★阿修羅♪ > 戦争73 > 436.html
 ★阿修羅♪
戦後60年 新聞各紙論調 (2005年1月1日社説)
http://www.asyura2.com/0505/war73/msg/436.html
投稿者 月読 日時 2005 年 8 月 16 日 03:28:56: ydTjEPNqYTX5.
 

2005年1月1日 読売新聞

 「『脱戦後』国家戦略を構築せよ…対応を誤れば日本は衰退する」

 【新たな歴史的激動期】

 干支(えと)でいう乙酉(きのととり)年の元日である。「昭和の戦争」が終了してから六十年。干支が一巡し、一九四五年に生まれた人たちも、今年、還暦を迎える。

 「戦後」は、すでに二世代相当の歴史的時間を経た。国際社会も日本も、「戦後」とは異質な世界といえるほど大きく変わってしまっている。

 「戦後」の世界は、基本的に米ソ冷戦構造の世界だった。その一方のソ連崩壊は、社会主義計画経済思想に対する市場経済主義の勝利でもあった。あれから、もう十年以上になる。

 世界は今また、新たな歴史的激動期に入っている。二〇〇一年の9・11米同時テロ事件、続くアフガン戦争、イラク戦争以後、世界・国際社会の様相は一変し、かつ急速に流動しつつある。

 他方で、情報技術(IT)革命の進展を伴いつつ、世界経済も急速な構造的変動のただ中にある。

 こうした世界的激動への国家的対応を誤れば、日本は衰退への道を辿(たど)る。変化の先行きを見据えた中長期的国家戦略を構築し、着実、強力に推進しなくてはならない。世界変化の速度を踏まえれば、迅速な対応が必要である。

 しかし、日本が内外戦略ともに迅速、適切に対応できるかどうかについては、懸念もある。現実の日本には、いまだに「戦後」思考を脱却できない“守旧”勢力が存在するからだ。

 【「戦後民主主義」の残滓】

 こうした“守旧”思考は、文字通り「戦後」の数年間に、連合国軍総司令部(GHQ)の大がかりで巧妙な検閲・言論統制、マスコミ操作によって培養された「戦後民主主義」の残滓(ざんし)である。

 現行憲法の作成・制定過程そのものが最重要の言論統制対象だった。

 GHQが作成した現行憲法前文は、「平和を愛する諸国民」を信頼しさえすれば国の安全は保てるとする趣旨になっている。これに「戦力放棄」の九条二項が重なり、世界の実像とはかかわりなく一国平和主義が貫徹できるかのような「戦後」的幻想を生んだ。

 世界・国際社会の実像に対応すべき日本の現実的課題とはなにか。

 米国は現在、世界的な規模でいわゆるトランスフォーメーション、米軍再編に着手している。イスラム原理主義勢力による最大のテロ標的国家として脅威の変化に対応するとともに、唯一の超大国としての長期展望に基づく世界戦略の再編でもある。

 その一環として、北東アジアから中東に至る「不安定の弧」に対処するため、アジア・太平洋地域における即応展開能力を拡充しようとしている。

 この動きは、日本の長期的な国家安全保障と切り離せない。日米協力・相互補完関係を展望すれば、集団的自衛権を「行使」する様々なケースを想定せざるを得ない。

 「行使」は、憲法を改正するまでもなく、首相の決断による憲法解釈の変更次第で、直ちに可能になる性格の問題だ。首相および政治全体が、「戦後民主主義」的な軍事アレルギー感覚と一線を画す時である。

 【改正すべき教育基本法】

 憲法とセットで制定された「戦後」規範の一つに、教育基本法がある。

 久しく改定の必要性が指摘されていながら、現在も、改定作業が難航しているが、最大の焦点は「愛国心」の扱いである。愛国心が是か非かなどということが議論の対象になる国など、世界中、どこにあろうか。

 こんな奇現象が生じるのは、「愛国心」と聞けば、反射的に「狭隘(きょうあい)な」という形容句をかぶせたがり、「戦前回帰」「軍国主義復活」などとして騒ぎ立てる“守旧”思考が、いまだに一定の勢力を有しているためだ。

 教育基本法策定の過程で、GHQは、日本側が主張した「伝統を尊重して」という部分を削除させ、「個」の尊重に力点を置く基調のものとした。

 伝統の尊重の否定=愛国心の否定は、公共心の希薄化につながり、今日の教育の乱れを招いている。「個」の尊重が、ともすれば児童・生徒の自主性の名のもとに放任へと傾き、規律心の低下、さらには昨今の学力低下にもなっているのではないか。

 世界経済の構造は、すでに中国の急成長により、大きく変容しつつある。加えてインドやブラジルなども、急速に台頭しており、いずれ世界屈指の経済大国化すると見られている。

 【「平等」偏重から転換を】

 そうした流れの先行きを展望しながら、日本経済が国際競争力を保っていくための国家的対応とは、結局のところ、人材の育成に尽きる。教育を基本法の次元から立て直さなくてはならない。

 「戦後民主主義」を培養したGHQをリードしたのは、ニューディーラー左派と呼ばれ、「自由」に伴う創意と自己責任よりも、結果としての「平等」を重視するイデオローグたちだった。今日的にいえば左翼リベラル派である。

 たとえば占領下の一九四九年に作成されたシャウプ税制は、直接税を中心に据え、個人所得には重度の累進税を課す「平等」思考体系のものだった。

 現在、西欧諸国は、いずれも、消費税(付加価値税)という形の間接税が20%前後という税体系の下で、社会保障制度を維持している。

 これに対し、日本では、わずか5%の消費税率を10%に引き上げることにさえ、「弱者いじめ」という論法による抵抗が根強い。シャウプ税制的な「平等」思考の後遺症であろう。

 もちろん、消費税を大幅に引き上げる際には、食料品など日常的生活必需品については軽減税率の対象とするなどの配慮は要る。新聞、書籍を始めとする知識文化的商品も欧米並みに軽減措置を考える必要がある。

 ともあれ、老若男女の全世代が広く薄く負担する消費税の位置づけを中途半端にしたまま、現役勤労世代の直接税・保険料負担を主要財源とした社会保障システムを維持するのが無理なことは、はっきりしている。

 【経済規模縮小の危機】

 日本は、来年二〇〇六年をピークに、人口の急激な減少という明治以来初めての“国勢”転換期に入る。

 とりわけ、生産年齢人口は、今後三十年間にわたり、世界最速のペースで減少し続ける。

 このままでは、二〇三〇年の実質国民所得は、二〇〇〇年に比べて15%縮小する、との試算さえある。

 社会保障システムを支える前提としての、日本経済の規模と生産性そのものを維持できるかどうかという、困難な時代に入っていく。

 今、日本は、まさに国家百年の計が問われている。「戦後」の思考様式を払拭(ふっしょく)し、内外にわたり国家、国民の活力を維持するための戦略的対応を急がなくてはならない。残された時間は、そう多くはない。

 

2005年1月1日 朝日新聞

■2005年の始まり――アジアに夢を追い求め

 ロシア軍の司令官ステッセルが日本に降伏を申し入れたのは、100年前のきょう、1905年1月1日のことだ。激闘5カ月、中国・旅順の攻防はこうして結末を迎える。半年後、日本海でロシアのバルチック艦隊を撃破した日本は、勝利を決定づけた。

 のちに清国政府を倒す中国の革命家・孫文は、欧州でこれを知る。帰国の途中、スエズ運河で多くのアラブ人に声をかけられた。「東方の民族が西方の民族を打ち破った。だから我々も……」という歓喜の声だった。

 アジアの独立運動家たちも、思いは同じだった。この年11月に日本が韓国の外交権を奪い、日韓併合へと歩を進めるのは皮肉だが、大国ロシアに勝った日本が西欧からの独立を求めるアジア人に自信を与えたのは間違いない。

●行き交う共同体構想

 それから1世紀。いま「東アジア共同体を」という声が行き交っている。

 東アジアの国々でそんな提言や研究会などが相次ぎ、東南アジア諸国連合(ASEAN)と日中韓3国の首脳たちは今年、マレーシアで「東アジアサミット」を開くことになった。05年を「東アジア共同体元年」と呼ぶ声すら聞かれる。

 中国とASEANの急接近や、さまざまな自由貿易協定(FTA)づくりの動きが火を付けた。アジア経済危機の克服を助けた日本、経済成長がめざましい中国、そして互いに相手を必要とする入り組んだ関係が原動力に違いない。

 しかし、底に流れるのは古い歴史や文化をもつアジアの共通性ではないか。

 「長い歴史から見ればアジアの方が西欧より先進国です……儒教にも仏教にも民主主義の思想はすでにそこにあった」とは、韓国大統領だった金大中氏の弁。いまイスラム圏と西洋に深い溝があり、欧州と米国にも亀裂が広がる中、アジアが自己主張を始めたように見える。

 1世紀前、明治の思想家・岡倉天心が「西欧の光栄はアジアの屈辱」「アジアは一つ」と唱えたように、過去にはアジア主義の流れがあった。

●ナショナリズムの悪循環

 孫文は1924年、神戸市で「大アジア主義」と題する演説をした。道徳を重んじる「王道」の東洋文化が「覇道」の西洋文化より勝るとして、アジアの独立と復興を訴えたのだ。日本が「覇道の番犬」となる恐れにクギを刺しつつ、東アジアの連携を求めたのである。

 それが「大東亜共栄圏」という名の日本の野望に形を変えてしまったのは、アジアの悲劇だった。戦後60年にしてアジア諸国で語られる新たな共同体は、真の「共栄」を求めるものとして正面から受け止める必要がある。

 しかし、地域の政治に目を転ずれば、とても生やさしい現実ではない。

 北朝鮮の異常さは変わらず、日朝関係打開を探る動きも核と拉致問題で逆流。中国と台湾の関係は緊張をはらみ、日中の間にも厚い雲がたれこめている。

 膨れ続ける中国の軍事力は不気味だ。バネとなる愛国エネルギーは「反日」となって時に噴出する。日本はといえば、自分たちの過去を顧みず、中国をなじるばかりの言論も横行。両国が平和友好条約を結んでいることなど忘れたような悪循環である。小泉首相の靖国神社参拝、日本の海底資源を脅かす春暁ガス田の開発など、トラブルの種は尽きない。

 中国への不安はほかの国々にもある。抜きがたい中華思想、急激な経済発展がもたらした貧富の格差や経済倫理の緩み、共産党支配の異質性……。言語や文化などアジアの多様性も加わって、共同体など夢物語だという声もあがる。

 しかし、である。東アジアの先行きが不安だからこそ、できることから一緒に進める意味がある。「反米」に走るのではない。日本がアジアにしっかりした基盤をつくることは、健全な日米関係にとっても決して悪いことではない。

 日本人の意識を変えた韓流ブーム。漫画やアニメ、ポップスなどアジアに広がる日本発信の新しい文化。そして、離れがたい日中経済のきずな。これらは明るい可能性を示している。目の先をインドなどにも広げれば、さらに道は広がる。

●日中の天然資源を共同で

 孫文が「大アジア」を唱えたころ、欧州では日本人を母にもつオーストリアの伯爵クーデンホーフ・カレルギーが「大欧州」を呼びかけていた。第1次大戦の惨状を目の当たりにし、仏独の歴史的な和解による統合なしには、欧州の平和も経済復興もありえないと考えたのだ。

 願いはヒトラー登場で無残に砕かれたが、第2次大戦後に息を吹き返す。それが今日の欧州連合(EU)にまで成長するのだが、第一歩は1951年に実現した石炭と鉄鋼の6カ国共同管理だった。独仏両国の国境付近で長く争いの種となってきた豊富な地下資源を、平和の種に転じようとした欧州の知恵である。

 同じ知恵を、いま日中両国が使えないものか。天然ガスなどの海底資源を共同開発・管理する仕組みをつくり、明日の平和につなげるのだ。日本にとって決してひとごとでない中国の深刻な環境汚染も、一緒に対処したらいい。

 そういえば、サッカーのワールドカップで実現した日韓共催は、どれだけ大きな副産物を生んだことか。日中関係にいま求められるのは、ダイナミックなプラス思考である。

 大欧州の夢も、はじめは多くの人が現実味のないユートピア構想と見た。

 だが、かの伯爵は書き残している。

 「いかなる歴史的大事業も、ユートピアに始まり、実現に終わるものなり」

 EUのように、とは言わない。アジアの実情にあった緩やかな共同体の実現に向けて、まずは夢を追い求めたい。

 

2005年1月1日 毎日新聞

社説:戦後60年で考える もっと楽しく政治をしよう

 戦後60年になる。平和主義も還暦を迎えた。危うくなった懸念もあるが、とりあえずこの快挙は喜び誇るべきである。

 戦後民主主義、象徴天皇制、人権の尊重などこの60年を支えてきた基本原則が現実とのずれでいずれも揺らいでいる。民主主義は観客席にいることが多い主権者と、それを見越した政党の緊張感に欠ける内部闘争とその結果である政策面でのだらしなさによって、活力を失っていないか。象徴天皇は世代替わりと女帝問題に象徴される存在感の変遷にそろそろはっきりした対応が必要になっている。

 人権も権利の付与が既得権化して社会福祉予算の拡大とそれに見合う負担の合意形成をしないまま、とりあえず国の借金によるしのぎを続けている。その限界ははっきりと見えてきた。

 ◇一律主義はやめよう

 公共の福祉という基本的人権抑制の政治判断をずっと避け、人気取りをしてきたゆえの不都合も目立つ。たとえば必要な公共投資は、所有権の壁や平等と称して全国にばらまく中途半端な割り当てによってむだばかり目立ち、不必要な事業ばかりが推進される妙な現状が蔓延(まんえん)している。医療の世界でも延命治療の限界と尊厳死のあり方に象徴される高額な医療費とその負担への合意がないまま、これも借金でまかなわれている。

 国民のために法律があることを忘れ、政府も公務員もその法律を国民の雑多で変化に富んだ要求をはねのけ一律主義を押し付けるために使っている。法律を社会の活性化のためにではなく、自分の身を守り、後で責められない言い訳の道具とみなしている。10年を超える規制緩和政策で法律が減るどころか、役所の権限を守り国民の行動を規制する法律の数が飛躍的に増えた一事をとってもそれは証明される。

 今振り返ればこうしたことはいずれも、60年という稀有(けう)な長期間にわたり幸せの日々を重ねてきた日本が抱え込んで当然の成功話の裏面である。

 少子化を問題視するが、日本中が「貧乏人の子だくさん」の世界からの脱却を目指して働いてきた結果であり、高齢化は豊かさの象徴である。この60年で最大の成果である高齢化と少子化の二つに祝杯をあげるでもないまま、年金の受け取りと支払いというたった一つの単線でつないで数字があわないと身勝手なクレームをつけている。

 アメリカと仲良くしたいがサマワに自衛隊を送るのはいやだ、子供はのびのびと育ってほしいが学力低下は許せない、靖国神社は参拝するが中国が文句を言うのはおかしい、もっと便利な暮らしをしたいが原子力発電はいらないし地球温暖化を招く二酸化炭素の排出は減らせ、食糧の輸入は自由化すべきだが自給率も上げろ……と。

 政治とはこうした国民のあい矛盾する、しかしそれぞれ当然の主張と要求をかなえていくからこそ、その手法と存在が尊敬される。しかも永続性をにらんで調和させるのが技だ。今、政治家はその最大の任務を放棄していまいか。それが60年を経て日本が抱える問題の中核だ。

 21世紀になって以降、年初に当たり社説では、成長一本やりの景気最優先主義から脱却しよう、すべてほしいでなくどちらかを選択する時期に来た、素直に現実を見なおせばやるべきことは明白だ、これからしばらくは超大国の政権と国民の意向の変化が世界を動かす「アメリカリスク」への対応が鍵になるとその年々の問題点と覚悟を示してきた。

 そして今年、星が一巡して還暦を迎え、この間たまったいろいろなシステム同士のもつれを、次の60年をにらんで解きほぐす手始めの年にしようではないか。そのために最も重要なのは、認識を共有し方向性を見定めて実現のための手段を編み出し実行していく政治なのではなかろうか。

 ◇説得という文化を

 60年で慣行化した日本の政治のやり方はやや民主主義的でない。言葉による説得で多数派を形成し主張を政策に変え実現していくという過程が必ずしも目に見えない場合が多い。間接民主主義を取っている以上目先は永田町での多数決がものを言うが、そのつど国民の多数を説得し納得させていくことが長期的に責任ある民主主義を根付かせるうえで絶対的な基盤になる。それをさぼって密室で出す結論は国民を政治から遠ざけ結局は観客主義を育ててしまう。

 今年京都議定書が発効する。エネルギー効率が世界一の日本はさらに効率を上げ10年で1億トン強の二酸化炭素を削減する義務がある。同じ10年間に議定書の削減義務のない米中だけでも20億トン以上増える見通しだ。たとえばこの世界の現実と議定書順守だけに固執する日本政府のあり方をわが政治家たちはどう説明し説得するのか。

 年金も消費税も公務員と天下り先の巨額な給与総額も合併しても減らない全国の議員数も米軍再編と自衛隊の今後も国連安保理常任理事国入り後の日本のあり方もすべて同じだ。

 なぜ、何が必要で、こういう見通しがあるからと説得による多数派工作がないまま進める過去60年の政治体質から、結果だけでなくそういう過程を共に楽しみ責任も共有するこれからの民主主義を形成する60年にしようではないか。

 

2005年1月1日 日経新聞

社説 戦後60年を超えて(1)――歴史に学び明智ある国際国家めざそう(1/1)

 戦後60年にあたる2005年は、歴史の節目を刻む年である。国連創設60年であり、冷戦構造のもとで自民党ができて50年だ。日韓正常化からは40年たつ。世界経済に目を転じれば、先進国サミットから30年であり、プラザ合意20年でもある。日本経済は長い停滞から脱出しつつあるが、イラク問題など世界の混迷は続いている。歴史の教訓に学び、日本の針路を考えたい。

第2の敗戦から再出発

 この60年に「日本の時代」はあったのか。プラザ合意前の1985年春、ジャーナリストのセオドア・ホワイトは日本の経済攻勢を「日本からの危険」と題するリポートにまとめる。廃虚と化した敗戦日本を目撃しミズーリ号の日本降伏に立ち会った歴史の証人の目には、経済攻勢は日本の総反撃と映ったのだろう。ホワイトを恐れさせた「日本の時代」はしかし、一瞬の幻に終わる。

 プラザ合意後のバブルの発生と崩壊、そしてデフレの進行で日本は「第2の敗戦」を迎える。巨額の負の遺産を抱え戦中・戦後システムを解体しながらの復興は、ある意味で戦後復興以上の難路だった。

 日本経済の浮沈は国際政治の枠組みと結びついていた。冷戦の時代は日本の成長期に符合する。「追いつけ追い越せ」という共通目標のもとに、走り続ければよかった。漁夫の利を得たのは日本だったが、冷戦終結で流れは逆転する。グローバル化の奔流のなかで、改革大競争に出遅れ「失われた時代」に入る。冷戦終結は第2の敗戦に符合する。

 戦後60年の教訓は何か。おごりが自らを見失わせ手痛い打撃をこうむる。過信と悲観の振れは大きかった。過去の成功体験にこだわるあまり転換が遅れた。それは国のあり方にも、企業経営にも、人々の生き方にも通じるものだろう。

 日本が第2の敗戦から抜け出そうとするいま、見渡せば、世界は変化と混迷の時代を迎えている。

 第1に、グローバル経済に大型新人が続々登場した。生産力と市場力を武器にしたBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)の成長には目を見張らされる。国連安全保障理事会の常任理事国(現米ロ中英仏)には日独ブラジル、インドの4カ国が手を挙げているが、これはちょうどプラザ時代のG5(日米独仏英)とBRICs4カ国にあたる。

 第2に、米欧間の亀裂である。イラク復興がもたつくのは、ブッシュ政権の単独主義に欧州諸国が反発しているからだろう。背景にはユーロ創設から憲法制定まで欧州連合(EU)の深化と東方拡大がある。唯一の超大国と大欧州の対立が深まれば、新しい冷戦に突入しかねない。

 第三にアジアの発展と混迷である。日本経済が第2の敗戦から立ち直れたのはアジアの成長の大波に乗り第2の発展期を享受できたからだ。その一方で北朝鮮問題などアジアで冷戦は終わっていない。それどころか歴史認識をめぐりアジアの2大国、日中に戦後は終わっていない。

 そこに欧州の平和との落差がある。シラク仏大統領は昨年、Dデー60年の式典にシュレーダー独首相を招いた。欧州の戦後は完全に清算された。対米関係を調整しつつ独仏融和に奔走し欧州統合を先導したジャン・モネのような無私の指導者がアジアにはいまだに現れていない。

競争力プラス協調力を

 戦後60年を超えて、日本はどんな道を歩むべきか。日本のよりどころは経済の競争力にある。改革の手を緩める暇はない。郵政民営化で市場の活力を取り戻さなければ、小泉純一郎首相は歴史に汚点を残す。少子高齢化や環境問題など成長のハードルは高いが、技術を競うチャンスでもある。直接投資や人材を受け入れ、グローバル経済と融合して初めて本物の競争力が身に付く。

 試されるのは国際協調力だ。日米同盟は外交の基本である。同時に超大国に対しては、単独主義をたしなめ双子の赤字是正を要求する口うるさい友でありたい。歴史の溝を埋めるのはアジア発展の大前提である。日中双方に中国版「冬のソナタ」ブームを生み出すくらいの懐の深さがあっていい。世界の分裂を防ぐため米欧間の架け橋になるのも日本の役割だ。国際協調なしに、テロとの闘いも中東安定もおぼつかない。

 ジャーナリストの清沢洌は60年前の元日、空襲警報のなかで日記に刻む。「蛮力が国家を偉大にするというような考え方を捨て、明智のみがこの国を救うものであることをこの国民が覚るように――」。多様な価値を認め合い、チェック機能が働く柔軟な社会。そんな明智ある国際国家こそ歴史が教える日本の道である。恐れられるのではなく尊敬される「日本の時代」をめざしたい。

 

2005年1月1日 産経新聞

■【主張】歴史の大きな流れに思う 保守に求められる創造的挑戦

 歴史はとうとうと流れてゆく。遡行(そこう)できぬ川の流れのように。

 たしかに、眼前の風景だけを眺めれば、行く手を阻む岩壁は高く、大きく、そして険しい。目も眩(くら)むような七百兆円を超す中央・地方の財政赤字、真綿で国の活力を締めるような少子化と高齢化の進行、伸びきって弛緩(しかん)状態にある経済成長、これらは互いに絡み合って日本の前に立ちはだかっている。

 ◆悪しき戦後からの脱却

 この原因を本質的に考えれば、高度成長の果実を公共投資や社会福祉政策に還元するという美名のもとに財政秩序にこだわらずに大盤振る舞いしてきた戦後日本のニューディール型リベラリズム、換言すれば、一九七〇年代を支配した角栄的なるもの、あるいはミノベ的なるものの負の遺産である。とはいえ、この責め苦から目をそらす訳にもいかない。

 英米では一九八〇年代を支配した保守政権によって社会福祉国家論が克服されていったが、当時の日本における「戦後政治の総決算」は十全の成果を上げたとは言い難い状態で終わり、甘えの構造が温存された。

 その点、終戦から二世代六十年を迎えた平成十七年は、日本にとって「悪しき戦後」を超克する挑戦的な年となろう。いや、しなければならない。

 国政選挙は予定されておらず、真の保守政権のあるべき姿を構想する上で、これほどよい政治的条件と国際的環境に恵まれる年はない。歴史の流れに取り残されていく勢力からの抵抗は織り込まなければならないとしても、である。

 昨年の年頭のこの欄では、「日本の運命を決める一年」と記した。自衛隊のイラクへの復興支援や北朝鮮情勢の展開によっては七月の参院選挙で日本の保守政権に痛棒が加えられるかもしれず、十一月の大統領選挙では米国の保守政権が敗れる可能性も存在したからであった。

 しかし、結果が証明するように歴史は保守主義にとって好ましい方向に進んでいった。

 ◆一九九〇年体制の定着

 戦後日本の進歩主義的思想、無防備平和論、戦前の歴史全面否定などの潮流をせき止め、今の流れをつくったのは紛(まが)う方なく東西冷戦構造の崩壊と、これに続く湾岸戦争の勃発(ぼっぱつ)、それに昭和の終焉(しゅうえん)であった。

 いずれも一九九〇年前後に相次いだ事象である。

 このうち東西冷戦構造の崩壊はマルクス主義ないしは大衆迎合のばらまきに重心を置いたミノベ型進歩主義の敗北であり、サッチャー、レーガンの登場が世界の保守化を促した以上に日本の左派勢力への打撃となった。

 湾岸戦争は自衛隊の国際的役割が論議される契機になった。

 「よい戦後」と「悪い戦前」に単純二分化されていた昭和という時代も通史として眺められるようになり、そこには「悪しき戦後」も存在し、同時に「良き戦前」も存在したという複眼史観が根付いていった。

 こうした状況は潮目に変化が生じて以来の過去十五年の国会における対決法案の成立状況を精査すれば、おのずと明らかになる。

 一口に言えば、戦後の「進歩」的言論ないし勢力の全面的といっていい敗退である。伝統・慣習の重視、秩序、国の守り、主権尊重など保守主義の価値観に根ざした法律が、これら戦後進歩派の反対にもかかわらず、次々に成立していく過程が如実にあらわれているからだ。その内容については資料を付して三日付本紙で紹介したい。

 この延長線上に「戦後の終焉」を告げる象徴的ゴールとしての、あるいは究極の構造改革としての憲法改正(および教育基本法改正)がある。戦後進歩派が金科玉条とした聖域の変革もいよいよ流れの先にみえてきた、と判断して大きな間違いはない。

 しかも今後四年間は再選された米国ブッシュ政権との間で緊密な日米関係の維持が期待できるのは、憲法第九条の改定の上からも、また任期二年弱を残す現自民党政権にとっても歓迎すべき事態であろう。

 現政権が打ち出している国営事業の民営化や公共支出の削減、行財政改革などは各国の保守政権が追求する共通テーマであり、当然達成されるべき政策課題だが、その一方で抵抗が少なくないのも事実だ。

 加えて日本の進歩派勢力と不即不離の関係にある近隣諸国からは靖国神社参拝阻止などの動きが強まろうが、しかし、これらはいずれも一九九〇年いらいの保守主義化の流れを食い止められるほどの決定的要因にはならない。

 ◆「内なる敵」こそ真の敵

 とうとうたる流れの阻止ないし混乱要因になりうるとすれば、それは戦後左派や既成野党であるよりも、「内なる敵」すなわち保守政権に内在する腐敗や汚職であろう。

 それ故に高い道徳性と倫理観を備えた教養ある保守主義者を育成することは国家的要請といって過言ではない。

 巨視的にみて、近代日本を動かしてきたのは、例外的な戦後の一時期を除けば、保守主義者たちであった。この群像の中には清貧に甘んじた井戸塀政治家(資産を政治活動に使い果たし、あとに井戸と塀しか残らなかった人たち)が紛れもなく存在した。ここでも、角栄的なるものとの決別が−最近の元首相による巨額献金受領疑惑を持ち出すまでもなく−急がれる。

 保守主義は革命は好まないが、不断の改革は厭(いと)わない。今ふたたび、あの高貴な精神を取り戻すことこそ保守主義者に求められる喫緊の創造的挑戦ではないか。とうとうたる歴史の流れに淀(よど)みを生じさせないためにも。

 

2005年1月1日 東京(中日)新聞

年のはじめに考える この国にふさわしい道

 敗戦から六十年。見回すときな臭さが漂い、この国の行き先に不安を感じます。武力によらない新しい国際秩序への努力はできないか。新年の模索です。

 「還暦」−十干十二支の組み合わせが六十年でちょうど一回り、生まれ直すという意味があります。自然の摂理の中で、人間の営みを鋭く観察して得た東洋の知恵でしょう。

 この言葉を持ち出したのは、この国の行く末に危なっかしさを感じているからです。

 「9・11」以降の米国は、武力を前面に押し立て、一極支配のもと米国流の民主主義を広めようと必死です。小泉純一郎首相は追随してイラクに自衛隊を駐留させています。

■敗戦の反省はどこへ

 そのかたわら、憲法を改定して、海外での武力行使、集団的自衛権の発動を可能にし、専守防衛の枠を超えた装備の開発へ向けた動きが活発です。同時に国家権力を強化する法律も着々と。

 小泉政権の延長線上には、必要なら米国と連携して武力行使をという国のあり方がちらちらします。

 イラクへの自衛隊派遣延長に対する六割以上の世論の反対には、そうした不安も込められています。

 六十年前、敗戦の反省から歩き始めた道をかなりはずれてしまったようです。ここは還暦の年、出発点に立ち返って考えてみます。

 「悲しみと苦しみのただ中にありながら、なんと多くの日本人が平和と民主主義の理想を真剣に考えていたことか!」(ジョン・ダワー著「敗北を抱きしめて」岩波書店)

 その中からいまの憲法が生まれ、米国の圧力にもかかわらず、半世紀以上も改定しないことで、自分のものにしたのです。

 国権の強化、軍部独走、そして数百万の生命の犠牲など、戦前への深い反省があったからです。

 国民主権、戦争放棄、基本的人権尊重のもと、私たちは六十年の間、戦火に巻き込まれず、他国民を殺害せず、生活を向上させました。

■武力による安定は困難

 この基本を踏み外さずに、この国の針路を考えてみます。

 憲法九条の理念を最大限に生かし、平和と安定の新しい国際的な秩序づくりに大きな役割を果たす、こんな国のあり方です。

 テロ頻発、中国の軍備増強、北朝鮮のミサイルがいつ飛んでくるか分からないとき、書生論、平和ボケなどの言葉が飛んできそうです。

 しかし、現実はどうでしょう。

 「戦争は外交の失敗の結果であり戦場は議場の失敗の形態である」

 猪口邦子上智大学教授は、軍縮日本大使の経験から断言します。(「戦略的平和思考」NTT出版)

 戦争やテロを防ぐには、あらゆる「武器の不拡散政策の強化、同時に軍備の量的縮減を一対のものとして進める」ことが急務と指摘し、「戦場には参加しにくい日本は一層のこと、平和を画策する議場戦士としての外交力の傑出を」と、日本の役割を描いています。

 この場合、六十年間も戦争を仕掛けず参加せず、武器を輸出せず、核兵器を造らず持たないできたこの国のあり方は、国際的に大きな説得力を持っています。

 それなのに、最近はこの原則をなし崩しにする動きが目立ちます。戦後の六十年で身につけた財産をおろそかにしてはなりません。

 それに世界を見渡すと、武力を使わず紛争を解決し、安定を実現する試みが着実に進んでいます。

 現に起きている地域連携や地域統合です。欧州連合(EU)の加盟国は二十五カ国、巨大な経済圏をなし、憲法までも。長い間、戦争を繰り返した歴史を教訓にしてのことです。

 アジアでも、東南アジア諸国連合(ASEAN)に日中韓を加えた広大な地域で、連携の動きが活発です。信頼をつくり出し、もめ事は話し合いで解決する。補い合って民生の安定を目指す。やがては地域連合へ…。

 時間はかかりますが、こうした模索自体が地域の不安定要因を取り除き、ひいては紛争やテロの温床である地域や宗教の対立、確執を鎮め、貧しさを解消します。

 武力を使わない平和と安定の実現は決して絵空事ではありません。

 むしろ、米国のイラク支配を見ると、武力による安定がいかに難しいかが分かります。武力の行使が憎しみや恨みを生み、さらに武力を、と悪循環に陥っています。

■日本主導による平和を

 「パクス・ヤポニカ」

 「日本主導による世界の平和」とでも訳しますか。宗教学者の山折哲雄さんは、平安三百五十年、江戸二百五十年の長い平和の時代に注目します。それを実現した「武家的なもの」を抑制し、武力の発動を鎮める技術の伝統や知恵を、世界に広く発信するよう提言します。(「日本文明とは何か」角川叢書)

 武力を使わない新しい国際的な秩序づくり−日本にふさわしく、より現実的な役割ではないでしょうか。「戦後零年」に還(かえ)った元旦、あらためて思います。

 

2005年1月1日 北海道新聞

選択の時代を生きる(1)*平和の構想力を高めよう

 太平洋戦争の敗戦から今年で六十年になる。戦争で内外の多くの命が失われ、国内には虚脱感が漂う敗戦直後の混乱の中で、人々の心を支えたのは、平和に暮らすことができるという安心と解放感だった。

 敗戦の二年後、新憲法の施行に合わせて当時の文部省がつくった副読本「あたらしい憲法のはなし」はこう呼びかけた。「いまやっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか」

 もう戦争はしない。政府が危険な道に走らないように枠をはめ、民主主義を軌道に乗せたい。新憲法にはそんな希望が託された。

 今、戦禍の記憶が薄れるのにつれて、平和と国際社会の安定への希求が弱まってはいないか。「国益」を錦の御旗に掲げ、国を挙げて戦争へ突き進んだ「国家」というものの潜在的な怖さを忘れてはいないか。

 世界と日本のあり方をめぐる論議も流動化している。私たちはどのような道を選択すべきか、岐路に立っていると言っていい。問われている課題の一つが、平和を実現するための豊かな構想力の構築である。

*日米関係の相対化が必要

 戦後の希望を裏切るような懸念材料がある。戦闘に巻き込まれる可能性があるイラクへ自衛隊を派遣したことをまず挙げたい。小泉純一郎首相は専守防衛を機軸としてきた安全保障政策のかじを切りかえた。

 日米の「同盟」関係重視が大きな理由である。だが、イラク戦争それ自体が国際社会の支持取り付けを無視した米国の単独行動主義に基づく進攻だった。

 第二次世界大戦後の東西の冷戦が終わり、米国は軍事力の優越で唯一の超大国になった。それが単独行動主義に走らせる背景にある。

 しかし、気にくわない国を好きなときに攻撃できるとすれば、戦争の反省に基づいて戦後に設立された国際連合を中心とする国際秩序とルールは有名無実のものとなる。

 小泉首相が本当に日米同盟を重視するなら、米国を説得して多国間の協調路線に復帰させるべきだ。

 同盟を絶対的なものとみなして米国に従うのではなく、日本からも注文をつける相対的な関係にする努力をした方が互いの利益になる。国際関係の安定にも役立つ。

*気になる国家主義的傾向

 国が国民の思想や言論を統制した戦前の苦い経験から、守らなければならない重要な価値として戦後に明確にされたのが個人の尊重、多様性の容認だった。

 この当たり前のことを否定するような風潮が徐々に社会に広がってはいないか。象徴的なのが、自民党の憲法調査会が昨年十一月にまとめた憲法改正草案大綱の素案である。

 密室での決定として党内から猛反発が出て撤回されたが、内容は個人の尊重という視点よりは、国や公共の大切さ、国民が国家に対して負う責務に重点があった。

 国家が国民を統制する方向での改憲は、公権力に一定の枠をはめるのが憲法という近代の立憲主義の考え方に逆行するものだ。

 自民党が折にふれて持ち出す愛国心も、それが自由な個人が判断した結論なら価値がある。公的な押し付けは個人の内面に立ち入ることになりかねず、逆効果だろう。

 「個人の尊重」も場合によってはある程度制限される。だが、「ある程度は」と思っているうちに国家が前面に出て、個人の自由が埋没する危うさは、戦前の教訓でもある。

*武力に頼らない共存の道

 改憲論議は今年、さらに熱を帯びていくことが予想される。その前に考えることがある。恒久平和の実現という人類共通の願いを掲げた憲法の精神を具体化する努力を、政府は真剣にしてきただろうか。

 それを放棄して、国際情勢が変わったという理由で自衛隊の海外での武力行使に道を開こうとするのは賛成できない。政府が軍事力を押し出す米国に追随する姿勢を変えないのなら、なおさら危険だ。

 武力に頼る以外にも道はある。国際連合を中心とした多国間協調による外交的圧力もその一つである。

 日本はアジア各国と経済的なつながりが強い。中国も急速に力をつけている。こうした経済的な依存関係の網を利用して、地域協力の共同体を実現するのも将来の課題だ。

 昨年、東南アジア諸国連合(ASEAN)と日本、中国、韓国との首脳会議は、東アジア首脳会議の開催で合意した。簡単な話ではないとしても、これを土台に東アジア共同体実現に向け、米国との調整なども重ねて、知恵を絞ってほしい。

 太平洋戦争のときのような国家の暴走を許さないためには、国民が常に政治を監視し、発言していくという覚悟も必要だ。民主主義をさらに鍛えなければならない。

 その観点からも地方分権を重視したい。住民が地域づくりに意見を寄せ、議員もその声にこたえる。身近なだけに具体的な課題で住民参加と行政の応答が行われる。民主主義を育てる学校としての意義がある。

 政治へのあきらめから国民が無気力になるのが平和の危機の前兆であることも戦争で学んだ。その反省を踏まえ、粘り強く、平和の方策を探っていきたい。

  

2004年12月31日 河北新報

『戦後は戦前』/わが国が誇れるものとは何

 戦後は戦前である。詭弁(きべん)ではない。歴史が証明するように先の大戦に敗れるまで、日本の近代は一つの戦争が終われば、結果的に次の戦争に進む準備期間になった。だから、戦後は戦前という論が成り立つ。

 米などはいまだこの構図が続く。

 敗戦で時代を一新した日本。このかた60年を平和裏に送ってきた。少なくとも、兵員をもって戦うことはなかった。

 その功は、制定の手続きはともかくとして、手にした新憲法の力に預かるところが大きかった。

 植民地建設・軍部の専横・国民生活の疲弊などを戦前戦中の日本の像だとしたら、戦後の像はどんなふうに結ばれるか。平和・民主主義・豊かな暮らしなどだろう。

 それは、主権在民・戦争放棄・基本的人権の尊重―を三本柱にする憲法の精神の体現といえる。中でも、戦争放棄の9条は、戦争を再び繰り返してならない―とする意識を広く人々の間に植え付け、戦後長くこの国の、国の形をなしてきた。

 この原理原則は、現実世界の冷戦構造、政治的・軍事的圧力と向き合うとき、折り合いを余儀なくされたのも事実。米軍駐留、自衛隊創設、日米安保条約改定。米との従属的軍事同盟の具体的な形と言える。

 背後に、ソ連、北朝鮮、中国などの脅威を感じれば、戦争を放棄した日本は、それに寄りかかるのも現実的選択であった。

 米の軍事力の庇護(ひご)により、日本は戦後復興に専念し、高度成長路線をひた走った。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われるほどの経済力に有頂天となった時代も現れた。

 米ソ対立は1991年終焉(しゅうえん)を迎えた。既に東西ドイツなく、ソ連邦がこの年、それぞれ分離独立した。

 冷戦構造崩壊は、世界からそれまでの秩序を奪った。民族、宗教的対立が噴出した。独り繁栄を謳歌(おうか)する米流グローバリズムの押しつけを拒否する国際テロリズムが牙をむいた。9.11中枢テロ。新しい戦争は第三次世界大戦と見る向きさえある。

 国際社会、というより米に腕を取られる日本は、アフガン戦争・イラク戦争では後方支援にも当たる。すべては9条の際限なき解釈による。次は戦闘参加かとの恐れを生む。

 気息奄々(きそくえんえん)の9条を前に、自民、民主両党は新たな組織を探る。自民案の自衛軍は集団的自衛権を容認し、国際貢献のための武力行使も認める。民主案は国連の集団安全保障活動のための国連待機部隊を視野に入れる。憲法改正の動きは急。2年内に双方の案が示される。政府は既に有事を想定する防衛大綱を改定した。有事法制整備も着々進む。

 改憲手続きのハードルは高いものの、自民、民主両党の合意がなれば、できなくはないところまで来ている。その可能性も否定できない。

 仮に、軍を持ったとしよう。隣国の理解は得られるか。軍国日本の再来と恐れ、彼らはさらに自国の軍備拡張に走ろう。そうなれば日本も対抗する。果てしない軍備拡張の競争が繰り返される。気が付けば、戦後は戦前―という構図。

 北朝鮮の脅威を取り除きたい。中国の動きも気になる。偽らざる思いだ。しかしそれは決して軍事力の強化ではなし得まい。日本の軍隊に対し歴史的な不信がわだかまる。

 時間はかかろうが、それを可能とするのは、日本の外交・経済力による国際援助、文化・科学・技術の力による支援などではないか。アジア諸国に警戒心を高めず、緊張を解きほぐし、友好を育てることができるのは、こうしたものだろう。

 軍を持っても、よほどの歯止めを持たねば周辺の国には信頼してもらえない。それなら専守防衛体制とどれだけ異なるのか。

 憲法改正が話題になるこの先何年かこそ、日本の国の形を深く考える絶好の機会と位置づけたい。現9条こそ、日本が世界に誇る財産だと言う声がある。再度耳を傾けてみたい。失って初めて気付くというのでは思慮に欠ける。

 戦後日本のさまざまな仕組みの見直しが進む。中央と地方、税、郵政、年金、金融…。長い時間のうちに必ず制度は疲弊する。これらの改革は、それなりの形を表すことは期待できよう。しかしこれらが再構築されても、国の形が尊敬を受けないのでは、国際社会で名誉ある地位は占められまい。自ら一員のアジアとの友好関係も築けない日本では、国連常任理事国でもあるまい。ましてや日本の安全保障においておや。

 

2005年1月1日 中国新聞

戦後60年 かみしめたい平和の重み

 立ち込める霧に方向感覚を失いつつあるのではないか。そんな不安と焦燥にも似た思いを引きずりながら、戦後六十年、被爆六十年を迎えた。

 国内外の情勢が混迷と緊張の度を高め、きな臭さが増しているなかでの戦後の「還暦」である。痛恨の体験を踏まえ新たな展望をどう開くか、節目の年としたい。キーワードは「憲法」と「核兵器廃絶」である。

 終戦の日の一九四五年八月十五日。昨年本紙に連載した「ハト派の伝言」で、宮沢喜一元首相(85)はその日の感慨を「今日から電気がつくなあ」と述懐している。希望と自由を電気の明るさに象徴させたのであろう。

 廃虚から立ち上がった日本は奇跡といわれた復興と経済成長を成し遂げた。その戦後を形作ったのが「平和主義」を掲げる新憲法であり、理念を具現する「九条」である。

 憲法越える軽い言葉

 その平和憲法が、八〇年代の冷戦終結を境にした世界情勢の変化で揺らぎ、改憲論議が加速している。

 九一年の湾岸戦争が国際貢献と自衛隊海外派遣という難題を突きつけた。世界の平和と安定に寄与する国際貢献の在り方と、憲法との整合性をめぐり議論が沸騰した。「九条」は現実にそぐわなくなったのではないか。そんな懐疑とジレンマに9・11テロを経たアフガン戦争とイラク戦争が拍車を掛けた。

 歴代政権がちゅうちょしてきた自衛隊海外派遣に大きく踏み出したのが小泉政権だ。インド洋に最新鋭のイージス艦まで送り、人道復興支援の名で陸・海・空自を「戦地」イラクへ派遣。国会論議もなしに歴代内閣が「憲法上あり得ない」としてきた多国籍軍への参加を決めた。そのイラクでは十万人を超える人々が犠牲になっているのである。

 憲法が軽い言葉でいとも簡単に越えられていく。極めつけが首相答弁の「自衛隊のいるところが非戦闘地域」という暴論であろう。多くの人が疑問と危うさを感じながらも、北朝鮮の脅威の前に日米同盟強化が現実的な重みを増す。そうした空気は日本世論調査会の調査で改憲容認派が八割近いという数字に反映されている。

 重層的な憲法論議を

 「国際協調」や「国益」といった言葉の中身が国会で十分に吟味されないまま、既成事実が積み重ねられていく。「すべてを単純化する恐ろしい人々」が単純な扇動・宣伝文句で大衆を操作し、何となく政治の現況を容認する集団催眠状態が醸成される―。ドイツの歴史家、F・マイネッケを引いて岡野加穂留・元明治大学長が指摘する危険性と重なるのである。

 自民党は結党五十周年の今秋、憲法改正草案をまとめ、民主党も来年には改憲案を出す。改憲が「政治日程」に上るが、軍事的側面にのめり込んだ議論は危うい。イラクや北朝鮮情勢などを見定めた上で、アジア全体の安全保障も視野に入れた重層的なアプローチが欠かせない。力ずくでは国際紛争の解決が難しいことは、パレスチナやイラクで実証済みである。

 「平和主義」を支える一方の柱が、究極の戦争被害といえる被爆体験の継承と核兵器廃絶の訴えである。

 冷戦の終結は核兵器廃絶への期待を抱かせた。しかし世界の核状況は「日暮れて道遠し」が実感である。時に無力感に打ちひしがれそうにもなる。だが、昨年発覚した「核の闇市場」の衝撃が、あらためてヒロシマ・ナガサキの役割を認識させた。

 「核の闇市場」は、非核保有国の手を縛りながら核保有国は核を保持し続ける核拡散防止条約(NPT)体制が内包する矛盾とほころびを露呈した。北朝鮮は「抑止力としての核保有」を公言し、米国はテロやならず者国家への「核先制攻撃」も辞さぬ構えだ。

 核廃絶の約束履行を

 核兵器がある限り、疑心―恐怖―軍拡のトリレンマは断ち切れまい。五月に米国で開かれるNPT再検討会議が重要な節目になる。何としても核兵器廃絶への道筋をつけたい。五年前の前回会議で合意した「核兵器廃絶の明確な約束」の着実な履行がその出発点だ。被爆国の政府として強くアピールしなければならないが、被爆者との対話を軽視する首相の姿勢では説得力に欠けるのである。

 平和市長会議が二〇二〇年までの核兵器廃絶を目指し、各国に呼び掛けている緊急行動に呼応し、それぞれの国内世論を盛り上げたい。世界的なうねりにし、強固な反核国家連合の包囲網を敷いて核保有国に迫ろう。

 被爆地はその先頭に立つ資格と義務がある。世界は日本人が想像する以上に被爆を重く受け止めている。そのことは世界の紛争地や核保有国などを被爆者と市民が訪れる広島平和ミッションのリポートからも読み取れる。

 もっと発信力を高めよう。そのためには被爆体験の継承と、歳月を超えて訴求力を持つヒロシマ・ナガサキの普遍化・世界化がますます重要になってくる。

 この六十年間、日本は海外で武力行使せず、一人として殺していない。ヒロシマ・ナガサキが核戦争の抑止になったことは疑いがない。この重みをかみしめ、一人ひとりが考え、行動しながら進むべき方向を探りたい。

  

2005年1月1日 西日本新聞

戦後60年 日本と日本人の生き方(1) 「価値観」認め合う「感性」を

 戦後五十年(一九九五年)の年頭、西日本新聞は元旦社説で当時の時代状況を次のように分析している。

 「混迷が社会全体を覆い、政治も経済も先が見えない。これまでの足どり自体が果たして正しかったのかどうか。迷いと自信喪失が相まって、戦後日本を支えてきた平和憲法への『信仰』すら揺らいでいる」

 それから十年。この夏、戦後六十年を迎えるいまも時代状況は基本的には変わっていない。時代を覆う閉塞(へいそく)感は依然晴れぬままだ。

 変わった点があるとすれば「国のかたちを変える、変えたい」という思いが、高まってきたことだろう。

 政治、経済の「失われた十年」への自省と、そこからくる行き詰まり感。「いま、何とかしなければ」という焦りを伴った不安と苛立(いらだ)ちが社会に充満し、それが「変える」「変えたい」という思いと動きを加速させている。

 戦後、自らの努力で豊かさを享受できる社会を実現したというのに、なぜか「希望をもって未来が語れない」という不安と、「何かを変えなければ」という苛立ちが、国家や社会や個人に募っているように見える。

 その不安と苛立ちがどこからくるのか、日本と日本人はこれからどう生きていけばいいのか。国家と社会のありようと、個人の生き方が問われる。いま、そんな時代状況にある。

    ×     ×

 不安と苛立ちがどこからくるのかをめぐっては、近年、いろんな人々によってさまざま解説がなされている。

 例えば、「社会規範の衰退」「国民的目標の喪失」による家庭・家族意識の崩壊、地域あるいは共同体意識の崩壊、相互信頼感の崩壊―などに起因するという「個」と社会のあり方からの説明がある。

 それが、年齢を問わず狭量で自己中心的な人間を生み、犯罪の凶悪化と低年齢化、幼児虐待の急増、学級崩壊などにつながっている、との見方は概(おおむ)ね当たっていると思う。

 いずれも社会が深刻に受けとめなければならない問題だ。有効な処方箋(せん)を見つけだすためにいろんな論議がなされているが、「個」に人々の「心」が絡むだけに、答えはそう簡単に見つかりそうにない。

 警察官の増員などで治安対策を強化すれば犯罪の抑止につながる、ニューヨーク市はそれで成功した。犯罪の低年齢化をとめるには刑法や少年法などを改正して抑止するしかない。虐待を未然に防ぐには通報を含む体制や制度の整備が必要だ。

 いずれもそれなりに効果ある対策ではあろう。しかし文字どおり「直面する現象に対応する策」でしかない。対症療法的に制度や体制を整えても、それが、喪失した「社会規範」に代わる「新しい規範」「国民的目標」になり得るのだろうか。疑問である。

 「個」の生き方に影響を及ぼす社会の規範は、上から与えられる法律や制度だけで生まれるものではない。それを超えた、人々や地域の暮らしのなかで醸成される「常識」である。

 現状を憂うあまり、「いま何とかしなければ」という苛立ちが、法律や制度の強化をせき立てているとすれば、短絡にすぎる。時代にそぐわないものになりかねない。

 時代にふさわしい「新しい規範」には、戦後六十年に醸成された「常識」と「失われつつあるが残さねばならない規範」を見極める眼力と、社会や個人がもつさまざまな価値観を認め合う社会の感性と度量が必要だ、と思う。

    ×     ×

 不安と苛立ちを募らせる、もうひとつはこの国の政治、経済システムの現状と将来に起因するという「公」の側面からの説明だ。

 少子高齢社会のなかで説得力ある社会保障の将来展望を示せない政治の無責任さ、国際化社会のなかでの日本の国際貢献のあり方。情報技術(IT)が生み出す人間の孤立、財政経済構造の変化で広がる競争社会とそれに伴う貧富の差の拡大。「国のかたち」や「社会のありよう」に対する不安は確かに広がり続けている。

 ここでも「いま何かを変えなければ」という苛立ちが募っている。とりわけ政治の側からの性急な動きが目立つ。そこでは、国際貢献がただちに憲法改正につながり、社会規範の衰退は国民的目標の再構築論に結びつく。

 こうした政治の発想は、「いま」にこだわりすぎてはいまいか。戦後六十年で培った思想面での国民的財産は少なくないはずだ。「戦後」を否定してまで「いま」にこだわれば、国民の政治への不信は極まる。

 私たちの国は、近代国家となった明治から昭和二十年の敗戦までは「富国強兵」を、敗戦後は経済成長を単一の目標に走り続けてきた。その目標は多分に国民的目標とも重なってきた。

 いま、それがない。国家も個人も目標を失ったままだ。だからといって、政治が国民的目標を示せるだろうか。豊かさが個人の価値観を多様化させた今日、国民もそれを望んでいまい。

 むしろ政治の役割は「個」と「公」の共存をはかり、国民の多様な生き方を支える社会の仕組みをつくることにある。個人と社会もこれに応え「多様な価値観」を認め合う感性を磨く。それが求められる時代だ。

 

2005年1月1日 神戸新聞

・脱・仮縫いの思想/「過去」に学び「未来」をさぐろう

脱・仮縫いの思想/「過去」に学び「未来」をさぐろう
 「それはもう…。人間が死んでしまうからや。ひどい目に遭わされた人間が死んでしもうて、生きとるもんは、もう誰もじっさいにあんなこと、あった、ということさえしろうとせん。そいで、またおんなし過ち、平気でくり返しよる」

 本紙客員論説委員の評論家内橋克人さんが月刊誌に連載中の小説の中で、先の大戦をくぐり抜けてきた老人に語らせる言葉である。

 〈犠牲の当事者は去り、人の死とともに記憶は葬られる〉

 こんな言葉を継ぎながら、物語は先の大戦下の神戸と、阪神・淡路大震災で破壊された神戸を重ねながら進む。

 この物語のタイトルの中に「渺茫」とある。「びょうぼう」は、ひろびろとして果てしないさまをいう。振り向けば足跡が消し去られて、前に歩もうにも手がかりを失って進路が定まらない。立ちすくむ目に、色彩を欠いて荒れた土地が広がる。そんな風景が浮かび上がる。

 廃墟で発見した希望

 新しい年が「戦後六十年」と「大震災十年」を重ねて明けた。新世紀に入って五年目でもある。

 年の重なりは偶然にすぎないが、偶然の意味を引き出すとすれば、「過去」を忘れて「未来」はないということだろう。

 六十年前、わたしたちはどんな思いを抱いて、あの廃墟(きよ)から再出発したか。

 「友だちの中には泣いているひともあったが、私はくやしいよりはもっと複雑な思いがしていた。それは戦争も『やめられるもの』であったのかという発見であった」(「昭和戦争文学全集」14)

 軍国の時代に生まれ、戦争下で育った少女にとって戦争は日常だった。「発見」の言葉には、驚きとともに目の前で新しい時代の扉が大きく開く新鮮な感動がこもっている。

 多くの日本人がそうだったはずだ。だからこそ、戦争放棄、平和を求めた。力の行使は、自国のみならず、他国にまで災禍を及ぼすという痛烈な体験が裏打ちになっていた。

 六十年たって「戦争を知らない世代」が八割に達した。人の死とともに記憶は葬られつつあるようにみえる。

 「米国を孤立させてはいけない。同盟国として互いに信頼し協力関係を醸成していくことが、日本の平和と安定のために必要だ」

 イラクへの自衛隊派遣延長を決めた後の記者会見で、小泉首相は支援継続の理由を語った。復興人道支援を口にしながら、強調するのは「米国との信頼関係」であり、イラクで窮地に立つ「ブッシュ政権」への後押しである。そこに、歴史へのまなざしは感じられない。

 9・11テロ以来、何度、こんな場面をみてきただろうか。インド洋に自衛隊艦船を送ってアフガン攻撃を支援し、イラク戦争開戦ではいち早く支持し、混乱をきわめるイラクに陸上部隊を送った。いつのまにか多国籍軍に加わった。

 これが、過去からの文脈を「神学論争」と片付け、「普通の国」になるということだろうか。

 災害は国の弱点暴く

 威勢はいいが、理念を持たず、とりあえず形だけを整えていく。外交でも、看板の構造改革でも、こうした「仮縫い政治」が日本をやせ衰えさせている。やせ続けているのは、政治だけではない。

 ここで十年前に視点を移してみよう。

 阪神・淡路大震災は、近代都市を直撃した初めての大規模災害だった。

 都市の生活構造は、モノとしても、仕組みとしても、なぜあんなにもろく、危ないものだったのだろうか。

 その問いは、戦後の繁栄を支えてきた政治の意思、行政制度、産業構造、そして、わたしたち自身の暮らし方など「日本型システム」に対する疑問そのものだった。

 端的な例は、住まいへの考え方だろう。「個人財産は補償しない」が国の基本姿勢だった。

 わたしたちは、こう主張した。「住居は生活の基盤であり、地域を構成する最重要単位である。その再建なしには、地域の復興はあり得ない」

 被災地の声に押されて、「被災者生活再建支援法」はできたが、住宅本体には使えない。十年かけても、国は変わらない。

 相次いだ災害の犠牲者の大半が高齢者だったことも、あらためてこの国の弱点をわたしたちに突きつけた。阪神・淡路はその警告を発していたのだが、むしろ事態はより深刻になっている。都市の片隅に、過疎の村に放置してきたツケは大きい。

 世代の連なりを絶つことは、「記憶の風化」とともに「人間の不在」をあたり前にしてしまう。わたしたちもまた、前のめりにモノの豊かさを求める過程で、「仮縫いの思想」になじんでしまっていなかっただろうか。

 内外の環境が大きく変化する中で、現実対応を迫られていることは否定しない。しかし、ひとまず立ち止まり、わたしたちは自国をどんな国にしたいのか、世界の中でどう生きたいのか、から問い直したいと思う。過去に学ぶことは、未来を探ることである。

 

2005年1月1日 岩手日報

新年企画 地方に生きる 日本の役割

 国際協調の道筋を探れ

 新しい年を迎えた。昨年はイラクと北朝鮮問題で激動、さらに台風や地震災害で列島が打撃を受けた年だったが、今年は平穏で明るい1年になることを祈りたい。

 今年は1945年の大戦終結から60年、「戦後還暦」でもある。私たちはこの間、平和をむさぼり、衣食住こと足りて恵まれた社会生活を送ってきた。戦争放棄をうたった憲法のたまものだろう。

 しかし、イラク戦争とテロの続発など不穏な情勢が続く国際社会の中にあって、わが国が果たさなければならない役割は重い。イラクへの自衛隊派遣では憲法とのかかわりが問題となったが、護憲、改憲、創憲など望ましい憲法の在り方をめぐっての議論は、今後ますます活発になると思う。

 一方、内にあっては経済の低迷と厳しい国家財政の改善、また三位一体改革の中で、真の「地方の時代」をいかにして構築していくのかなど国、地方ともに課題が山積する。近未来を見据えた取り組みを期待したい。

 「日本国民は、恒久の平和を念願し…」。憲法の前文は平和の追求を明確にうたう。崇高な理念である。

 第九条で戦争の放棄を規定、戦力の保持や交戦権も否認しているのは、わが国が体験した忌まわしい戦争を反省してのことだ。だが、自衛隊の存在をはじめ、カンボジアなどに出動した国連平和維持活動(PKO)、自衛隊のイラク派遣などは、九条の拡大解釈によって誕生したと言っていい。いわば解釈改憲である。

 九条が定める「戦力の否認」は、東西冷戦構造の中で次第に形がい化し、解釈の拡大が容認されていったように思う。この拡大解釈は既に限界に達しているが、一方で国際社会への積極的な対応が要求され、常に新たな仕組みが模索されてきた。改憲論が持ち上がった背景もここにある。

 東西の壁は崩壊したが、平和を脅かす要因は絶えない。わが国として紛争やテロとの決別に向けて何ができるのか。憲法問題も含めて総合的な議論が求められる。

 憲法問題で、こと改正に絡む議論は長い間タブー視されてきた。だが議論は自由であり、戦後還暦を機会に一定の方向を見定めるべきと思う。もっとも、先に改憲、あるいは護憲ありきでなく議論のスタートは「日本はいかにあるべきか」であり、当然「国際社会への貢献」を意識しなければなるまい。

 私たちは何もかも失った敗戦の混乱から立ち上がり、高度成長を遂げ高福祉社会を築き上げた。この国民の知恵と総力は世界に誇っていい。国際貢献については、過去の経験を基礎に英知を集めれば答えを引き出せると確信するが「日本はいかにあるべきか」については地方の総合的な底上げがテーマとなる。 バブルがはじけた後の低成長は地方の財政を硬直化させた。県内自治体も投資的経費の捻(ねん)出(しゅつ)に苦悩し、緊縮予算を余儀なくされている。今こそ「地方あっての日本」を柱に据えないと国全体の活力が失われるだろう。税源、権限の移譲を推進し、中央省庁が地方を牛耳る時代に別れを告げたい。

 

2005年1月1日 福島民報

戦後還暦新しい飛躍の年に

 平成17(2005)年が明けた。今年は昭和20年の太平洋戦争終結からちょうど60年。わが国の近代史の上で、明治維新と並ぶ大きな変革のきっかけとなった終戦から数えて、いわば“還暦”となる。

 戦後の改革は皇室のあり方、衆参両院制度や国の省庁の再編、男女同権の公選法の施行、教育制度の6334制の導入、農地解放など社会の隅々にまで及んだが、年号が平成に変わったころから国も地方も、あるいは経済界やその他の分野でも、さまざまの制度疲労や経年劣化が指摘されてきたように思う。この十数年、官も民も社会システムの是正に苦労してきたが、この辺りで心機一転、節目の年の新年を飛躍のためのスタートラインと位置付けたい。

 佐藤知事は年頭所感で、今年の県政運営の基本的な指針を示した。この中で昨年夏以来の行財政改革をめぐる地方と国との綱引きについて、総体的に不満足な結果に終わった―としながらも他方、国が地方の主張の一部を認め、中央集権の厚い壁に風穴が開こうとしており、地方分権の確立に向けて時代が動きつつあると感じるとも評価している。地方の時代といわれて久しいが、昨年来のキーワードは「三位一体の改革」。市町村と歩調を合わせて、この風穴を大きく定着させることができるかどうか、今年が正念場となろう。

 県の新年度予算編成作業はすでに大詰めだが、知事は師走県議会の代表質問に答える形で重点推進分野として少子化対策の推進、地域経済の再生、過疎・中山間地域の振興、いのち・人権・人格を尊重する社会の育成、循環型社会の形成の5分野に優先的に予算を配分したい考えを明らかにしている。それにつけても“先立つもの”が確保できるかどうか。県と同様に市町村も台所事情は厳しくなる一方だ。やり繰りに一層の創意工夫が求められる。

 市町村の動きで注目されるのは平成の大合併だ。昨秋の北会津村と会津若松市に続いて今年3月には田村郡内5町村による田村市が誕生、4月には長沼町、岩瀬村と合併の新・須賀川市が発足する。10月には会津高田町、会津本郷町、新鶴村が一緒になって会津美里町に。ほかに31市町村で8つの法定合併協議会、4市町村で2つの任意協議会が組織されており、いずれも新しい古里の姿を模索している。

 県内では昔から還暦を迎えた人は赤い頭巾(ずきん)とちゃんちゃんこを着て祝う風習があったという。人生50年といわれた時代には、干支(えと)が1回りする60年を生き抜くのは大変に長生きでおめでたいことだったのだろう。現代は人生80年、90年といわれ、1世紀もの長寿を祝う人も多い。福島民報社は今年の年間テーマを「みんなでつくる 元気な福島」と決めた。100年を生きて“ここに住んで良かった”と胸を張れるような、そんな地域づくりを目指したい。
 暮れも押し詰まって奈良市の女児誘拐殺人事件が解決して全国の子どもを持つ親をほっとさせ、また天皇家の紀宮さまのご婚約が正式内定となり、国民の間から祝福の声が上がった。どちらのニュースも大みそか付の本紙一面に掲載となったが、これで新年からの世相の流れが「暗から明に」と変わればうれしいきっかけになる。

 

2005年1月1日 新潟日報

中越地震「復興元年」 未来開く再生の一歩を

 「あけましておめでとう」。こう笑顔であいさつするには、ためらいを感じる二〇〇五年の幕開けである。
 四十人の死者を出した中越地震の被災地の「いま」と「明日」を考えると、のんびりと正月気分に浸っていられない思いに駆られるからだ。それほどに震度7の直撃を受けた昨年十月二十三日の地震のつめ跡は大きかった。
 一万人近い人々が慣れない仮設住宅で新年を迎えた。応急修理した家で長い冬に耐えなければならない人々も多い。一日一日を生きるのに精いっぱいで、先を考える余裕はないとの声も耳にする。
 ☆鍵握るビジョンづくり
 こうした被災地にとって、〇五年は地域社会の立て直しに新たな一歩を踏み出す「復興元年」となる。地域の未来を信じ、力を出し合って復旧、復興に立ち上がらなければならない。
 問われているのは、そのための見取り図だ。それも壊れたものを元の状態に戻す「復旧」の視点ではなく、衰えたものをより盛んな状態にする「復興」の見取り図こそが大きな鍵を握る。
 中越地震でいえば、壊れたふるさとを再建し、より望ましい地域社会を創造する。これが復興の原点だ。復興には再建だけでなく、創造という大きな使命があることを忘れてはならない。
 中越地震は「都市型地震」といわれた阪神大震災と違って、中山間地を中心に起きた。当然、復興の見取り図も阪神大震災とは異なった「中山間地型」に仕上げることが求められる。
 国土の七割を占める中山間地は「日本の宝」でもある。豊かな森林は水資源をはぐくみ、土砂の流出を防ぎ、酸素を供給してくれる。中山間地は国家の富が眠る「命の空間」なのである。
 過疎にあえぐ中山間地の復興に巨費を投じることの効率性を問う声もないわけではない。しかし、生まれ育った土地への住民の愛着や中山間地が持つ公益的機能の大きさを考えれば、こうした議論は論外というべきだ。
 全村避難した古志山古志村をはじめとする被災地をどう復興させるかは、日本の中山間地の将来を左右する試金石にもなる。そのための「復興モデル」を新潟から提示していきたい。
 しかも、中越地震の被災地はなお「安全」とはいえない状況にある。問題は春の融雪時だけではない。梅雨や台風の大雨でもろくなった地盤が崩れ、二次被害を受ける恐れも残っている。
 こうしたリスクも頭に入れながらの復興ビジョンづくりとなる。昨年暮れには被災自治体の首長や学識経験者らでつくる県の「復興ビジョン策定懇話会」が基本指針づくりに動きだした。
 県内の大学、経済団体が山古志村の復興プランを検討する、産学連携の「山古志復興新ビジョン研究会」も発足した。自立と再生を目指す地域づくり計画を策定し、提言していく。
 復興ビジョンは対策の根幹をなすものだ。被災者の声に耳を傾け、元気と勇気が出る地域社会の将来像を迅速に打ち出していく責任がある。それが復興を後押しする県民へのメッセージとなる。
 ☆息の長い支援が必要だ
 阪神大震災がそうであったように、中越地震の復興にも長い歳月が必要になってこよう。求められているのは、息の長い取り組みと確かな支援だ。これなしに地域社会の再生はおぼつかない。
 息の長い取り組みを担保する手だての一つに、県が創設を求めていた「復興基金」がある。三千億円規模に縮小されたとはいえ、創設が認められ、中長期的な支援への発射台はできた。
 復興基金は運用益を元手に事業を展開するもので、十年間で六百億円の事業費が見込まれている。行政の復興事業の谷間を機動的、弾力的に埋め、きめ細かい対応ができるのが最大の強みだ。
 「自助」「共助」「公助」が防災対策の基本とされる。同じことは復興対策にもいえる。復興の第一の鍵が自分で自分の身を守る自助と地域で支え合う共助にあることはいうまでもない。
 だが行政の支援がなければ、目指すべき復興も絵に描いたもちに終わる。ここに公助の重要性がある。国には重ねて阪神大震災並みの手厚い支援を中越地震にも行うよう求めたい。
 被災地にはそれぞれ地域固有の風土がある。風土は木でいえば、根っこに当たる。追求すべきは、その根っこを損なうことなく、地域に自立と再生の幹を育て枝を張らせる取り組みだ。
 余震がまだ収まっていない。大変な道のりではあろうが、地震に耐えた頑張りで復興元年に立ち向かい、地域の未来を切り開く共同作業を始めよう。

 

2005年1月1日 茨城新聞

05年県内展望 県民主役で変革の時を

 二〇〇五年が幕を開けた。世界は、日本は、そして私たちが暮らすこの茨城は、いったいどんな年になるのであろうか。まずは、平和で人々が安心して暮らせる一年であってほしいと願う。
 今年は戦後六十年の節目の年である。敗戦から繁栄に向けて走り続けてきた日本は「還暦」を迎えた。人で言えば祝いの年でもあるが、そろそろ高齢者の仲間入りをし、悠々自適の生活を楽しむといったところでもある。もちろん、体の方も傷みが目立ってくるころでもあり、健康面では気遣いが必要となってくる。
 日本を見てみよう。働きすぎて無理を重ねてきたせいか足腰も弱り、長年の暴飲暴食がたたりあちこちに生活習慣病が出てきている。国家財政は深刻さを増すばかりで、地方経済は低空飛行が続いている。将来に影を落とす少子化は歯止めがきかず、一方で凶悪な事件が相次ぎ社会不安は募るばかりである。人の暮らしや心の原点でもある家庭はひび割れを起こしている。どれをとっても、これといった特効薬がなく、なかなか展望が開けない状態が続いている。
 茨城も安泰ではない。国と同様に県も市町村も財政状況は厳しく、経済環境も決して明るいとはいえない。昨年は殺人事件や強盗事件が相次ぎ、暮らしに不安を覚えた県民も多いはずだ。
 だが、悲観ばかりしていては何も変わらない。還暦を迎え老化現象が目立つこれまでの官僚主導の政治に変わり、県民が主役となって社会や行政を動かしていくような力やアイデアがますます重要となってくる。受動から能動へシフトしていかなければ、今の閉塞した状況は変えられない。
 茨城にとって今年は変革の時といっていいだろう。市町村合併が進み、順調にいけば新たに十七市町が誕生する。もちろん、それによって住民の暮らし向きが大きく変わるわけでない。合併前に一部自治体で行われていた好制度が、合併後に全域に行きわたるといったメリットはあるだろう。一方、合併したからといって財政状況が改善するわけではなく、場合によっては行政サービスが手薄になるケースもありうる。国からの補助金や交付金が削減され、小さな自治体のまま生き残っていくのは難しい面もあるが、合併には当然、メリット、デメリットがある。
 そこで大事なのは住民の意思である。少ない予算を有効に使い、いかに安心して暮らせる地域をつくっていくか。まちおこしではない。そこに暮らす人たちが自分たちの発想で地域をつくり育てていくことが、住んで楽しい地域の活性化につながっていくはずだ。
 今年はつくばエクスプレスも開業する。その効果に期待が高まる一方で、沿線開発や県内の南北格差の拡大に懸念の声も出ている。県民の力添えが欠かせない。
 市町村合併とつくばエクスプレス。還暦の変革は県民が主役であること、そこから始めたい。

 

2005年1月1日 北日本新聞

戦後60年の年頭に/思い起そう平和の原点

 昨年十一月に中国、十二月に韓国と、立て続けに隣国との首脳会談が行われた。盛んな
経済、文化交流の陰で、首脳間には冷ややかな空気が流れている。

 日中首脳の相互訪問は三年間も途絶えたままである。「日本の指導者が靖国神社を参拝
していること」が政治的障害になっている、と胡錦濤国家主席は指摘した。

 サッカーワールド杯共同開催や「韓流ブーム」で、友好ムードが高まっている日韓両国
だが、廬武鉉大統領は日本の国連常任理事国入りについて明確な態度を示さなかった。
「アジア地域で信頼がなければならない」とのニュアンスだったという。

 年末に韓国から、一九六五年の日韓基本条約締結をめぐる外交文書を公開するという
ニュースが流れてきた。戦前の日本の植民地支配、戦後の「過去の清算」を問い直そうと
いう空気が、韓国内にはいまも根強くあることを物語っている。

 多くの日本人はいぶかしく思うかもしれない。だが、これが隣国にいまもくすぶる対日
感情なのだ。日本は戦争責任をうやむやにしているのではないか、戦後補償を被害者が納
得のゆく形で解決したのか、と。隣国の政治事情が絡む問題、と皮相的な見方をしてはな
るまい。日本が「決着済みの話」と自信を持って言い切れるかどうか、ということであ
る。

 ことしは戦後六十年である。日本が太平洋戦争に敗れ、第二次世界大戦は終わった。国
際連合の設立から六十周年という節目の年にも当たる。


 戦後六十年の歩みを振り返ることは、日本にとっても国際社会にとっても今後の進路を
考える上で有意義なことである。

 日本の戦後体制は、日本国憲法と日米安保条約に規定されてきた。国民主権、基本的人
権の尊重、平和主義の三本柱から成る憲法は、たとえ占領軍から押しつけられたものだっ
たとしても、国民に歓迎され、浸透してきたことは間違いない。逆に言えば、それまでの
戦時体制によって、国民がいかに悲惨な生き方を強いられていたか、ということでもあ
る。

 とりわけ、戦争放棄をうたった憲法九条は平和日本の証(あかし)だった。九条は紛争
の解決を平和的手段によるとする国連憲章の理想を体現したものだが、一方で日本の平和
が日米安保条約によって支えられてきたことも紛れのない事実である。使えない兵器であ
る核を背景に、米国と旧ソ連の二超大国はにらみ合った。しかし、日本は同盟国の米国に
協力しつつも、自衛隊を直接海外に派遣することもなく、各地の紛争に巻き込まれること
を免れてきた。

 その米国が、東西冷戦が終結し唯一の超大国となった。9・11の米中枢同時テロの衝
撃から、米国は対テロ戦争を呼び掛けた。イラク戦争では、単独行動主義と先制攻撃論の
米国に距離を置く国が少なくない。日本は「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」の要請に応
じて部隊を派遣している。かつて国連創設に中心的役割を果たした米国、国連憲章を先取
りする憲法を持った日本。ともに、六十年前の理想から随分遠くまで来てしまった、との
感を禁じ得ない。


 今年、衆参両院の憲法調査会による最終報告が提出される。自民党は結党五十周年に合
わせて、憲法改正草案を発表する。民主党も来年には草案をまとめ、改憲に前向きな姿勢
だ。

 各種世論調査では、改憲派が多数を占めるが、焦点は九条を改正するかどうかである。
九条については賛成、反対が拮抗(きっこう)している。自衛隊の専守防衛や非武装の国
際協力は、多くの国民が認めている。ただ、それを海外でも武力行使できる軍隊とするこ
とには抵抗感が強い。先の自衛隊イラク派遣延長でも、反対の世論が多かった。

 小泉首相は憲法前文の「国際社会で名誉ある地位を占めたい」をよく引用するが、米国
に付き従っていくことが名誉ある国際貢献なのか。近隣諸国との歴史問題でかたくなな姿
勢を取り、関係を悪化させることが国際社会の名誉につながるのか。

 この六十年の歴史から何を学び、どんな未来を切り開くのか。戦後還暦の年頭に、まず
はこの国と国際社会の平和希求の原点を思い起こしたい。

 

2005年1月1日 北國新聞

戦後60年@ 地方分権 地方から新しい国のかたちを

 戦後六十年の節目となる新たな年が明けた。記念すべき年の初めに、戦後のさまざまな 惰性や呪縛(じゅばく)を引きずる政治、行政、文化、経済など各方面の課題を掘り下げ、あすの地域づくり、国づくりを展望する社説を五回シリーズで掲載する。

       ◇

 平成の市町村合併は、いよいよ終盤を迎え、新しい「石川のかたち」が整ってきた。市 町村合併とは、地方分権の受け皿を強化し、地域の自立力を高めるための手段といえる。分権の要(かなめ)は国から地方への税源移譲であり、それを目指す国・地方財政の三位一体改革が動き始めた。しかし、内容はまだまだ不十分で、税源移譲を伴う本当の意味の地方分権は緒に就いたばかりである。

 地方分権に立ちはだかる中央集権の岩盤はまことに強固で、崩すのは容易ではない。政 治は、情熱と判断力を駆使して「堅い板にじわっと穴を開ける作業」にたとえられるが、地方分権の作業もこれによく似ている。地方分権とはいわば、日本再生に必要な国のモデルチェンジであり、自治体はまさに「地方から国を変える」、「地方から新しい国のかたちをつくる」という気概をもって、分権を前進させなければならない。

 地方にとって、平成の市町村合併は、明治維新後および戦後の合併に続く一大改革であ るが、地方分権の推進が強く意識されている点で先の合併とは決定的に違う。

 明治の合併は、日本が中央集権の近代国家として生まれ変わるための基礎づくりであり 、憲法で地方自治が保障された戦後の合併にしても、中央集権の強化をもたらした。中央主導下の地方行政は「甘えの体質」とか「陳情行政」などと揶揄(やゆ)され、中央頼みが惰性となった感がある。

 しかし、それは自治体の怠慢のせいというより、中央政府に頼らなければ生きていけな い仕組みになっていたからである。地方分権とは、そうした仕組みを変えることにほかならない。

 あらためて言うまでもなく、中央が地方を支配する道具の最たるものは補助金と地方交 付税である。それをもらわなければ自治体経営がなり立たない制度は、昨年末に示された三位一体改革の全体像で、ともかく風穴が開けられた。当面の目標額には届かなかったが税源移譲を一部実現させ、地方分権確立へわずかに前進したといえる。

 むろん不満も多い。既得権益を守る官僚の抵抗のすごさ、補助金分配をめぐる政官の結 び付きの強さもあらためて思い知らされた。象徴的だったのは義務教育費国庫負担金で、地方六団体の改革案に見合う削減額は決まったものの、具体的な中身は〇五年度に先送りされた。

 義務教育費に関して、あらためて付言すれば、基本方針や大枠づくりに国が関与すると しても、学級編成や教員の配置、給与などは地方の才覚に委ね、地域の実情に合った特色ある教育を行えるようにするべきである。

 また、全体像で削減が決まった補助金の大部分は義務教育費と国民健康保険で占められ 、地方側が不要といった百四十以上の補助金の大半は手付かずである。地方の自由度は思うほど拡大していないのだ。地方交付税にしても、もともとは自治体の固有財源であることが忘れられがちである。増減に一喜一憂するのではなく、自前の財源として取り戻すことこそ重要なのである。

 中央への働きかけだけでなく、自治体自身の内なる改革努力も求められる。今回の三位 一体改革は小泉改革の一つとして出されたもので、地方の側から出たわけではない。補助金削減の地方案にしても、小泉首相の要請で取りまとめたものである。

 地方の自主性・自立性を高めるために税源移譲が不可欠なことは自治体も重々承知のは ずだ。にもかかわらず、地方の側から具体的な改革を求める声が積極的に上がらなかったのは、官僚と政治家による補助金支配の構図を変えることはできまいという一種の呪縛や、中央依存の習い性のせいではあるまいか。地方分権を獲得するには、そうした目に見えぬ縛りを解かねばなるまい。

 地方分権とは、天から降ってくるものでもなければ、地から湧(わ)いてくるものでも ない。自治体が自主の精神に基づく改革のエネルギーを持続させて、はじめて手に入れることができると認識したい。

 

2005年1月1日 長野日報

災害対応は覚悟を持って のどもとの熱さ忘れるな

 異常気象と地震・災害に明け暮れた昨年。被災をどれだけ自分のこととして受け止めていただろうか。県内では地震による大きな被害は受けていないので、災害を語るにも距離を置いた話し振りになる。自分が被災した時や被災する前にどう対応し、何を準備しておくべきか、一人ひとりが考えておかなければならない。
 阪神淡路大震災から十年、行政の危機管理体制や対応は格段に進んだが、個人の心がまえや対応はのどもと過ぎて熱さを忘れてしまっている感がある。昨年秋の新潟県中越地震で熱さの記憶を呼び覚ましてくれた。新潟県と長野県の中南部は地球的な規模からすればほんのわずかな距離。起こればこの地域に大きな被害をもたらす危険の大きい東海地震、東南海地震もいつ発生してもおかしくない。
 安全な避難場所の確保、救援物資の供給や災害復旧は、政治や行政の責務だ。速やかに対応してもらうことが、被災者をパニック状態から救い出すことにつながる。
 最も望みたいのは、個人の心がまえ。とりあえず、命を守ることが優先される。ついで、数日分の当面の食糧確保、場合によっては着る物、情報収集手段のラジオや懐中電灯など、自分の身を守るグッズは最低限準備しておかなければならない。避難場所の確認も同様だ。
 災害が起こるたびに繰り返されるこうした個人による防災対策は昔と比べるとずいぶん進んだ。防災パックも一時的に売れて、住民が災害に備えている様子はうかがえる。もう一つ重要な点は、発生したらどう行動するかの手順を予習しておくことだ。そして、一人の頭の中だけでなく、家族が話し合って確認しておくことが重要。
 こうしたシミュレーションをしておくのと、しないのとでは災害に遭った時の差は大きい。予習どおりに行動すれば、冷静になれる。パニック状態になりやすい時ほど、冷静さが求められる。
 異常気象は人間社会の営みと深くかかわっていることが明らかになっているが、地震に関する限り、人知を超えた領域からの訪問者なので、謙虚に対応するしか方法はない。地震予知が正確に出来るようになっても、地震の発生を止めることは出来ない。ならば人知の及ぶ範囲で自分ができることをする覚悟だけは持ち続けたい。

 

2005年1月1日信濃毎日新聞

憲法論議−その視角 はじめに 「深い川」を渡るがごとく

 ことしは「憲法の年」として歴史に刻まれようとしている。二〇〇五年の一年間、日本国憲法をめぐる重要な日程が相次ぐ。大きな転機に差し掛かるのは間違いない。

 戦後六十年の節目でもある。焼け跡の上に政治、経済、社会さまざまな制度が新たに築かれた。今日の繁栄に至る飛躍を積み重ね、次なる段階へ向けた見直しもされている。

 戦後体制の中核を成す柱が憲法である。施行つまり効力を発した日付は一九四七(昭和二十二)年五月三日だけれども、制定の出発点は四五年八月のポツダム宣言受諾にある。

<日程がめじろ押し>

 これから予想される憲法論議は従来とは多分に内容も質も異なる。改正を視野に入れ、具体的に政治の歯車が回りはじめるからだ。

 一月召集の通常国会には、憲法改正の是非を国民に諮るための手続き法案を提出する方向で自民、公明両与党の準備が進められている。憲法自身が改正には国民の「過半数の賛成を必要とする」と定めていることに対応する事前の作業である。

 三日が憲法記念日の五月、衆院と参院の両方に設けてある憲法調査会が、最終報告書をそれぞれの議長に提出する。二〇〇〇年一月以来、憲法全般にわたり自由討論形式で意見を出し合ってきた。改憲の議案提出を前提にしない調査会ではあるものの、流れを加速せずにおくまい。

 こういう憲法ができました―と一九四六年、広く国民に知らされたのが十一月三日だった。これに合わせて自民党が、改憲草案の発表を予定している。結党五十周年を踏まえた懸案の取り組みである。

<取り巻く状況が動き>

 新憲法の制定を立党の原点に据える与党の自民党にとどまらない。野党第一党の民主党は、二〇〇六年をめどに独自の改正草案をまとめようとしている。あえて改憲と言わずに「創憲」と称しているけれども、第九条(戦争の放棄)を含め改正を目指すことには変わりがない。

 与党の一角を担う公明党は、環境権など現行憲法にない分野を加える「加憲」の方向で独自性を打ち出そうとする。目指すところは違っていても、改正の論点をより広げる立場と解釈できなくもない。

 二〇〇三年の総選挙、〇四年の参院選と二回の国政選挙で自民、民主の二大政党化が進んだ。公明党も第三極を確保した。対照的に共産、社民の護憲政党の後退が著しい。改憲を阻むのに必要な三分の一の壁が、もはや崩れたに等しい局面である。

 国民の間にも憲法改正を受け入れる空気が広がってきたこともまた座視できない。例えば、昨年十二月、信濃毎日新聞社の加盟する日本世論調査会が実施したアンケートには考え込まされる。

 「議論した結果、改正することがあってもよい」と、54%の人が答えている。「改正に向けて積極的に議論すべきだ」が24%である。合わせれば、改憲容認・積極派が八割に近い。風向きの変化をうかがわせることでは他の世論調査にも共通する。

 先行する現実は、さらにテンポを速めている。事実上の戦地であるイラクに自衛隊が派遣され、多国籍軍にまで加わる。「憲法の枠内」との説明が、いよいよ窮屈になった。

 以上、憲法を取り巻く環境の様変わりは確かに激しい。とはいえ、問題はここから先である。六十年近い歩みから生じた課題が数々あるにしても、だからといって憲法の改正を是とする材料であるとは限らない。

 より必要なことは、一つ一つの現象の意味するところを多角的に見極める視野である。国会の勢力図が改憲派多数といっても、憲法改正が真っ正面から問われた上での国民の選択ではない。留意を要する点だ。

<立ち止まる機会に>

 これまでの経緯はしっかり踏まえながらも、同時に従来の対立の構造にとらわれることなく「憲法をめぐる論議」を見据えていきたい。安全保障はもちろんのこと温暖化現象に象徴される地球環境、次代を担う子供たちへの期待など数限りない。

 こんなふうに、例えることもできる。私たちは今、これまで一度も渡った体験のない大きな川のほとりに立っている。向こう岸が見えないくらい幅が広い。渡るための船も建造が終わりに近いらしい。

 そのまま乗り込んで渡っていいのかどうか。立ち止まって見回さなくてはならないのはそこのところだ。

 「浅い川も深く渡れ」ということわざがある。浅くて楽に越えられそうでも、川底がどうなっているか分からない。十分に用心して行け、との教えだ。まして深い川であるならば、必要な注意は比べようもない。

 正確に川幅を測り、深さを調べた上で、流れの速さも知らなくてはならない。憲法改正はいったん渡ってしまうと、もはや戻りようのない川である。国会勢力図の変化、既成事実の積み重ねを追い風にして、一気に船出をしたのでは危ない。

 憲法論議とどう向かい合い、積極的に加わっていくには、何が求められるか―。節目の年に考えてみる。

 

2005年1月1日 福井新聞

酉年に望む 転換の時、重要課題動く

 よく申(さる)年は天変地変が多いという。申年の昨年は異常気象に見舞われ、自然災害が多かった。水害、台風、地震と日本全国が災害に泣かされた。酉(とり)年の新年は「災」から「福」へ転換を期したい。県内の懸案事項だった北陸新幹線、中部縦貫自動車道「大野油坂道路」、エネルギー研究開発拠点化計画、市町村合併などが動き出した。静から動へ。新しい胎動が始まる。

 ◇新幹線福井駅着工へ◇

 鉄道、道路網など高速交通体系を整備することは、本県の地域振興策の柱である。北陸新幹線、舞鶴若狭自動車道の完成に向けた取り組みが政府予算案に反映され、大きく前進する。

 北陸新幹線は昨年末のスキーム(基本計画)見直しで福井駅の整備が認可され、新幹線予算で総事業費百億円のうち新年度十億円が計上された。新年度着工される。まだ新幹線の「点」にすぎないが、足がかりが得られた意義は大きい。

 福井駅舎の設計が当面の焦点。三階建てに加え二階建て案が浮上、近く示されよう。今後、随時見直しを行う過程で、福井―金沢間をできるだけ早く着工し、線としてつながる要請も課題になっている。

 ◇嶺南、奥越に夢広がる◇

 道路関連では高規格幹線道路に八千億円(全国枠)がつき、舞鶴若狭道は完成に向かってさらに延伸が期待できる。若狭と北陸自動車が連結することで、県内の高速道路網は飛躍的に機能性が高まる。

 JR北陸線が敦賀まで直流化されると、若狭道と相まって、敦賀は流通基地としての機能が一気に高まってこよう。嶺南地方に大きな夢が広がる。完成に向かって新年は着実に歩を進めるときだ。

 中部縦貫自動車道は全国枠で約三兆円が予算化。本県、とりわけ奥越地方の振興に直結する大野油坂道路のルート帯(幅一・五キロ)が発表された。岐阜県は既に整備され、いよいよ東の玄関口、県内ルートが焦点になってきた。奥越に流通の光を当てたい。

 ◇焦点の「もんじゅ」◇

 中川経済産業相は原子力安全基盤機構の事務所を新年度にも県内に設置する考えを明らかにした。原発のチェック機能を高め、高経年化対策など安全確保へ体制の充実を図る。

 一方、関西電力は原子力事業本部を美浜町の関西支社に置く。十一基の原子力を県内に置く事業者として安全性、地域への貢献、雇用などの対応に本格的な基盤を置くことにしたもの。地域と事業者の密接な連携を望みたい。

 県が進めるエネルギー研究開発拠点化計画に絡む予算として約十九億円が付いている。国も拠点化に力を添えてきた。エネルギーを生み出す基地から研究、福祉、地域振興など幅広い分野で役立つ基地へと変容する転換点である。

 その中心施設である高速増殖炉「もんじゅ」は九年間にわたり運転停止中だ。再開にはナトリウム事故を起こした配管の改造工事が必要で二十八億円余が計上されている。

 判断は知事がにぎる。条件、環境はそろってきたとの認識が示され、新年の判断時期が注目される。エネルギー関係が動きだそうとしているが、安全第一にことを進めてもらいたい。

 ◇迫る合併のタイミング◇

 市町村合併はどこも課題を抱えた。克服して前進、合併にこぎ着けたいところ、問題を抱え難航しているところなどさまざまである。

 年明け一日に南条郡三町村による「南越前町」、二月一日に丹生郡四町村の「越前町」、三月三十一日には嶺南地方トップを切って「若狭町」、十月には武生市・今立町の「越前市」がが誕生する。

 注目されるのは、坂井郡四町の動向。春江町の松浦町長が他町との間に生じた溝が埋まらないと離脱を表明、にわかに壁にぶつかった。町長・議長会議まで結論を持ち越したが、修復は容易でない。

 三月末が合併特例法の期限になっており、それまでに調印が迫られる。調印後合併までは一年間の猶予があるが、協議にさく時間はさほどない。

 合併ありきの論議が先走ると大事な問題に至ったときかみ合わない。冷静に対処できる余裕と、日常、住民の意思を確認する努力をしておくことだ。

  

2005年1月1日 山陰中央新報

島根の未来構想図/最終走者が躍り出る条件

 一周遅れの最終ランナーが、時代の風向きが変わればトップランナーになる−。島根県の将来像をめぐって、こんな逆転の発想を紹介されることがある。 

 人口や経済力などの指標で全国最下位クラスに低迷している島根県。しかし、それらは「物の豊かさ」を基準とした考え方であり、「心の豊かさ」を重視する価値観に時代が変われば、順位は逆転して島根がトップに躍り出る−。

 おおむねこんな趣旨である。理念としては共鳴しながらも、交通信号の色が変わるように、社会の価値観がそんなに簡単に変わるものなのか。現実との距離感にもどかしさを感じる人も多い。

 しかし松谷明彦著「『人口減少経済』の新しい公式」(日本経済新聞社)を読むと、こんな島根の将来像があながち空論ではないような気がしてくる。

 ただし、それは「物から心への価値観の転換」というような抽象的な雰囲気の変化がきっかけではない。人口動向という客観的で現実的な文脈に当てはめた場合の島根の未来図である。

 人口動向と言えば、少子高齢化によって日本の人口はやがて減少時代に入る。現在でさえ全国一の過疎高齢県である島根県はますます高齢化が進んで地域の活力が失われ、大都市との格差は大きくなる−。大方の人はそう予測しているのではないか。

 しかし、この著書の予測は全く逆である。日本全体の人口が減っていくなかで急速に高齢化が進んで経済力が落ち込むのは東京を中心とする大都市圏であり、島根県は最も落ち込み幅が小さく活力を維持していく可能性が大きいという。

 そんな意外な結論を導くのは、今後の高齢化を変動率でみているからである。現在の年齢別人口構成のまま推移すれば、若い人の比率が高い大都市ほど将来の高齢化率は大きくなる。少子化で若年人口が減っていくためである。

 それに比べて島根県では若者の流出で既に高齢社会に入っているため、今後の高齢化は頭打ちとなる。現在の低い若年人口の比率が将来の高齢化率に”平行移動”するからである。 

 そういうことか、と”種明かし”に夢から覚まされる思いをしないでもない。しかし重要なことは地域の活力のバロメーターとなる人口構成で大都市と地方の格差が縮小し、その中で島根県にも地域活性化のチャンスが生まれる。

 今後の日本が向かう人口減少社会は、産業構造を投資財型から消費財中心へ移行させる。大工場が集中し、画一的な大量生産を推進する投資財経済から、個人の多様な趣向に応じて多品種少量生産を求められる消費財経済へとシフトする。そんな個性重視型の縮小経済を松谷氏は描く。

 地域固有の資源や人材を生かす上で消費財経済は島根にもチャンスを与えてくれる。大型の設備投資による装置型産業に恵まれていなくても、地域の文化や伝統的な匠(たくみ)の技を生かしたこまやかなセンスを産業に生かす。

 遅れていたことがビジネスチャンスとしてよみがえる。逆転の発想が現実性を帯びながら、島根の未来を切り開く。そんなスタートの年としたい。

 

2005年1月1日 山陽新聞

輝く地域へ知恵こそ磨け 戦後60年 主体的に
 威勢のよい「町火消し」は、自分たちの町は自分たちで守るという心意気があった。江戸時代に始まった自治組織だ。全国各地の消防団は、その流れを受け継いでいる。

 岡山県内の消防団員の意見発表を聞く機会があった。自営業者や会社員らが働きながら地域防災のために活躍している。仕事と地域活動の両立は大変だ。それでも、ある団員は「会社の縦社会とは違う地域との一体感を実感できる」と充実感を語っていた。

 地域に根差す団員たちは身近な情報に詳しい。火災現場で逃げ遅れたお年寄りなど災害弱者の確認や救出にいち早く対応できる。地域防災力の底力といえるだろう。

 自主・自律の重要性が叫ばれる地方分権時代が近づいている。中央集権のもと、受け身になりがちと思っていた地域だが、足元にはこんなに立派な組織があったのかと、再認識した。消防団員の誇りと自負心を、地域づくりに生かしていきたい。

荒波とこだわり

 地方には市町村合併の荒波が押し寄せている。交付税の削減などによって財政は厳しさを増す。地方切り捨てと思わざるを得ないような動きもある。

 少子高齢化は止まらず、過疎地にとっては、どのように存続していくのか、不安が募ろう。都会の人たちは、広い日本列島の中で、小さな地域の行く末に関心は薄いだろうが、このまま地方が黙っているわけにはいかない。

 どんなに小さな村や町にも人々が暮らしてきた歴史と文化がある。作家司馬遼太郎は、同じ作家の開高健との対談で「文明が普遍的―だれでも参加できるもの―としたら、文化は一般から見れば不合理なもの、だから、かえって心を安らがせるもの」と言っている。

 高度に文明の進んだ現代だからこそ、文化というこだわりに人々は魅力を感じる。地域には独自の豊かな文化が残っているはずだ。自信を持っていい。

横並びの反省

 耳の痛い意見もある。経済成長に乗って、地域でも開発が進んだ。全国の町や村に立派なホールや集会所が建設された。同じような建物が至る所に完成した。薄っぺらな都会型の文化が振りまかれたとの批判である。

 「品格なくして地域なし」(晶文社)という本が一九九六年に出版された。作家の関川夏央さんやエコノミストの日下公人さんらが「品格ある地域」を求めて各地を旅し、町づくりの具体的なヒントを記している。

 日下さんは、従来の地域おこしは国家主導だったと指摘し、地域文化が画一的でオリジナリティーに欠けがちなのは地方の人が「中央から振り返ってもらいたいとか公認してもらいたいとか、つまり格付けだけを求めているからだ」と手厳しい。反発したくなるが、思い当たる節もある。文化は「自己満足」であり「強い思い」がこもっているものとの主張に、謙虚に耳を傾けなければなるまい。

問われる個性

 政府が二〇〇一年にまとめた経済財政運営の基本方針、いわゆる骨太の方針は、全国一律の行政サービスが地方の個性を失わせ、効果の乏しい事業まで実施させるという弊害が見受けられると問題視したうえで、「知恵と工夫の競争による活性化」を打ち出した。「均衡ある発展」重視から「個性ある地域の発展」への転換を促した。

 あらためてこの文章を読むと、身が引き締まる。受け身でいてもそこそこの地域づくりができる時代ではなくなったと覚悟が問われる。

 前提として、地方の裁量度を高める権限と財源が国から移譲されなければならない。そうすれば個性的な町づくりが可能になろう。地域の誇りとやる気にもつながる。

 一方で、地域にこだわり、住みやすい地域社会を再生するための知恵を磨くことが大切だ。情報化社会では、地方にいても発想を刺激する情報が得やすい。力を合わせて前向きに挑戦し、伝統文化の掘り起こしだけでなく、新たな文化の創造も目指したい。

 今年は戦後六十年である。地域の来し方行く末に思いをめぐらし、主体的に生きるために足元から考えてみたい。

 

2005年1月1日 徳島新聞

さあ、古里づくりだ 団塊の受け皿目指したい

 新しい年が明けた。イラク戦争は出口が見えず、国内外で地震や津波、風水害の被害による大きなダメージが残るままの重苦しい年明けとなった。

 戦後六十年の二〇〇五年。日本にとっては「戦後還暦」の節目である。

 戦後のベビーブームで生まれた「団塊の世代」と呼ばれる人々にも、六十歳の還暦が迫る。このため、団塊世代の大量定年による社会変化がもたらす「二〇〇七年問題」への対応が急がれる。

 団塊の世代は、一九四七−四九年生まれ。名付けたのは、作家の堺屋太一さんである。約七百万人が塊となっており、他の世代より二−五割も多い。

 大量の離職者生まれる

 この世代が定年年齢を迎える二〇〇七年からの数年間は、わが国が本格的な少子高齢社会に突入する入り口と位置付けられる。大量の離職者が労働市場をはじめ経済や財政、社会制度に大きな影響を及ぼすことが予想されている。

 昨年、団塊世代の作家、三田誠広さんが刊行した『団塊老人』(新潮新書)というタイトルの本が話題を呼んだ。三田さんは、年金制度の危機的な状況などを指摘しながら、社会システムの改革の必要性、団塊世代が老後を生き抜く心構えなどを多面的に説いている。

 三田さんは「団塊の世代が老後を生き抜くためには、新しい発想が必要」と強調。そのポイントとして<1>愉(たの)しく働く。可能な限り働き続ける<2>自分の居場所を確保し、生きることの充実感を維持する<3>少ない費用で喜びを得られる文化的趣味をもつ−を挙げている。

 わが国の人口は、〇六年をピークに減少に転じる。二〇〇七年問題への対応策は、急速に進む人口減少時代への備えにもなる。国民全体で考えなければならない問題であろう。

 財務省の財務総合政策研究所が設けた「団塊世代の退職と日本経済に関する研究会」は昨年、約半年間の研究を踏まえた報告書をまとめた。

 それによると、団塊世代が定年後にこれまでの世代と同じ率で引退してしまうと、雇用者は百九万人減り、雇用者報酬は約七・三兆円、国内総生産(GDP)も約十六兆円少なくなる。高齢化が一気に進むため、財政や社会保障収支も急速に悪化すると予想されている。

 報告書の分析では、団塊世代の三大都市圏の居住割合は、出生時には三分の一だったが、世帯形成時には二分の一となっている。特に首都圏への居住の偏在が目立つという。

 高度経済成長期に学校を卒業した団塊世代は、多くが製造業、建設業などに就職した。地方から首都圏などへ、おびただしい数の人々が流出し、徳島県内からも、大勢の団塊世代が労働力として都会に出ていったのである。

 定年後にUターン希望

 昨年の暮れも押し詰まり、首都圏に住む団塊世代の知人が帰省した。徳島県内の中山間地域で生まれ育った彼は、関西の大学へ進学後、東京に本社のある大企業に就職した。現在は、関連会社の役員として出向中である。

 実家には、八十代後半の父親が一人で住む。母親は八年前に亡くなった。県外出身の妻は都会の生活になじんでおり、子供二人も首都圏で就職している。

 定年が目前の今「できることなら退職後、自分一人だけでも古里に帰って父親と暮らしたい」と言う。自分が生まれ、父母がお世話になった地域への恩返しをしたい気持ちもあるからだ。

 このように、古里へのUターンを定年後の人生の選択肢の一つとして考えている人は少なくないだろう。団塊世代の大量退職時代は、都会から大勢の人に帰ってもらう最大のチャンスでもある。

 これを生かせば、県人口の減少に歯止めをかけるのに役立つかもしれない。二〇〇〇年国勢調査での県人口は八十二万四千百八人だったが、国立社会保障・人口問題研究所の将来推計人口では、三〇年に六十八万七千人まで減少するとされる。この通りなら、県の活力が大きくそがれるだろう。

 Uターン志向の人が「帰ろう」と思っても、古里が荒れ放題の状態では話にならない。〇七年からの社会変化の時代に備え「帰ってきたい」と思われるように地域の魅力づくりを急ぎ、受け皿を整えなくてはならない。

 団塊世代の豊富な経験や技術を生かし、適度な仕事ができる仕組みづくり、熟年の起業支援も充実させ、地域の活力アップに結び付けるべきだ。定年帰農などに対する技術、経営指導も充実させる必要があろう。

 ボランティアなどへの参加によって、社会貢献による生きがいが感じられるようなシステムも確立したい。なじみの薄い人にも、地域に気持ちよく溶け込んでもらえるよう、私たちは多様な価値観を認め、心を開いて接する寛容さを心掛ける必要があろう。

 県内の地方自治体は、深刻化する一方の財政の健全化を進めるとともに、新しい時代にふさわしい行政システムに改革しなければならない。市町村合併も進んでいるが、これによって住民サービスを低下させることなく、効率化が図れるようにすべきだ。

 社会基盤の整備も重要

 道路など社会基盤の整備を進め、高齢者や障害者が暮らしやすい街にすることも大切だ。また県内でも、芸術文化に触れる機会が持てるような環境もほしい。徳島市が検討を進めている音楽・芸術ホールの建設に、早く道筋をつける必要があろう。阿波踊りや人形浄瑠璃などの伝統芸能も、もっと振興したい。

 医療や福祉などの充実も必要だ。こうしたUターンの受け皿づくりは、県民一人ひとりのメリットにもなる。

 必要な施策の多くは、県が昨年まとめた「オンリーワン徳島行動計画」に盛り込まれている。三位一体改革の影響で県財政も厳しい状況だが、飯泉嘉門知事は計画の実現に全力で取り組むべきだ。

 

2005年1月1日 東奥日報

「戦後還暦」から何を学ぶか

 二○○五年が明けた。昭和の分水嶺(れい)となった一九四五年の敗戦から六十年。昭和、平成と続いた戦後も還暦を迎えた。

 はるけくも来たものか。この間の振幅激しい歳月の流れに、そんな感を深くする。世界も日本も、そして暮らしの足元も、大きく変ぼうしてきた。

 私たちは今、どんな場所にあって、どこへ向かおうとしているのか。霧の深い時代は、そんな重い問いをあらためて突きつける。

 節目の年の始め、先人たちの言葉を手掛かりに踏み出すべき一歩を考えてみたい。

  降る雪や明治は遠く
  なりにけり

 中村草田男が昭和初期に詠んだ俳句である。明治の四十五年と大正の十五年。その歳月が「遠くなりにけり」に凝縮されている。

 戦後還暦の時間も、これに匹敵する。右の句を読み替えれば「昭和も遠くなりにけり」だろうか。

 むろん前者と後者の時間の内実は異なる。明治の近代化と挫折、ほぼ十年ごとの戦争を経て対外膨張に向かった時期。その果ての滅びから復興、繁栄、空洞化を刻んで来た時期と。

 一方で草田男の句は、時代の変化や循環性を考える視点、いわば歴史意識を呼び起こす。学ぶべきは簡潔な表現が秘める、そんなまなざしではないか。

  つつましき保身をいつか性と
  して永き平和の民となるべし

 近藤芳美さんの短歌は、日本が占領下にあったころの作だ。従軍体験を持つ戦中世代の苦い自覚と、戦後の世相に対する違和感が歌われている。

 戦後は確かに、長い平和の時をもたらした。何もない廃虚から生活は豊かになり、ものがあふれる時代になった。日本の近代史が初めて到達した場所だった。

 けれど死者の記憶とともにあった苦い自覚も違和も、政治や経済のうねりにのみ込まれていく。それが時代の半面でもあった。

 高度成長を境に加速した流れの中で、バブルの宴とその後始末が続き、今や「勝ち組」「負け組」「自己責任」などの言葉が踊る。希望にすら格差のある分断の時代へと移ったのか。

 戦後が得たもの、失ったもの、あるいは人の性(さが)の変質のほどは。近藤作品の問いは、なお現在に鋭く生きる。

  戦争の記憶が遠ざかるとき、
  戦争がまた
  私たちに近づく。

 暮れた年の瀬に逝った石垣りんさんの詩「弔詞」の一節だ。「そうでなければ良い」と願った四十年前の言葉が、ますます重く響く昨今である。

 9・11、アフガニスタン、イラク、パレスチナ、北朝鮮。混迷を深める世界は、砲煙やきな臭さが絶えない。

 日本もまた自衛隊の海外派遣、有事法制など、大きくかじを切ってきた。戦後憲法と日米安保体制の折り合いは崩れ、激しくきしむ音ばかり聞こえる。

 理想や寛容、和解が後景に退いて、冷徹な現実主義や不寛容、孤立と表裏の単独行動が前を行く。これが世界の今だろう。

 憲法改正論議が高まる時にあって、そうした現在としっかり向き合うことこそ第一の前提だ。暮らしを根こそぎ奪うものを、暮らしの底辺で考え続けた石垣さんの言葉も、そのヒントになる。

 戦後生まれが大多数の中で、戦後還暦と言ってもピンとこない向きもあろう。けれど、きのう、きょう、あすの連続性から歴史も生活も形づくられていく。

 あすにつながるきのうを問い直し、きょうをよく生きて、あすに橋渡しをしていく。

 アナス・ホリビリス(ひどかった年)を越えて、新年はそんな一歩を踏み出したい。

 

2005年1月1日 愛媛新聞

戦後60年を迎えて 国の針路をしっかり見定めよ

新しい命がきょうも次々に誕生している。めでたいことではあるが、この子らのこれからは果たして安泰なのか―。
 日本はこれまで曲がりなりにも平和を維持してきたが、それが根本から揺らぎつつある。今年は戦後六十年の節目の年だ。この国の針路を、しっかり見定める年にしたい。
 国民の平和な暮らしのよりどころは、もとより憲法である。その改憲論議が高まり、今年はより加速するのは必至だ。自民党は十一月の結党五十年をめどに、憲法改正草案を策定する方針でいる。衆参両院の憲法調査会も五月に最終報告書を取りまとめる。日本があらぬ方向に突き進まないよう憲法論議に耳をそばだてねばならない。
 昨年十一月、自民党の憲法調査会が憲法改正草案大綱の素案をまとめた。憲法解釈上、行使できないとしている集団的自衛権の行使に踏み込んでいた。素案に「衆院優位」を盛り込んでいたことに参院側が反発し、白紙に戻しはした。だが、新設の「新憲法制定推進本部」(本部長・小泉純一郎首相)で議論をやり直し、四月末には「試案」をまとめるという。
 党の素案を、あっさり撤回するとは、いかなることか。党内議論さえ十分に行われていなかった証左である。
 しかも、素案づくりにあたった憲法調査会の中谷元・改憲案起草委員会座長(当時)が自衛隊幹部に資料の作成を依頼していた。この幹部は集団的自衛権の行使を可能とする改憲案をまとめ、それは素案に色濃く反映されていた。自民党が素直に受け入れたということである。
 文民統制(シビリアンコントロール)の観点から、看過できない問題だ。なのに小泉首相は「専門家の意見を聴くのは悪いことではない」と言う。危なっかしいことこの上ない。
 憲法に関する世論調査では改正の容認・積極派はおよそ八割を占める。だが、注目すべきは集団的自衛権の行使に関しては慎重意見が多いことだ。自衛隊のイラク派遣一年延長に象徴される米国追随で、日本が武力行使に巻き込まれる恐れはぬぐえない。世論はこれに抵抗感を示していると見るべきである。
 戦後六十年は被爆六十年でもある。唯一の被爆国として日本は国際社会に核廃絶をいっそう声高に訴える年にしたい。
 北朝鮮やイランの核開発問題、韓国の未申告核関連実験で、核拡散防止条約(NPT)体制は揺らいでいる。昨年は「核の闇市場」があぶり出され、核拡散が予想以上に進んでいる実態があらわになった。不気味に進む核の拡散を、何としても食い止めねばならない。
 日本は国連安保理の常任理事国入りを目指しているが、米国の「追随票」ではあまりにもふがいない。核保有国のなかに被爆国が加わる意味こそ大きいと心得るべきである。
 被爆し、おびただしい人命を失った先の大戦の反省から、日本は「非戦」を誓った。平和の尊さを忘れ「戦前」に逆戻りする愚は犯すべきでない。

 

2005年1月1日 高知新聞

【あすの地域像(1)新高知市】山と水でさらに多様に

 2005年が明けた。

 「平成の大合併」の進行で、新しい年とともに13市8町が産声を上げた。土佐郡土佐山村、鏡村と合併して誕生した新高知市もその一角を占める。

 鏡川という一水系がすっぽりと収まる全国的にも珍しい事例だ。海に面し、河川に恵まれた県都に、中山間の魅力が加わる。人口減の本県にあって、高知市のウエートは大きいだけに、どんな広域行政を展開するかに期待が高まる。

 しかし、目を他の市町村に転じると、合併協議は破たんや仕切り直しが相次ぎ、スムーズに進んだ例は数えるほどしかない。

 過疎化、高齢化に最近の財政難が加わり、市町村は将来の姿をどう描くかでもがいている。雇用や安全の確保も重要な課題だ。

 各地の実情を踏まえながら、明日の地域像をシリーズで考える。

 環境を軸に

 「高知のよいのは鏡川と浦戸湾と、それに映る周囲の山々の緑であろう。それが過去の思い出とならないために、緑の美しさを守ることが一番必要ではないだろうか」

 高知市長だった坂本昭さんが、1969年に書いた「風格のある都市」と題するエッセーの一節だ。

 周囲の山々の緑には、鏡川上流域に位置する土佐山村、鏡村の光景が念頭にあったのかもしれない。しかし、その二つの村が高知市の仲間に入ることまで想像しただろうか。

 合併で増える人口は3000人程度でも、新高知市は多様性に磨きをかけることができる。

 2倍近くに広がった市域は、市街地、平野部、中山間の顔を持ち、鏡川に沿うと川上であり、川下でもある。これに浦戸湾、太平洋が加わる。県庁所在地では類例のない多彩さかもしれない。

 新しい県都は、多様性をどうつなぎ合わせようとしているのか。岡崎誠也市長は、鍵を握る言葉として「環境軸」を挙げる。

 「山を守ることは鏡川を守ることになり、鏡川を守ることは浦戸湾を守ることになる。その逆だと浦戸湾は死ぬ。そんな環境時代の視点に立って、これまで市政になかった森林政策、中山間対策を進めたい」

 新高知市に対する旧村民の思いは喜び一色ではない。小さいながらも独立性のあった自治体から県都の一地区になる。個性、伝統が失われ、のみ込まれる不安がつきまとう。

 旧土佐山村は1960年代、高知市との合併を希望しながら反古(ほご)にされたことがある。

 その悔しさを土佐山村史は「(高知市が)土佐山村民の願いに、どれだけ耳を傾けたかは定かでないが、結果的にみて冷淡だったのは確かだった」と振り返る。

 こんな経緯があるだけに、合併のキーワード「交流・連携・共生」が持つ意味は大きい。

 住民主体で

 古代ギリシャの哲学者プラトンは、都市国家の理想人口を5000人余りとした。雄弁家が演説するのに適した人数から算出したという。その後、さまざまな理想人口論が出ているが、その規模を左右するのは理想とする地域像だ。

 国土が狭く、交通・通信網が発達した日本では、住民1人当たりの行政コストは人口10万人から30万人規模が最も効率的という試算がある。この効率論に当てはまると、新高知市は理にかなった面がある。

 逆に言えば、高知市に次ぐ都市は人口5万人の南国市という本県にあっては、単純な効率論に基づく合併協議は容易でない。

 それに代わる合併理念はあるのか。あるとすれば何に求めるのか。その作業の難しさが、住民を戸惑わせ、合併協議の破たん、やり直しにつながっている。

 「昭和の大合併」と異なるのは、多くの市町村が人口の自然減に直面していることだ。社会保障の仕事が増えた一方で、国による財政的な締め付けが強まっている。

 厳しい状況下で、いかにして住民主体の自治像、地域像を描くか。橋本大二郎知事のいう「住民力」が問われている。

 

2005年1月1日 佐賀新聞

戦後六十年 三本マスト≠フ再構築を

 今年は戦後六十年。戦後生まれが人口の七割を超え、いよいよ「昭和」が遠くなる。われわれは敗戦のその日を起点として時代や歴史を振り返ることが多いが、今年もこの節目の年に、その原点に戻ってみよう。そこからきっと次代の光明が見えてくるはずだ。
 二〇〇五年が始まった。戦後六十年、人間なら「還暦」だ。次のステージを展望する節目の時である。
 一九四五年。日本は戦災で壊滅的な状態にあった。記録によると「都市住宅の三分の一を消失し、日本全体では工場設備や建物、家具・家財など実物資産の四分の一を失った」(経済安定本部「太平洋戦争によるわが国の被害総合報告書」一九四九年)。
 食料不足も深刻な状況に陥り、多くの国民が飢えにあえいだ。「エンゲル係数は戦前の32・5%から67・8%に急上昇」(「基本日本経済統計」一九五九年)という。
 しかし、復興は急速だった。戦後経済が安定的な成長軌道を歩み始めたとして、経済白書が「もはや戦後ではない」とうたい、それが流行語になったのは敗戦からわずか十年後のことである。世界が「奇跡の成長」と驚いたように日本は素早い戦後復興と目を見張るような高度経済成長を成し遂げたのである。
 戦後日本の「三本柱」といわれるものがある。敗戦を経験した国民が心を一つにして国づくりにまい進し、あっという間に世界の先進国の仲間入りをし有数の経済大国になった、その原動力ともいうべきものだが、一番目に挙げられるのは「教育」だという。
 現在でも世界に目を向ければ貧困と飢餓で学校に行けないような子どもたちがいっぱいいるのだが、日本は国づくりの真ん中に国民の基礎教育の充実を置いた。子どもたちは誰でも平等に教育を受け、みんながしっかりと学んだ。これが新しい国づくりの原動力となっていったのである。
 二番目は志の高い優秀な官僚がいたということ。国の針路をしっかり見据えた官僚たちが途方に暮れている国民を引っ張っていったのだ。そして三番目には「日本人はみんな勤勉であった」ということ。苦境の中でみんな「こつこつまじめに一生懸命」に頑張ったのである。
 この「教育」「官僚」「勤勉」が日本をつくり、日本を支えてきた三本マストだったが、六十年を経て今、それがみんな折れてしまおうとしている。
 教育の荒廃は深刻である。性モラルの欠如や規範意識の低下。長年、世界トップレベルといわれた子どもたちの学力にも陰りが見えてきた。日本が世界に誇った教育の立て直しは急務だろう。
 公金意識に欠けた社会保険庁の許し難い所業に見られるように近年の官僚の体たらくは目を覆うばかりである。もちろんすべてではないが、公務員の不祥事が後を絶たない。すべての国民に奉仕をする公僕≠フ原点に今一度立ち戻ってもらいたい。
 公務員だけでなく企業モラルの低下も問われている。偽装表示やリコール隠しに見られるように創業の精神を忘れ、過去にあぐらをかいて時流を読み誤る企業がどれだけあったか。
 豊かさに慣れ、勤勉さを忘れ、いつの間にか私たちの心の中には「金さえあれば…」という拝金主義が巣くうようになった。その果てに訪れたバブルの崩壊。今なお傷跡は癒えないでいるが、この節目の年に、その反省の上に立ち、日本が世界に誇った戦後の三本マスト≠再び立て直すことに着手しよう。

 

2005年1月1日 熊本日日新聞

  社説 「還暦」の知恵を発揮する時

 新年明けまして、おめでとうございます。

    ◇       ◇

 戦後六十年。人で言うなら、円熟味に一段と磨きがかかる還暦に当たる。見識に裏付けられた「大人の知恵」が、随所に発揮されてしかるべき社会というわけだ。確かに情報量も格段に増え、ものを見る目は肥えてきた。昔なら知らずに済んだことでも、気づいたり口にしたりするようになった。それはそれで発達や成熟の証しではある。

 ただ、その一方で不安定感が付きまとう。なんとなく、ぎすぎすした感じである。安心や寛容といった気持ちをほっとさせる言葉をあまり聞かなくなった。人をだましたり、命を粗末に扱ったりする事件も少なくない。社会の変化をじっくり吟味する時間がないまま、次から次に考えなければならないことが飛び出してくる。ぎすぎすした感じは、そのテンポに追いつけない焦りやもどかしさとも無縁ではないだろう。六十年という年数に格別の意味があるわけではないが、物事には節目が必要だ。一区切りをつけ、これまでを振り返る。そして、足りないところを上手に繕う。節目には、そんな作業が求められる。

 ●解決策から新局面へ

 先日、前水俣市長の吉井正澄さん(73)を同市古里の自宅に訪ねた。市長を二期務めた吉井さんはいま、一つを除き職から離れている。その一つとは、水俣病胎児性患者らが集う授産施設の理事だ。母胎内で水銀汚染を受け、障害を抱えて生まれてきた胎児性患者は、すでに四十―五十歳代になる。「生まれてきてよかったと思ってもらうために私たちに何ができるか、これが私の残された仕事です」と吉井さんは語る。

 水俣病問題は、昨年十月の最高裁判決を機に大きく動き出した。水俣病関西訴訟で、被害拡大について行政に責任ありと断じられたからだ。被害が公式に認められてから来年で丸五十年になるが、これまでとは違う新たな局面と言えるだろう。特に、責任が確定した行政にとっては、あらためて正面から向き合わざるを得なくなった。

 吉井さんが市長時代にかかわったのが一九九五年の「政治決着」である。政府解決策の名目で、療養費の支給などが実現、併せて裁判や認定申請の取り下げも進められ、「紛争状態の解消」が図られた。ただ、救済の対象者が患者として位置付けられなかったこともあり、関西訴訟は継続され、先の判決をもたらした。

 「不満が残る解決策ではありました。患者としては認めない、支給される額は裁判で示された額の五分の一という人もいました」。そう言う吉井さんが救われたのは、和解を受け入れた人の言葉だったという。

 「額は少なかったが、ほっとした。近所の人たちとも普通に話すことができるようになりました。平和が一番です―。この言葉を聞いて、間違いはなかったと感じました」。内容は不十分だが、水俣病問題の解決というテーマを市民で共有する基盤ができたのではないか、と吉井さんは振り返る。この素地が和解後の「もやい直し運動」「環境モデル都市づくり」につながっていく。

 時には、理屈や法律が及ばない選択もあるだろう。吉井さんの言葉を借りれば「相対的に考えて、どれが一番いい方法なのかを判断すること」になる。水俣病という、それこそ世界に類を見ない事件に見舞われ、地域社会がずたずたにされた経験からの知恵でもある。

 図らずも引き離された地域の人間関係を、もう一度つなぎ合う(もやう)ことはできないか、そんな思いから始まったもやい直しは、解決策の不十分なところを補う意識改革の運動だという。「被害者の支援グループをはじめ、水俣にはさまざまな立場の人たちがやって来た。一つにまとまることの難しさもあった。ただ、それだけ意見が多いということだから、その中から選べばいいと思った」。市長として、公式の場で初めて被害者に謝罪した吉井さんの率直な感想だ。

 九五年の政治決着の評価は難しい。とりわけ、行政責任が確定した現段階では前提条件に決定的な違いがある。いずれにせよ、今年は本県最大の懸案事項と言われ続けてきた水俣病問題に国、県が本腰を入れる番だ。「国は理屈にこだわらず、メンツも捨て、地域と一緒になっていい方法を見つける姿勢を示すこと」(吉井さん)。その通りだと思う。

 ●試される地域の力

 いま、地域・地方が自立を試されている。今回は、市町村合併、三位一体改革が直接の契機だが、戦後税制の根幹になった一九四九年のシャウプ勧告で地方自治体の自立が促され、すでに半世紀が過ぎた。さらに、分権の理念を初めて法制化した地方分権推進法の成立(九五年)からも今年で十年になろうとする。

 しかし、昨今の流れを見ていると、中央集権的な行政システムは変わらないばかりか、その制度疲労が地方に押しつけられている感がある。従って、目に映るのは中央と地方の対立という残念な光景だ。

 はっきり言って、目標が共有できていない。分権、自立のめざすべき姿が隅に押しやられたまま、「お金の勘定」だけが突出している。従来の分権論議で財政問題が棚上げされてきた経緯はあるにしても、このままでは小泉純一郎首相が繰り返す「地方にできることは地方に」のキャッチフレーズが、空虚に響くばかりだ。

 その象徴が、地方交付税問題である。この制度は、地方行政の運営が円滑に進むよう国税の一部を一定割合で地方に移転するものだ。国の補助金削減、地方への税源移譲と並び三位一体改革の柱でもあるが、厳しい国の財政状況から、いま削減・縮小の憂き目に合っている。

 交付税は補助金と違い、地方固有の財源だ。しかも、補助金が削減され、それに見合う税源の移譲もおぼつかない現状では、財源不足に悩む地方の交付税依存は強まる流れにある。そういった地方の実情が、どこまで国に理解できているのだろうか。本紙が昨年十月に連載した「功罪・地方交付税制度」でも、国の減額方針に戸惑う県内自治体の悲鳴が聞かれた。

 交付税の使い道に最終責任を負うのは自治体である。国の関与を薄める制度にしていく一方で、活用する側―地方の実力を高めることが肝要だ。合併も一つの選択肢であるのは間違いないが、合併するしないにかかわらず、どんな地域にしたいか、この論議に精力を注ぎたい。生活スタイルや価値観の多様化で、個々人のイメージに違いはあるだろうが、それを持ち寄らないことには話は前に進まない。

 今年は憲法改正論議が待ったなしだ。わが国の安全保障のあり方に深くかかわる九条問題が最大の焦点になるのは当然なのだが、地方分権も論議の大きな柱になる。そこでは、道州制を含めた地方自治の形態・運営、国と地方の役割分担、課税や立法の在り方などが主要な論点になってくるだろう。

 行政システムの改編にとどめず、身の回りを見つめ直すいい機会にしたい。水俣病問題を抱えた水俣のように、各地域にはそれぞれ課題がある。そして、これまで蓄積された知恵や経験もあるはず。それを生活の現場で共有できればいいと実感している。

 

2005年1月1日 宮崎日日新聞

戦後60年 十字路に立つ 真の主権を今こそ

 二〇〇五年を迎えた。今年は戦後六十年にあたる。人間でいえば還暦だ。命ながらえたことをすべてに感謝し、これから先に待ち受けているであろう人生の峠を越える覚悟と決意の年齢だといえる。

 一九四五年の敗戦から六十年―。現実の日本というこの国では、もはや「戦後六十年は定年だ」とばかりに戦後見直しの動きが誰の目にもはっきり分かるようになってきた。小泉純一郎首相が登場してからこの三年九カ月で、自衛隊の海外派遣から有事法制化まで進んだ。十一月には自民党の新憲法草案が出てくる。

 国民保護法に基づく国民保護基本指針が三月に決定され、四月以降には日本有事を想定した初の住民避難訓練が実施される。アジアからも「戦争」を想定した訓練と思われるだろう。

 この国の仕組みが変えられるのと軌を一にしているのが平成の大合併だ。本県はどうなるのか。合併特例法の優遇措置期限切れの三月には新たな姿がはっきりする。合併にしろ、自立にしろ、いずれの道のりも平たんではない。

 だが、この宮崎にも戦後六十年がある。先人たちの地域の思想と行動を受け継いできた歴史がある。私たちはこのことを確認し合いながら、地方分権という真の主権を取り戻す作業に取り掛かろう。地域が自信と誇りを持ち、そこに暮らす人々が生きていることの喜びを実感できる―そんな「ふるさと宮崎」にしていく決意を今年は静かに固めるときだ。

戦後宮崎の原点が紙面に

 ここに敗戦から一年後の一九四六(昭和二十一)年八月十五日付の宮崎日日新聞(当時は日向日日新聞)の社説がある。

 「太平洋戦争は聖戦ではなかった。それはアジア民族を奴隷にするための戦争であり、他国を侵略すると同時に自国民をも奴隷にする戦争であり、人類と文明に対する破壊戦であった」

 「日本の人民は大本営の嘘から解放され、戦争に駆り立てた軍、官、財閥から解放され、縛られてきた悪法律から解放された。軍国主義日本が世界民主主義に徹底的に敗れたというのが日本敗戦の真の意味であった」(現代仮名遣いに書き換え)

 この時期、現在の日本国憲法は草案段階に入っており、衆院の可決、貴族院の可決を経たあと、十一月三日に発布された。四日付には宮崎市での発布記念式典、延岡市での発布を祝う二千人の仮装行列などから県内の各層代表者の喜びまでが紙面に広がっている。都市部ではまだまだ食料も十分でない時代だった。新しい時代にかける県民の期待が伝わってくる。確かに、ここには戦後宮崎の原点があった。

 私たちは自分の息子や娘、孫がどういう時代を生きていくのかという想像をたくましくしていかなければならない。

地域を継ぐ新感覚の若者

 そのモノクロ肖像写真は新鮮だった。どの写真からも、山里に根付いた若者の姿にイメージが膨らんだ。宮崎市の宮日会館で昨年十二月中旬に展示された「西米良発・若者図鑑」のこと。撮影者は同村在住のプロカメラマン小河孝浩さん(43)だ。東京から四年前にUターン。写真店を営む傍ら若者の肖像写真を撮り続けている。今回の展示は四十一点四十五人だった。

 「帰ってきたかいがある。彼らの中に脈打つ西米良の精神というか、伝統に触れることができた。これからも撮り続けたい」

 展示期間中、若者たちの神楽も、民話の語りもあった。同村の郷土史家中武雅周さん(84)はそんな若者の姿を頼もしく思い、厳しい時代を乗り切ってほしいとの気持ちを歌に託した。

 山里の厳しい未来身に受けて若者の顔輝きて おり

 同村の人口は千三百四十人。県内で最も少ない。年々、ワーキングホリデー、温泉「ゆた〜と」などの村おこしが盛んだ。将来の人口予測では他市町村が減少するのに、同村は二五年に二千五百人になる。若者たちが自信を持つことがいかに、村民を奮い立たせることか。

 同村は幕末の時代、郷士たちが二回にわたって勤皇の志士として京都に上っていった歴史を持っている。最後の領主だった菊池武夫公の遺徳をしのぶ菊池祭が一九五六年から毎年続いている。剣道も盛ん。昨年の青年団全国大会は団体でベスト8。戦後も一貫して地域の伝統が息づいてきた。いままた、インターネットを駆使する新感覚の若者たちが高齢者とも結び付き、新しい地域共同体が生まれてきている。 

 在野の哲学者である山内節さんは「むらが歴史をつくる時代の予感」をこう書いている。

 「歴史的に振り返ると、日本の社会全体の変革は農村における新しい層の台頭から始まっている。その人たちの動きが結果として社会全体を変えていくというのが過去の日本の歴史だった」(自然と人間を結ぶ、農文協) 

 急峻な山に囲まれた西米良村。だが、この空間が情報技術(IT)でいとも簡単に日本中、世界中とつながる時代だ。本物の情報を地域に取り込んでいけば、山間地だからといって卑屈になる必要はない。いつの時代も自ら時機をつくるのは若者たちだ。

 平成の大合併も、戦後すぐの昭和大合併が住民の暮らしの上でどうだったのかという視点を抜きには考えられない。昨年、合併が決まったのは宮崎市と佐土原町だけだった。三月までにはそれぞれの自治体が決断を迫られる。各法定協議会での審議では財政問題が大きなウエートを占めていた。優遇措置という“アメ”がなくなったあとの長期の財政見通しはどうなのか。住民と一緒に協働しながらきめ細かにどんな地域をつくっていくのかという議論が深まったのか。実はここが一番大事なことなのだ。

合併判断は最終的に住民

 合併問題を最終的に決めるのはあくまで地域住民の意向だ。アンケートの結果尊重も一つの方法だが、住民投票の方がより「個人秘密の保持」が保証されることは確か。その意味では投票判断の清武町、これから投票実施の北浦、田野町は地方自治法にかなった対応である。

 いま、安藤忠恕県政に求められるのは生活者感覚だ。市町村は住民と身近なため、住民の目を意識せざるを得ないが、県政にはこれが足りないのではないか。お上である国の方を戦後ずっと向いてきいるが、納税者の方を向いた行政システムをつくるべきだ。安藤知事の言う「県民主役」に期待したい。

 戦後六十年―。いま時代の十字路に差し掛かっている。構造改革、少子化、食料、環境、自然災害…。戦後の日本は「還暦」とはいえ、まだひと山、ふた山越えていかなければならい。

 私たちは暮らしの中に残るそれぞれの戦後の原点を紡ぐ努力をしながら、この時代を見据えていけば希望の明日がきっと見えてくる。

 

2005年1月1日 南日本新聞

【戦後還暦】歴史の逆回転を恐れる

 2005年は敗戦の年の1945(昭和20)年から60周年にあたる。ならば、ことしは「戦後還暦」である。

 60年は明治、大正を合わせた期間に匹敵する。その明治、大正の60年が「還暦」で迎えたのは「昭和」という時代であり、悲惨な戦争と破滅への序幕だった。

 なら、戦後還暦はどんな「次の60年」を迎えるのか。

 冷戦は終結したものの、米ソの二極対立で制御されていた限定戦争や地域紛争に歯止めがかからず、世界各地で民族紛争や宗教紛争が頻発している。

 唯一の超大国となった米国は予防を理由に先制攻撃をためらわない。あげく、イラクで迷路に迷い込んでしまった。追随した日本もまた迷路に踏み込み、もがいている。

 忌まわしい歴史の反復を許したらいけない。戦後を、次の戦争までの「間」にしてはならない。還暦とは未来を開く創造の機会である。私たちはそのための努力を惜しむべきでない。

 国際協調すり替え

 戦後、日本人は焼け跡から立ち上がり、刻苦勉励した。その努力は、世界がうらやむほどの経済の高度成長と高福祉社会の実現によって報われた。

 戦後の復興と成長を支えたものが、もう一つあった。戦争の放棄をうたう日本国憲法と日米安保体制である。

 憲法九条の平和主義は、戦前の日本がほぼ10年周期で戦争や紛争を体験してきたのに対して60年間、自ら戦争を起こすことを抑えた。日米安保は民生への重点投資を可能にした。

 「押しつけ憲法」という指摘は当たっている。しかし、日本人は悲惨な戦争、軍部の専横、貧困、飢餓といった経験の裏返しとして憲法を受け入れた。九条の精神は国民のコンセンサスと考えておかしくない。

 一方で九条の空洞化も目に見えて進んでいる。それも改憲に先行する形で進んでいる。

 理性が力の論理の前に力を失っている。民主主義の名の下にまかり通った米国の攻撃で無秩序と混乱がイラクを覆い、テロが再生産された。世界はおぞましい光景をいつまで見続けることになるのだろうか。

 安保条約の下、対米軍事協力が進み、アフガニスタン、イラクへの自衛隊派遣が実現した。それも後方支援ではなく、常識的に戦闘参加を覚悟しなければならない事実上の戦闘地域への派兵がイラクで現実のものになった。九条はいまや、海外派兵の抑止力を持っていない。

 平和主義を骨抜きにしないためのシビリアンコントロールも無実化しつつある。

 元防衛庁長官が現職の自衛隊幹部に改憲草案のたたき台を依頼していた。軍の暴走を抑えるべき政治が、国際協力という大義名分のもとで軍以上に先走っていいはずがない。

 憲法は不磨の大典ではない。見直すべきは見直すべきだ。ただ、対米追随のための改憲には異を唱える。国際協調と対米協調をすり替えたらいけない。

 限界の米国一辺倒

 戦後の60年間、日本は米国との同盟関係をよりどころにした。復興も高度成長も米国に大方を依存することで可能になった。しかし、米国一辺倒は転換点にさしかかっている。

 日本が積み上げたイスラム社会、特にアラブ諸国の信頼はイラクへの自衛隊派遣で大きく損なわれた。日本の財産だった中立性は色あせた。対米協調は大事だが、アジアをはじめとする国際協調とのバランスを欠くとあぶはち取らずになる。

 経済面でみても、全体の50%近くを占めていた対米貿易に中国をはじめとするアジア貿易がこのところ肉薄している。とりわけ、世界の工場といわれる中国の存在は極めて大きい。

 一方、冷戦は終結したが、アジアは南北朝鮮の分断、台湾問題といった冷戦状況をなおひきずっている。北朝鮮脅威論が日米軍事同盟を強化しているのは明白で、台湾問題が中国への警戒感の一因になっている。

 言い換えれば、アジアの安定なくして日本の安全はあり得ないということだ。そのためには南北朝鮮の平和統一、台湾問題の解決を急ぐことだ。

 新たな60年で取り組みたいのは、日中韓を軸にしたアジア共同体の構築である。そのためには、日中がまず、わだかまりを解消しなければならない。

 小泉純一郎首相の靖国神社参拝が日中に亀裂を生み、中国での「抗日」の動きが日本での中国への反発を呼んでいる。

 いがみ合いをなくすには政府の力だけでは限界がある。むしろ民間の草の根交流が威力を発揮する。だが、双方の政府は協調の在り方を含めて明確な将来像を描ききれない。

 戦後60年。私たちは復興、繁栄、そしてバブルの崩壊とあらゆる経験をした。おごり、失意もあった。そのなかから多くのことを学んだ。

 少子高齢化、財政赤字、景気の低迷と私たちの前には多くの難問が横たわる。そんななか、忘れかけていた苦境にめげない頑張り、謙虚さや勤勉さを取り戻しつつある。

 発展を続ける中国をはじめアジア諸国が、環境汚染など日本の轍(てつ)を踏まぬように諭す知識と経験も持っている。

 歴史の歯車を逆回転させてはならない。過去に学び、将来を導き出さなければならない。

 

2005年1月1日 沖縄タイムス

[戦後60年] 自治の創造へ 沖縄「再出発」の論議を

単独の道州を目指す

 私たちの戦後史は、沖縄戦の体験を原点に、米軍政下での基地のない平和な島を求めた祖国復帰運動、その延長として自立を目指す現在―と大きくとらえることができよう。

 国家に翻弄された歴史、とも言える戦後史において、県民は自らの進路を自ら決めたいという「自己決定」への強い希求があった。

 そのことを制度的な言葉に代えると「自治」ということになるだろう。

 ことしは戦後六十年。

 自治の確立を目指す上で重要な節目を迎えている。

 「沖縄が潰れる」

 こんな刺激的なキャッチコピーのついたシンポジウムが昨年十月、那覇市内で開かれた。

 自治や憲法、安全保障などの研究者と行政職員でつくる沖縄自治研究会が主催した。「沖縄の新たな自治を提案する」がタイトルだった。

 政府の地方制度調査会は、二〇〇六年度二月までに道州制を検討し、導入へと動く方向にある。

 市町村合併に続き、県を「合併」し全国を八から十にまとめようとするものだ。

 国、地方合わせて九百兆円といわれる借金を抱え、財政改革を主目的に経済的に自立できる範囲の道州制が目指されている。

 経済規模からも国への依存度からしても沖縄県は、「本土の他州に編入されるか、国の直轄地になる」(島袋純琉球大学助教授)。

 シンポジウムはその危機感を背景に、沖縄単独の新しい自治体・州を目指すものだった。

 三つのモデルが「たたき台」として提案された。

 現在の制度の枠組みの中で情報公開や住民参加を促す「自治基本条例」の制定、憲法が認める地方自治体特別法を利用した「沖縄自治州基本法」、憲法を改正し政府と連邦を組む。

 平和的生存権や環境権を含め基地問題の解決に重点を置くほど、政府との対等な関係を目指さざるをえない。

 論議ははじまったばかりだ。一方で、三位一体改革、市町村合併、道州制―地方の改革が政府の音頭で加速しはじめている。

受け継ぐ復帰時の思い

 主席公選の実現など米軍政下での「自治の確立」は、復帰運動の主要な目標であった。

 一九七一年十一月十七日、衆院沖縄返還協定特別委員会は同協定や関連付属文書を強行採決した。上京した屋良朝苗主席の手にあった「復帰措置に関する建議書」は審議されることもなく「幻の建議書」となった。

 自治・反戦平和・基本的人権・県民本位の経済開発―の四つを柱にした県づくり案であった。

 忘れてはならないことは、沖縄の自治と表裏をなす形で「日本を変える」という強い思いもあった点だ。

 本紙社説が「復帰に求めるもの」として「憲法に規定された非戦の論理を、沖縄が帰る機会に、国の進路として再点検すること」(七一年十一月二十五日)と記したように、憲法の平和主義の実現を祖国に求めた。

 復帰時の願望は実現しなかった。ゆえにその流れは八〇年代の自治労県本の「沖縄特別県政構想」や、九〇年代半ばの大田県政の「国際都市形成構想」へと受け継がれてきたといえる。

 道州制の論議は、戦後六十年を振り返るなかから「新しい沖縄像」を描く作業と位置づけたい。

「国頼み」は続かない

 年末の〇五年度政府予算で、沖縄関係は「沖縄振興特別交付金」と「高率交付制度」を新たにつくることで、三位一体改革の補助金削減に伴う高率補助の減少分を補う見通しがついた。

 諸井虔・地方制度調査会会長は昨年十一月、本紙のインタビューに「沖縄は特別扱いしないといけないだろう。沖縄なりの生き方を考えていくのがいい」と単独の道州制に理解を示した。

 同時に「国頼みを続けても、今後の展望は開けない」と依存体質からの脱却を促した。

 道州制の中で、現在の沖縄振興開発計画に基づく特別措置を継続するかどうか、という論議は避けて通れない。

 復帰後の三十年余、私たちは財政的に国への依存を強めてきた。自立へ「再出発」の論議をはじめたい。

 

2005年1月1日 琉球新報

   戦後60年へ・試される「平和」と「自由」
   県民の声再び 強く発信を

 戦後六十年を刻む二〇〇五年の新年を迎えた。昨年を振り返れば、改革の痛みだけしか実感がなく、この国の未来に明るい展望が待ち受けていることに、自信が持てない一年でもあった。それだけに、今後の一年には強い期待がある。

 だが、新しい年に一歩を踏み出す前に、われわれ一人ひとりに新たな決意が求められている。その決意なくして、この国をわれわれの期待する国家へと築けないものと信じる。それは国民一人ひとりが参加し、この国をつくるという決意だ。自らと国の間に一線を画していては実現できない。

「大本営発表」の視察

 日本国民は六十年前、あの戦争の体験を通し、多くの教訓を学んだ。残念ながら歳月と経済の復興・発展が、教訓を忘れさせた。

 一昨年末、イラクに自衛隊を派遣した。戦後初めての「海外派兵」だ。国会で十分な議論もなく、国民への説明もないままに―。昨年末も、論議も説明も不十分なまま派遣は延長された。各種世論調査で、自衛隊の派遣、そして延長に国民の多くが反対しているのに、民意と異なる結論が出る。

 だが、国民の怒りが表面に強く出ることはない。「自衛隊がいるから非戦闘地域」という小泉純一郎首相の乱暴な論理にも寛容だ。

 派遣延長を決める際、大野功統防衛庁長官や、与党の武部勤自民党幹事長、冬柴鉄三公明党幹事長がイラク現地を視察した。帰国後、大野長官の「治安は安定、隊員の安全は確保されている」との発言は、わずか五時間半の滞在で得た結論だ。与党両幹事長も、わずか六時間の滞在にすぎない。

 しかも、この視察に記者の同行は許されなかった。それは、現地が「安全でない」ことにほかならない。視察を伝えるニュースは、自衛隊が撮影した。国民の判断が求められる現地のようすを、マスコミの目で取材することは認められなかった。もはや「大本営発表」に似てきている。

 しかし、こういう手続きで重要な事案が決定されようとも、多くの国民の怒りが外には表れず、内にこもったままだ。「危険な状況」とは映らないのだろうか。

 六十年前に多くの日本人が誓った決意が、もう忘れられた。流れにあらがうことなく安易に流された結果、大きな不幸を招いたとの六十年前の国民の反省が継承されず、いつの間にか寸断された。

 国家の暴走を止めるには、国民が声を発するしかない。だから、国民の声を政治に反映させるための選挙が重要だ。その選挙に、民主主義国家として再生した日本の国民として責任を感じたはずだ。

 しかし、その責任に対する自覚が希薄だ。戦後、60%―70%台の推移した投票率が、九〇年代後半には50%台になった。

大人の国民目指して

 政治的関心が高かった本県も例外でなく、昨年の参院選で、54・24%と全県規模選挙として過去最低を記録した。もう、「政治不信」「政治離れ」が棄権の理由となる時代でないことを認識する必要がある。

 時代は「大人としての国民」を要求している。政治に限らず、われわれを取り巻く環境は、自らの行動によってしか変化しない時代になっている。黙っていて与えられるものでなく、国民、県民一人ひとりが自らの手でつくり上げることが求められている。

 その最たるものが今、地方を直撃している三位一体改革だ。しかし、その先には地方分権の時代がある。補助金削減、地方交付税抑制と三位一体改革の痛みが、自治体を襲っているが、地方の時代に向けての準備を怠れば、痛みだけを味わう結果にしかならない。住民が参加し、共に考え、共につくり上げてこそ、地方分権の時代は享受できるはずだ。

 改革の痛みの向こうにある分権時代は、国・中央と地方の関係が対等になることを意味する。新しい時代を開くいい機会だ。

 戦後六十年―沖縄県民の役割は大きい。しかしながら、県民が戦後一貫して発信し続けた「反戦・平和」の声が、心なしか弱々しく響くことを懸念する。

 われわれには戦争の悲惨さと、軍隊・基地の存在する愚かさを伝える義務がある。それは歴史から沖縄県民に課された重大な使命だ。そのことを、県民は強く肝に銘じる必要がある。

 真の「平和」と「自由」の在り方が今年は試される。

 

2005年1月1日 富山新聞

戦後60年@地方分権 地方から新しい国のかたちを

 戦後六十年の節目となる新たな年が明けた。記念すべき年の初めに、戦後のさまざまな 惰性や呪縛(じゅばく)を引きずる政治、行政、文化、経済など各方面の課題を掘り下げ、あすの地域づくり、国づくりを展望する社説を五回シリーズで掲載する。

       ◇

 平成の市町村合併は、いよいよ終盤を迎え、新しい「富山のかたち」が見えてきた。市 町村合併とは、地方分権の受け皿を強化し、地域の自立力を高めるための手段といえる。分権の要(かなめ)は国から地方への税源移譲であり、それを目指す国・地方財政の三位一体改革が動き始めた。しかし、内容はまだまだ不十分で、税源移譲を伴う本当の意味の地方分権は緒に就いたばかりである。

 地方分権に立ちはだかる中央集権の岩盤はまことに強固で、崩すのは容易ではない。政 治は、情熱と判断力を駆使して「堅い板にじわっと穴を開ける作業」にたとえられるが、地方分権の作業もこれによく似ている。地方分権とはいわば、日本再生に必要な国のモデルチェンジであり、自治体はまさに「地方から国を変える」、「地方から新しい国のかたちをつくる」という気概をもって、分権を前進させなければならない。

 地方にとって、平成の市町村合併は、明治維新後および戦後の合併に続く一大改革であ るが、地方分権の推進が強く意識されている点で先の合併とは決定的に違う。

 明治の合併は、日本が中央集権の近代国家として生まれ変わるための基礎づくりであり 、憲法で地方自治が保障された戦後の合併にしても、中央集権の強化をもたらした。中央主導下の地方行政は「甘えの体質」とか「陳情行政」などと揶揄(やゆ)され、中央頼みが惰性となった感がある。

 しかし、それは自治体の怠慢のせいというより、中央政府に頼らなければ生きていけな い仕組みになっていたからである。地方分権とは、そうした仕組みを変えることにほかならない。

 あらためて言うまでもなく、中央が地方を支配する道具の最たるものは補助金と地方交 付税である。それをもらわなければ自治体経営がなり立たない制度は、昨年末に示された三位一体改革の全体像で、ともかく風穴が開けられた。当面の目標額には届かなかったが税源移譲を一部実現させ、地方分権確立へわずかに前進したといえる。

 むろん不満も多い。既得権益を守る官僚の抵抗のすごさ、補助金分配をめぐる政官の結 び付きの強さもあらためて思い知らされた。象徴的だったのは義務教育費国庫負担金で、地方六団体の改革案に見合う削減額は決まったものの、具体的な中身は〇五年度に先送りされた。

 義務教育費に関して、あらためて付言すれば、基本方針や大枠づくりに国が関与すると しても、学級編成や教員の配置、給与などは地方の才覚に委ね、地域の実情に合った特色ある教育を行えるようにするべきである。

 また、全体像で削減が決まった補助金の大部分は義務教育費と国民健康保険で占められ 、地方側が不要といった百四十以上の補助金の大半は手付かずである。地方の自由度は思うほど拡大していないのだ。地方交付税にしても、もともとは自治体の固有財源であることが忘れられがちである。増減に一喜一憂するのではなく、自前の財源として取り戻すことこそ重要なのである。

 中央への働きかけだけでなく、自治体自身の内なる改革努力も求められる。今回の三位 一体改革は小泉改革の一つとして出されたもので、地方の側から出たわけではない。補助金削減の地方案にしても、小泉首相の要請で取りまとめたものである。

 地方の自主性・自立性を高めるために税源移譲が不可欠なことは自治体も重々承知のは ずだ。にもかかわらず、地方の側から具体的な改革を求める声が積極的に上がらなかったのは、官僚と政治家による補助金支配の構図を変えることはできまいという一種の呪縛や、中央依存の習い性のせいではあるまいか。地方分権を獲得するには、そうした目に見えぬ縛りを解かねばなるまい。

 地方分権とは、天から降ってくるものでもなければ、地から湧(わ)いてくるものでも ない。自治体が自主の精神に基づく改革のエネルギーを持続させて、はじめて手に入れることができると認識したい。

 

2004年12月31日 東亜日報日本語版

[社説]希望を復元しよう

乙酉年の新年が明けた。光復(クァンボク)60周年でもあり通常とは違って感慨に浸ることもできるが、心は重い。昨年一年間は「経験し得る葛藤を一度に全て経験した」という言葉が出るほど、反目と分裂が繰り返された。その傷と不協和音から立ち上がって、再び一つになれるのか心配だ。葛藤は、発展のための痛みであるというが、このように引き裂かれた状況で簡単に希望を語れるだろうか。

だからと言って立ちすくんでいてはいられない。紆余曲折はあったが、それでもここまで来た。戦後半世紀が経って産業化と民主化を同時に成し遂げた国は、韓国がほぼ唯一である。分断と戦争の悲劇の中でも貧困と独裁を排除した。その底力を再び活かさなければならない。飢えだけを避けようと奮い立ったわけではない。韓半島を飛び出して韓国も一度ぐらいはアジアと世界の主役になろうという念願のためだった。

自由民主主義と市場経済が韓国の理念的座標であることを再確認することが急がれる。保守であれ進歩であれ、これを明確にしなければならない。競争をしても、その土台の上でしなければならない。そうしてこそ理念論争が、消耗的なイデオロギー論争や敵対的な保革対決に変質しない。共有された理念の基盤が確固なら、アイデンティティ論議が割り込む隙はない。盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権2年の分裂と乱脈ぶりは、その基盤が揺れたことにあった。

「1948年体制」も認めなければならない。分断は不幸なことだが、1948年の5・10選挙で樹立した大韓民国の伝統性を否定することはできない。分断も無論克服されなければならない。分断のままでは「未完の光復」であるしかない。しかし分断は、平和的、段階的に克服されるべきだというのが、国民的合意である。歴代の権威主義政権のおいても、「1948年体制」を改善しようとする努力が、多様な形の対北朝鮮和解協力政策を通じて、綿々と続いていることを忘れてはならない。

韓米同盟を外交の中心に置かなければならない。拙速な反米、自主の副作用をこの2年間で実感した。中国の覇権追求と日本の軍事大国化の動きの中で、韓米同盟を活用できる眼目と知恵が切実に求められる。北朝鮮の核問題解決も開城(ケソン)公団の活性化も、米国との協力なしには不可能なのが現実だ。6者協議の枠組みの中で北朝鮮の核問題を平和的に解決し、予想される北東アジアの勢力構造再編の過程で、韓半島の安全と和平を担保にする多国間安保体制にその枠組みを転換しなければならない。乙巳勒約100周年、庚戌国恥95周年である。再び列強の餌食になることはできない。

盧武鉉大統領は、このような理念的、外交・安保的基礎の上で国を、国民を一つに束ねなければならない。大統領はどちらか一方の大統領ではない。昨年の4・15総選で、与党に過半数の議席を確保させることで弾劾された大統領を救ったのも、特定の支持勢力ではない。多くの国民が救ったのである。それなのになぜ「皆の大統領」になることができないのか。もはや価値の中心、社会の中心に立たなければならない。

党政分離の原則によって「政治と距離を置く」という考えも、必ずしも正しいわけではない。第17代国会の初年が見せたように、与野党が極限の対峙に向かう時には、善意の仲裁者にならなければならない。政治が上手く回り、国民が政治を忘れて暮らせる窮極的な責任も、大統領にあるためだ。

任期が3年残っていると言うが、働く時間は多くはない。4月の再・補欠選は、来年6月の地方選挙につながり、地方選挙は07年の大統領選挙の前哨戦の様相を帯びるだろう。全国規模の選挙のない年は今年だけだ。欲を捨てなければならない。分裂だけを煽り、実益のない、過度に理念化した改革課題は果敢に捨て去らなければならない。指導者と政権勢力の道徳的自己満足のために多数の国民が「改革疲れ」に苦しまなければならないなら、不幸な事である。

盧武鉉政府が、遅ればせながら「経済・民生優先」を掲げてきたのは、幸いである。生活の問題を解決することができない政府ならば、存在する理由がない。しかし、経済はスローガンや情熱だけで活性化することはできない。経済を動かす原理として「自由市場経済」、環境として「グローバル化」の重要性を新たに認識しなければならない。

市場経済だと言って、政府がことごとく後ろ手を組んでいてはいけない。貧困層を救済して、社会的安全網を拡充する国家の役割は強化されなければならない。景気の振幅を緩和するための財政・金融政策も続かなければならない。しかし、政府の役割は市場の自律性と創意性を侵害しない線で、行なわれなければならない。ありもしない「市場の失敗」を掲げ、明白な私的財貨にまで公共財の服を着せて規制しようとしてはいけない。規制を解いて民間経済が活性化し、雇用が増えれば、政府が実施するよりも10倍以上の福祉が具現され得る。

グローバル経済では、大企業と中小企業、経営陣と労組、裕福な者と貧困者、首都圏と地方などの国内的な2分法が大きな意味を持たない。政治的・社会的感情に依存して企業と裕福な者を締めあげれば、海外に逃げ出すのが現実だ。下降平準化式の均衡発展論理に捉われて首都圏を圧迫すれば、ソウルは、上海やシンガポールとの競争で立ち後れるだろう。経済の二極化を発展的に乗り越えるには、経済でも敵味方に分ける思考を捨てなければならない。

最大野党であるハンナラ党も変わらなければならない。経済と民生から具体的な代案を出して、競争しなければならない。政権側の失策で反射利益を得たり、政略的に足を引っ張るという形をもはや見せてはならない。時代錯誤的なマッカーシズムに寄りかかってもいけない。ビジョンを提示することで、国民が信じて期待できる政党に生まれ変わらなければならない。

今年は「東亜(トンア)日報」創刊85周年の年でもある。常にそうであるように正論と直筆で権力を監視し、不正と不義を告発することを怠ってはならないだろう。理念、世代、階層、地域、政派による分裂と葛藤を緩和し、治癒することにリードしなければならない。本紙はすでに「ニューライト(New Right)運動」を通じて、極左極右間の自己破滅的な理念対決を止揚して、合理的保守の道に進もうと提唱した。新年にはまた一つになろう。共に希望を復元しよう。

 

2004年12月31日 朝鮮日報日本語版

正しく見て正しく言うべきだ 

 05年、今年は独立60週年を迎える年だ。失われた国を取り戻し、建国への意志を集めてから60年。

 人間に例えるなら、あらゆることに自分の考えが揺れることなく(不惑)、私たちに与えられた時代的使命を理解し(知天命)、とうとうありのままの世間を見ること、聞くことのできる(耳順)の境地に至ったのである。

 新生独立国家大韓民国が経てきた産業化、民主化、先進化の各プロセスはこうした成熟過程でもある。

 大韓民国は60年前、脱植民地・独立の年代に生まれた数多くの国家のうち、唯一世界10代経済大国に仲間入りした達成の記録を持っている。

 過去に独立国家として同じスタートラインに立っていた国々が、依然としてGNP1000ドルそこそこの絶対貧困に喘いでいたり、軍事クーデターや軍事独裁の灰色のスパイラルに落ちており、未だに文盲撲滅という手に負えない戦いをしている現実を見ながら、私たちは大韓民国が成し遂げた達成の記録を誇りに思うのも当然だ。

 しかし、この瞬間、私たちはこうした自己実現や自己確信を未来に向けた最跳躍のテコにせず、自己否定や自己侮蔑といった混沌の中へ自ら進んでいる。

 戦争や貧困、独裁の負の遺産を精算して、ここまでのし上がった大韓民国の歴史、こうした私たちを下支えした市場経済と自由民主主義の価値に再び挑戦状が突きつけられ、否定されているのである。

 去年の1年間、国中を沸かせ、国民を苦しめた混乱と葛藤の根底には、大韓民国の歴史やその歴史を生き抜いた私たちの今日の姿をどう受け止めるべきかという、歴史と価値観の混乱が潜んでいる。

 建国以来初の大統領弾劾事件、60年ぶりに街頭で復活した左右の対決、国家保安法改廃闘争、過去史論争の根幹も結局ここから根ざしたものだ。

 大学の卒業と同時に失業者に仲間入りする若年失業者、生計の困難を訴える零細食堂の店主たち、不況によって生業を追われる市場の商人たち、労働の疎外階級に転落しているパートタイマー、GNP1万ドル時代の辺境で貧困のどん底から抜け出せない貧困層、こうした暗い現実は私たちが現在の課題に正面から対決せず、過去を現在の課題と勘違いし、国家のエネルギーを無駄遣いしたことによる被害者だ。

 北朝鮮による核開発問題へのアプローチや韓米同盟の今日と明日をめぐる異見、内外からの攻勢に悩まされている軍の規律と士気の低下も、結局アイデンティティーの混乱から生まれるのである。

 今年の韓国の最大の課題は、現在の事態の根底に流れている大韓民国の歴史と価値に対する混乱を整理する作業だ。

 これを通過しない限り、分裂と解体に突き進む共同体の危機を突破することはできず、過去の泥沼から抜け出し、未来に進むことはできない。大韓民国の歴史と価値に対する混乱を完全には解消できなくても、できる限りこれを最小化しなければならないという切羽詰った理由がここにある。

 最初の階段は、考えと理念の違う個人と集団間の意思疎通のため、言葉の橋を架けることだ。言葉が対話と疎通の手段ではなく、攻撃と破壊の凶器として乱用される限り、共同体存立の根拠である「異見に対する寛容の精神」が定着することはできない。

 次の階段は批判に対し開かれた心を持つことだ。相手の自分に対する批判の裏に、いつも底意と私心と悪巧みを見つけようと心のかんぬきをかけているようでは、対話の川が流れるようにはできない。誰かを批判することは、誰かから批判されることもあるという事実を当たり前の前提としている。

 政府与党と野党、権力とメディア、386と非386、ソウルと地方、経営と労働など、韓国社会で対立する主体に要求される心の必須条件はこれだ。

 サミットの国会を乱闘の場にし、与野党の指導部の合意が幾度も覆される4つの争点法案をめぐる混乱も、「正しく見て」、「正しく考え」、「正しく話す」姿勢さえ持てば解決できないことはない。与党と野党は果たすべきだという使命感と、果たせるという自信を持たなければならない。

 政府が理念の泥沼で喘いでいる間、国民は生計の泥沼でもがいてきた。今年の経済成長率が昨年の4%から2%〜3%台に下がる可能性もあるという予測が新年から国民の肩を重くしている。予測通りであれば、失業者の数は現在の80万人から新たに数十万人増える可能性もある。

 しかし消費が伸びをする見通しも、投資がジャンプする予想も立てることが難しい状態だ。韓国経済を支えてきた輸出という主柱さえも為替の要因によっていつどのように揺らぐか予想することは難しい。

 国民のほとんどが生活の手段にしている中小企業と自営業の活路を見つけることさえままならない状態だ。政府は投資を蘇らせるための規制撤廃の処方を出し、韓国型ニューディールを約束している。しかし政府自らもその処方だけで回復すると信じてはいないだろう。

 韓国経済の病が心の病でもあるためだ。この心の経済病は経済処方箋だけではなく、政治、社会、心理的総合処方箋を要している。

 韓国経済の現況を直視し、正しく考え、正しく言える環境から作らねばならない。病はうるさく言い回ってこそ、処方も分かってくるものだ。

 韓半島の平和と安保、私たちの生活と経済の明日を含めた大韓民国の進路は、依然、北朝鮮核問題という岩礁にぶつかっている。平和的解決が難関にぶつかれば、いつ本格的な対北圧迫手順が始まるか分からない。

 これに対する北朝鮮の対応が崖っぷち冒険主義に突っ走る場合、その間に挟まった韓国の選択は韓国の運命につながることもあり得る。国家生存を保証する冷厳な現実認識と冷徹な政策判断が求められるのだ。

 内外の情勢から見て、北朝鮮内部で何か突発事故が発生しても、意外だとは言えない状態が今年も続くだろう。根拠のない楽観論に頼り、何ら準備もなしにそのような事態を迎えることになれば、それは津波のごとく韓半島全体を襲い掛かることだろう。

 国政の責任者たちが「北朝鮮は崩壊しないだろう」と一途に信じ続けてはならない。

 私たちは根拠ない楽観に拘ってもならないが、わけの分からない恐れで悲観に流されてもならない。すべての国民が今日を直視し、正しく考え、正しく物事を言うことで、新年を始めなければならない。

 根拠のある楽観、国民の士気を引き立てる希望のメッセージは、国の上から下へと流れるものだ。国政の首脳部こそが、希望と楽観の本拠地と発信地になるべきなのだ。

 これといった政治日程のない今年の一年は、私たちがその気になれば直視し、正しく考え、正しく物事を言うに適した1年だ。だから、国の流れを葛藤と後退から和解と前進へと変えることのできる1年になれるはずだ。

 

2004年12月31日 中央日報日本語版

 希望を語ろう

2005年・新年を迎えた。今年は、少し良くなるだろうか。誰も即時、この問いに自信をもって答えられない。昨年が、あまりにも厳しい一年だったからだ。

若年層は大学を卒業しても就職できないため気が小さくならざるを得ず、多くの家長が職場を失い落胆した。企業家は一年終始、企業を救うため全力を尽くしたが、ますます厳しい状況へ進みつつあるのを骨身にしみるほど感じた。

それでも、この朝、敢えて「希望」を語りたい。現実がいくら厳しくても希望があり、希望があるならば耐えられるからだ。国辱の乙巳(ウルサ)条約から100年になる今年、われわれの先祖が、祖国解放の夢をみて、試練を乗り越えて光復(解放)を迎えたように、われわれはこの厳しく暗いトンネルを抜け出せる、という希望でもって、新年を迎えなければならない。

未明は、これ以上進む所のない暗やみの後にやってくる。希望を語れるのは、韓国民の底力を信じるからだ。韓国は、通貨危機を克服した。そのとき、韓国人は皆ひとつになった。試練を乗り越える、という信念で団結した。いま、韓国人にとって、最も必要とされるものは、このように一つになることと「できる」という信念である。

このまま放棄することはできないという信念で団結すれば、克服できないものはない。一つになるためには、互いの違いを認め、その違いの中で調和を見いださなければならない。対立・分裂・葛藤では、一歩も進めない。目標は、言うまでもなく経済回生だ。今年一年間は、国のすべての関心と力量がそこに集中されなければならない。

政界は、これからでも本然の役割に充実するよう願いたい。政治の本然の任務は、葛藤を統合することだ。現在のように葛藤を助長、拡大し、利用しようとしてはならない。新年には、再選挙・補欠選挙がある。与野党の命がけの競争が、火を見るより明らかだ。過半数を守ろうとする与党と、それを壊そうとする野党が衝突すれば、国民ばかり犠牲になる。

政府は、厳しい選挙管理を通じて、公正な選挙が行われるようにし、国民もやはり徹底した監視者としての役割を果たさなければならない。過半数が重要なのではなく、政治が経済回生のためどんな役割を果たせるかが焦点になるべきだ。韓国の外交安保をめぐる環境は、いつになく厳しい。

およそ2年間にわたる北朝鮮の核問題は、破局か、大妥協かの岐路に立っている。 南北(韓国・北朝鮮)間の対話と信頼醸成が必すだ。何よりも、韓米同盟の重要性がいつになく強調されている。もちろん、韓米関係には時代の流れに合わせて変化すべき側面がある。しかし、韓国の生存・安保の礎石であるとの点を忘れてはならない。

すべての国政は、経済に集中されるべきだ。最も重要なのは働き口だ。大学を卒業した失業者があふれていて、40代家長が働き口を得られずにいるならば、韓国社会には未来がない。政府は、5%の成長と40万人の雇用創出を目指している。見通しは不透明だ。企業が投資できるようにし、企業家をやる気にさせなければならない。それが、政府と政界のやるべきことである。

そのためには、経済に全力を尽くす、という大統領の強い意志表明とリーダーシップが必要とされる。経済が政治的論理に振り回されないようにしなければならない。これ以上、不透明な政策と混線で、国民と企業に混乱を与えてはならない。すでに韓国経済は2年間連続し、世界の平均成長率にも追いつけないくらい、成長の動力を失いつつある。

これ以上、分配か、成長かをめぐる論争で力を浪費してはならない。今年一年間だけでも、成長のため全力を尽くさなければならない。ひとまず、火種を生かすことが急がれている。だといって、貧富格差の解消に無関心になってはならない。「共に生きていく共同体」を実現するためには、基礎生活保障対象者などへの支援に向けて、国家レベルの福祉政策をさらに体系化し、拡充しなければならない。

他人を思いやり、配慮する温かい心と奉仕・犠牲の精神が必要とされる。労使関係も共同体精神で臨むならば、解決できないこともない。昨年1年間にわたって行われた新行政首都建設をめぐる議論は、忠清(チュンチョン)地域住民だけでなく、全国民にとってもプラスにならない消耗的な論争だった。

長期的な見方から、国全体に望ましい方向が何かを正す後続対策が作られるよう願いたい。当面の被害を救済するレベルの後続対策は、再び混乱と費用だけをもたらすだろう。バランスの取れた国土発展は、新行政首都建設とは別に、地方分権、企業都市の建設など多様な方法を通じて持続的に進めるべきだ。

中央(チュンアン)日報は、今年で創刊40年になる。青年期をすぎて、壮年に至ったのだ。中央日報はいよいよ、この国の一つの制度に位置付けられた、と誇りたい。それだけ、共同体の繁栄と平和に対する責任を感じている。これまでのように、自由民主主義と市場経済という枠組みの中で「社会の統合者」と「葛藤の和解者」の役割を果たしていくものと思われる。

それぞれの異なった主張と信念が、中央日報を通じて受け入れられるよう扉を開けておきたい。今年、中央日報は、振出人・洪錫R(ホン・ソクヒョン)氏が駐米大使に就任することによって、大きな変化を迎えるようになった。洪会長が、国のため大きな役割を果たしてくれることを期待したい。同氏は、この10年間、青年期の中央日報を現在の位置に導いた。

今後、中央日報は、大株主の進退と関係なく、これまで通り言論の正しい道を歩んでいくだろう。誤った権力は堂々と批判し、腐敗した社会に向かっては「塩」の役割をするはずだ。また、共同体が進むべき方向を示す「灯り」の役割にも充実するだろう。そのため、新聞内部も、透明かつ公正な装置で補強していくはずだ。

独立的な編集と健康な経営が共に進むようにするだろう。中央日報は、読者の「ムチ」と愛に基づいて、これだけ成長できた。今後も、読者の応援と励ましなしにはやっていけない。読者とともに最高の新聞、信頼される新聞になることを約束したい。

 

2005年1月1日 世界日報

本紙創刊30周年 年頭にあたって

本紙主筆 木下義昭
美しき日本 再建の一翼になわん
山紫水明の国 日本
最北の北海道より南の沖縄 
遙か日本海 太平洋を抱き 
四季折々に美しさを奏でる日本列島
海に山に平野に 豊かな糧あり

祖国の先人たちは幾星霜 
艱難辛苦を共にしながら 
荒野を拓き緑の楽園建設の
旗手となって来たことか
天を見上げれば 紺碧の空に大きな日輪
澄明な大気 
地には溢れんばかりの清き水 
そして豊かな緑の絨毯

やはらかな光を放つ月は人々に安寧を
輝く星々は希望と勇気を
国人は和をもちて尊び 彼我の繁栄
幸福を祈りきし

      * * *

祖国が「大国」に敗れ去り 
焦土と化した頃より
天からではなく 地から雨後の竹の子の
ごとく澎湃たる「革命」の気運
政界から学園に至るまで…
曰く「日米安保反対!資本主義打倒!
社会主義政権樹立!」
また「ベトナム戦争反対!北朝鮮は楽
園!毛沢東思想万歳!ソ連と友好を!」
等々

為政者の多くは祖国再建の気概を喪失
利に聡く義に疎く 国難は襲い来る
未来を語るべき青年は「今」を語り
壮年 老人の多くは
「語るべき過去」すら持たず 
子らは心身の「孤児」たり

      * * *

かくのごとく 地は荒れ果て 
国人の心は 暗雲に覆われ 
冷たき風に千切れに千切れ
豊饒の祖国は ついに流浪す
エゴイスト マルキスト
リベラル・マスメディア ラディカル・フェミニスト
「この世の君」は
この国と世界を睥睨し 君臨すること
戦後六十年
国人に奸計を巡らし その魔の手は
日本の未来を呪縛す
果たして 日本に アジアに 世界に
未来は有りや無しや

      * * *

荒廃の地に 
「光あれ」と蒔かれた一粒の種
高潔の士 碩学の志士に
叱咤激励 良導され はや三十年
今在るを 伏して感謝 深謝
未だ天命果たせざるを嘆くも 
自責の念もて 再び立ちて道を拓かん

われらは 公正な報道を守り 
自由救国のためたたかう
われらは 世界的視野にたち 
理想日本の建設につくす
われらは 共生共栄の精神により 
新文化創造に努める
――われらの信条なり

先哲曰く「文臣銭を愛まず 武臣命を
愛まざれば 天下 平かならん」

百数十億年以前 宇宙創造の
「神の一撃」の真意に心を寄せ
天意にかのう新世紀建設に向けて
昼夜 筆執り 
立ちて行かん 立ちて行かん

美しき日本 再建の一翼になわん

 次へ  前へ

  拍手はせず、拍手一覧を見る

▲このページのTOPへ       HOME > 戦争73掲示板



  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。