくのか、残された時間は少ない。
沖縄は国内で唯一地上戦が行われた場所で、日本が戦争に負けた場所だ。湾岸戦争やイラク戦争では米軍の出撃基地の一つとなった。
戦争が記憶から歴史に変わろうとしている時代だからこそ、自分の国が戦争に関与している事実を重く受け止めたい。戦後責任と同時に、戦争を始めた責任が問われている。
2005年8月15日 陸奥新報
より意義深くなる終戦の日
太平洋戦争が終わってから、きょう十五日で六十年になる。当時十歳の少年も今は七十歳、と考えると戦争の記憶は、ほぼその前後を超える年齢の人たちへと押しやられたことになる。その悲惨さと無意味さが忘れられると新たな戦争への歯止めが利かなくなる恐れがある。今後終戦の日は、今まで以上に重要な意味を持つと考える。
戦争に対する県民の意識は年齢だけでなく地域的にもさまざまだろう。青森市は一九四五年七月二十八日、B29爆撃機六十二機の焼夷(しょうい)弾八万三千発の投下を受け約千人が死亡、市街地の九割が焼け野原となった。
同市では今年も戦没者慰霊祭が行われ遺族や関係者らが、焼け残った数少ない建物などを巡って平和への願いを新たにした。
遺族らも高齢化し、慰霊祭への参加は次第に少なくなっている。その一方で、青森空襲を記録する会(今村修会長)が終戦から三カ月後に同市を訪れた米国戦略爆撃調査団が詳細に被害を検証した報告書を最近入手して、新事実を公表するなど、戦争の真実は時代とともに明らかになる面もある。
戦争の犠牲者たちは、突然尊い生命を絶たれ、家族からも切り離され、無念の思いをこの世に残したと言えるだろう。だからこそ遺族らにとって忘れられない存在となり、次の世代に引き継がれる。戦争を記録する作業は、関係者が次々に亡くなるため、より困難になるにしても新たな視点からの解釈や発掘は、いくらでも可能だ。
県内の戦争被害は青森市が代表的だがその他市町村には、戦時中に召集されて戦地で命を落とした父や兄を持つ人たちもあちらこちらにいる。平和に慣れたせいか戦争中のつらい思い出を語るお年寄りもまれになった。
日本は現在平和だとしても、雲行きはかなり怪しくなり遠雷がとどろいているような不気味さが感じられる。
四年前、米国で起きた「9・11」同時テロにより二棟の高層ビルとともに約三千人が亡くなり、その延長線上で米国はイラクを攻撃したが戦火はいまだ消えていない。それどころか過激派によるテロは飛び火して、先月七日には英国のロンドンで同時爆弾テロが起きた。
日本は昨年一月からイラクに自衛隊を派遣し米国に協力しているから、日本が狙われてもおかしくない状況だ。
その一方、日本海の向こうの北朝鮮は核開発を進めているだけに脅威である。拉致問題では不誠実な対応を続けているため国民感情も悪化し、不穏な関係下にある。
このような情勢から、国民の間には、国土防衛の意識が高まり、自衛力を強めようという動きが出始めている。
自民党新憲法起草委員会が一日に公表した改憲草案一次案では「国家の平和および独立」確保のため自衛軍保持が明記された。九条の「戦争の放棄」を「安全保障」に変更し「戦力の不保持」と「交戦権の否認」を削るなど、積極的な自衛を打ち出している。
「自衛モード」が高まるなど、危険な兆しが現れる中での「終戦六十年」だ。夏は盆休みを取りながら、過去の戦争を思い起こす習慣を忘れてはならない。
2005年8月15日 琉球新報
終戦60年・「命どぅ宝」原点に不戦誓う/再び「捨て石」にされないために
沖縄には「命(ぬち)どぅ宝」(命こそ宝)という言葉がある。終戦から60年の歳月を経て、少しも色あせることがない。「戦争放棄」と「戦力不保持」をうたった平和憲法の危機がいわれる今日、むしろ輝きを増し、あらためてこの言葉の持つ意味の深さ、重さを感じずにはいられない。
第二次世界大戦は、武装した人間同士が殺りくを繰り返すこと、あるいは武器を手にした人間が武器を持たない人間の命を奪うことがいかに愚かで悲しく、絶対に許されない行為であるかを私たちに教えてくれた。
これを知るのに、筆舌に尽くし難い犠牲を払ったことは言うまでもない。大きな代償であり、「負の遺産」ともいえる。
沖縄戦を教訓に
大切なのは、過酷な体験から得た教訓を風化させることなく継承し、戦争を知らない世代に「平和を希求する心」をはぐくむことである。その原点となるのが「命どぅ宝」という言葉であろう。
戦時中、私たち国民は「お国のためにすべてをささげよ」と国家から刷り込まれた。「すべて」とは単に物的資源だけでなく、命をも含む。これに疑義を挟む者は「非国民」とされた。
沖縄も例外ではない。終戦の年は、米軍上陸とともに激しい地上戦が展開され、多くの住民が戦火に巻き込まれて命を落とした。戦況が芳しくないとみるや、日本軍は本土決戦の時間稼ぎに入り、沖縄を「捨て石」にしていく。
人間が人間でなくなるのが戦場だ。日本兵にスパイの疑いを掛けられ、殺害された住民もいた。離島などでは集団死を迫られた人々も少なくない。住民は食料を奪われ、避難していたガマ(自然壕)から追い出されて初めて「軍隊は住民を守ってくれない」ことを身に染みて知る。
人々が「命どぅ宝」の思いを、強くしていったのは想像に難くない。戦時中もこの言葉を支えに、わが子を殺すことなく、生き延びた人々がいたであろう。「死んでしまってはおしまい」「生きてこそ世のため、人のためにもなる」―これは沖縄の人々が過酷な体験から学んだ信念である。この信念を大事にすることが「平和を育てる」ことにつながるし、戦争犠牲者への一番の追悼にもなろう。
ただ、最近の日本は、戦争体験を教訓に「平和を育てる」方向へと足並みをそろえているかといえば、必ずしもそうではない。衆参両院の憲法調査会は平和主義を骨抜きにし、「自衛軍保持」を掲げる政党も出てきた。九条の「戦争放棄」を「安全保障」に変更し、条文から「戦力の不保持」と「交戦権の否認」を削る内容だが、これではアジアの各国から「戦争への備え」と警戒されても仕方がない。戦後、吉田茂首相は「自衛のための戦争も放棄する」と表明したが、なし崩しになっている。
メディアの責務
「戦力の不保持」は平和主義の要である。戦争の愚かさを知った国民にとって譲れない一線だ。改憲派は有事のための対応だとか、国民保護法もあると言うが、逃げる手だてより、逃げる必要のない国づくりに努めるべきである。
メディアの責務も大きい。先の大戦で新聞は一時期、戦意高揚に加担した「負の歴史」を背負っている。その反省から、本紙は戦後60年の節目に「沖縄戦新聞」を発行した。社是に掲げた「恒久世界平和の確立に寄与する」の精神を忘れず、このような歴史を二度と繰り返さないという強い決意である。
「沖縄戦新聞」は、大本営発表ではなく、現代の視点で沖縄戦の実相に迫っており、学校現場で活用できるように戦跡案内なども加えた。沖縄に限らず戦争遺跡は加害と被害の両面から戦争を考える絶好の場所だ。とりわけ若い人には一度、訪ねてもらいたい。
残念ながら沖縄は、戦後米軍の占領が長く、復帰後も広大な基地が残されたままだ。米軍機の墜落事故や米兵による残忍な事件は後を絶たず、戦場さながらである。その意味では沖縄の「戦時」は続いており、脱・基地を果たさない限り「戦後」は始まらない。
イラクの悲劇が示すように、軍事力で民衆が救われた例は聞かない。それなのに日米両国は、沖縄を有事の際の軍事拠点としかねない状況だ。再び「捨て石」にされてはたまらない。今こそ「命どぅ宝」の原点に立ち、不戦の誓いを新たにしたい。
2005年8月15日 東亜日報日本語版
[社説]国を立て直し、未来へ進もう
光復(クァンボク)60周年だ。日帝の鎖から解かれ、独立国家の基礎を固め、分断と戦争を踏み越えて、近代化と民主化を成し遂げた、苦くも誇らしい歳月だった。大韓民国の成就は、世界の後進国の歴史の中で類例がない。国民みなが胸を張るに値する。
しかし、未来は不透明だ。政治・経済・社会的な葛藤が助長され拡散する状況は、深刻である。「絶対貧困の脱出の原動力である資本主義市場経済体制の選択と産業化への努力、経済開発に集中できるように安保不安を減らした韓米同盟」を否定し、揺さぶる気流は尋常ではない。民主化後の先進化のビジョンは、具体的な戦略に可視化されず、「過去の征伐」が未来戦略であるかのような、大韓民国を自害へと導く「政治と運動」が幅を利かせている。北朝鮮住民の飢えと人権の惨状には背を向けたまま、「民族」という一言で、金日成(キム・イルソン)、金正日(キム・ジョンイル)体制を擁護し、最大の安保脅威である核問題の解決を困難にする様相も見せている。このよう状況で、国力は分散・消耗し、経済の潜在力はますます落ちていく。
光復60周年を転機にしなければならない
国の根本を立て直さなければならない。そして、未来に向けて、ともに走らなければならない。そのためにも、さらに強くて豊かな一流先進国を作らなければならない。これが、この時代の私たちに与えられた使命である。
アイデンティティは個人であれ、国家であれ、最も根本的な問題だ。分断で「未完の光復」になったが、だからといって大韓民国の根まで否定する行動が容認されてはならない。国民は、60年前の解放の空間で統一を念願したが、米ソ冷戦の激化の中で、現実的に不可能だった。一部では、「親日、親米、反民族主義者たちのために、統一政府の樹立の機会を逃した」と主張するが、明白な屁理屈である。このような独善と無知が、韓国内部の葛藤と分裂を増幅させる要因になっている。これまで、明らかにされてきた共産圏の史料だけを見ても、ソ連が1945年9月に、すでに北朝鮮単独政権の樹立を決定し、金日成がこれに徹底的に従ったことが立証されている。
分断は克服しなければならないが、必ず自由民主主義と市場経済を守り抜く方法でなければならない。これは、人類普遍の価値であり、民族が生き残る道である。北朝鮮のごく少数の「体制受恵層」を除く絶対多数の住民が、数十年間経験している飢えと反自由の恐怖が、これを雄弁に物語る。飢えさせること以上の拷問と反人権はない。
統一は、自主を叫ぶばかりでは実現しない。統一を支える国力を育て、周辺国の利害を越える外交力量も備えなければならない。活用すべき善隣友好関係を崩し、民族協力だけを叫んでは、統一は実現しないだろう。冷厳な現実を無視して、聞こえのいいスローガンで「反外勢」だけを叫ぶことこそ、「反統一、守旧」である。
産業化勢力と民主化勢力の反目から解消すべきである。産業化のない民主化、民主化のない自由と人権の伸張が可能だっただろうか。2つのエネルギーを1つにして、先進化の動力にしなければならない。しかし現政権は、理念論争と主流の攻撃で、葛藤をむしろ煽っている。民主化勢力は、道徳的な優越を掲げるが、それだけで未来を開くことはできない。民主化政権でも盗聴がほしいままにされた。
政府・市場・市民社会、共生の知恵の発揮を
葛藤を緩和して、国民を最大限一つに統合しなければならない。そのために、政府、市場、市民社会の提携が切実である。一方だけの力で、世界的な無限競争を切り抜けることは難しい。政府がすべてを計画・推進して、成功する時代は過ぎた。政府はいくら有能でも、善意の仲裁者にとどまらなければならない。ポピュリズム(人気迎合)政治には長けているが、国政運営にはアマチュアな政権はなおさらである。
市場にすべてを任せることもできない。市場と政府の最適な関係設定は、政治経済学の長年の宿題である。市民社会の急速な成長は、産業化と民主化が与えたもう一つの贈り物だが、これも万能であるとは言えない。無責任で派閥的な市民団体の乱立が、真の代議民主主義と経済の效率増進に、むしろ障害になると指摘されている。
3者が互いの価値と役割を認めて相互に節制する中で、共存の道を見出さなければならない。これらをつなぐのは、法治である。嫌いだと言って憲法を攻撃し、法治に逆らう行動が、国を崩すまでに至ったことは、まことに心配である。これに対する自制があってこそ、先進民主国家、誰もが安心して経済ができる国に進むことができる。
2005年8月15日 世界日報
終戦記念日/歴史の明暗の公正な把握を
終戦の日を迎えた。今年は六十回目の節目に当たる。いまわが国は中国、韓国から「歴史認識」を問われているが、過去の戦争をどう考え、どのような教訓を引き出すかは、わが国が主体的に行わねばならない課題だ。
まず戦争の犠牲となった三百万人を超える人々の霊を慰め、平和への誓いを新たにしたい。
バランスの取れた歴史観
歴史の評価は極めて困難であり、先の戦争についても複眼的多面的にとらえることが必要だ。この点、日本の過去を限りなく真っ黒に描こうとする「自虐史観」も、限りなく真っ白に描こうとする「自愛史観」もバランスを欠いた単眼的な見方だといえる。歴史の明暗の公正な把握が必要だ。
「自虐史観」は戦後学界やマスコミの主流を占めた左翼のもので、東京裁判史観での日本断罪を全面的に受け入れて先の戦争を侵略戦争として非難する。そればかりか祖国の英雄である乃木大将や東郷元帥などを歴史教科書から排除する。日本人の誇りとアイデンティティーの否定であり、到底受け入れられない。
「自愛史観」は先の戦争を自衛とアジア解放の戦争として肯定する。確かに日本人の多くは崇高な使命感を抱いて戦った。神風特攻隊に象徴される犠牲的精神は胸を打つ。戦争は結果的に各地での植民地解放の起爆剤となった。
一方で、戦争の背景には他国の自決権を無視した大陸への進出で生命線を確保し、経済権益を求めようとする軍上層部の独断専行があった。ナチスの全体主義に共鳴した軍の革新思想が、コミンテルン(国際共産党)により「日米かみ合わせ戦術」に利用された面も忘れてはならない。
アジアの人々にとっては日本が頼まれもせずに強行した「解放戦争」だった。われわれが広島、長崎を忘れないように、被害と屈辱を受けた国や人々の怨念(おんねん)は容易に消えない。
内外の歴史家は、日本は二つの奇蹟を成し遂げたと見る。一つは明治維新から約四十年で日露戦争に勝利したこと。他は敗戦後の経済復興だ。米国に次ぐ経済大国になった原因の一つは、天皇の「御聖断」で「敗戦革命」を回避できたことと、国民統合の象徴として「天皇制」が維持されたことだ。
近衛文麿は敗戦直前の天皇への上奏文で「一億玉砕の主張の背後にあるのはこれにより国内を混乱させ革命の目的を達せんとする共産分子なり」と述べた。コミンテルンは破壊された日本を中国革命と連動させて共産化しようとした。これを阻止したのは天皇だった。マッカーサー元帥が日本の安定化の礎石として「天皇制」の存続を認めたのは正しい判断だった。
原因の第二は、日本が戦後の価値観として自由と民主主義を受け入れたことと、日米安保体制を選択したことだ。戦後は戦前の軍部に代わって左翼勢力が言論界や労組を支配し、ソ連を「平和勢力」米国を「戦争勢力」とみなして日米安保体制打倒の声を上げた。だが左翼勢力は退潮を続け、旧ソ連の崩壊で決定的なダメージを受けた。国民は賢明だった。
堅持すべき海洋国家路線
いま日本に求められるのは、過去の戦争から引き出すべき明確な国家戦略だ。現在は集団安保の時代である。一国だけで平和と安全を維持できない。集団安保の大前提は価値観の共有だ。
自由と民主主義を選択し繁栄した日本がとるべき国家戦略は、価値観を共にする米国との安保体制を堅持して責任分担を果たし、海洋国家の道を歩み続けることだ。
2005年8月15日 しんぶん赤旗
第2次大戦終結60年 戦争を許さない決意を新たに
終戦記念日にあたり、戦争を許さない決意を新たにしたいと思います。
戦後六十年、日本は、外国と、直接、戦火を交えることなく過ごし、戦争を体験していない人が多数になりました。素晴らしいことです。
一方、「あの戦争」と言っても通じない人も増えました。戦争の記憶の継承が十分でないのにつけこみ、侵略戦争を正当化し、憲法第九条を改悪しようとする動きもあります。
日本を戦争の道に逆戻りさせる危険なたくらみを阻止し、平和な未来を開くため、力を合わせましょう。
歴史偽造は未来を奪う
日本は、侵略戦争によって、二千万を超すアジアの人々の命を奪いました。その一人ひとりに親がおり、兄弟姉妹、配偶者や子ども、孫がいたかもしれません。遺族は、おそらく、億単位になるでしょう。それより多くの人が傷つけられ、財産を奪われました。犠牲者の苦しみと悲しみを理解する人間の心をもつなら、「日本の戦争は正しかった」とは、口が裂けてもいえないはずです。
ところが、小泉首相が参拝に固執する靖国神社は、「自存自衛」のため「アジア解放」のための戦争だったと宣伝しています。『新しい歴史教科書』(扶桑社)も、侵略戦争を推進した天皇制政府や靖国神社と同じ見方にたって、「自存自衛」論を書いています。
小泉首相の靖国神社参拝や『新しい歴史教科書』(扶桑社)の検定合格は、侵略戦争正当化論を政府が「公認」することを意味します。憲法の平和原則に反し、侵略戦争の否定という戦後の世界政治の基本からはずれる重大な誤りです。アジアや世界の国々との友好関係を壊し、国民の未来を奪うことになります。
こうした誤りを根本的に克服するためには、日本が侵略戦争を行ってアジアの人々に大変な犠牲を強いたという基本的な事実を、国民共通の認識にする必要があります。
ほとんどの国民は、戦後になって初めて、日本の戦争は侵略戦争だったと知るにいたりました。しかし、侵略戦争の最高責任者である昭和天皇の責任が不問にされたため、侵略戦争の全体像が明確になったとはいえない状況が続きました。戦後六十年の時の流れは、そうした問題も含め、歴史を冷静に見つめ、客観的に考える条件を広げています。
侵略戦争正当化論が繰り返し出てくる根源には、戦後政治のゆがみがあります。
ゆがみのひとつは、戦犯政治家や侵略戦争を推進した政党の後継者が、戦後も政権を握ってきたことです。自民党結党(一九五五年)時の幹事長がA級戦犯容疑者として逮捕された経歴をもつ岸信介氏であり、首相まで務めた(五七年二月−六〇年七月)ことは、その典型です。アメリカは、日本をみずからの世界支配戦略に利用するため、戦犯政治家の復活を容認しました。
危険は自民党政治の中に
さらに、アメリカは、日本に日米安保条約を押し付け、占領時代からの米軍基地を存続させるとともに、日本をアメリカの戦争に動員する仕組みを強化してきました。自衛隊の創設・強化も、憲法改悪策動も、アメリカの「押し付け」です。軍事同盟絶対視の小泉政権は、ブッシュ米政権いいなりにイラクへの自衛隊派兵を強行。自民党の憲法改悪案は、海外の戦争にまで出撃させる「自衛軍」の保持を明記しています。
戦争の危険は、自民党政治の中にあります。平和への願いをこめた、国民の断固たる審判が必要です。