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(回答先: 交渉 投稿者 外野 日時 2005 年 9 月 19 日 01:42:20)
Causa 2002/03号
「司法参加」が第一歩 越智敏夫(おち・としお)[稿] から
…(略)…
つまりこの『十二人の怒れる男』において強調されているのは陪審制度そのものの価値ではない。人間は論理的でもなければ、真実を容易に手にできるほど能力の高い生物でもない。その人間によってつくられた社会もまた同様に論理的でない。その意味で陪審員制度には社会のあり方がそのまま反映される。
社会は正しいのか
この映画が製作された1957年のアメリカ社会は多くの問題を抱えていた。改革と激動の60年代の直前である。映画のなかの陪審員には有色人種も女性も含まれていない。そしてジャック・ウォーデン演じる第七陪審員は人種差別主義者である。劇中それがあきらかになったあと、彼は陪審員室のなかで孤立し発言権を失う。しかしそれはたまたま他の陪審員が人種差別を否定したからだ。状況によっては陪審員の多くが人種差別主義者でありうるし、事実、アメリカの裁判史のなかでそのような評決は数多くくだされてきた。
陪審員が変われば評決の結果も変わる。その意味で社会そのものが陪審員の評決に表れる。三谷幸喜が脚本を書いた東京サンシャインボーイズの舞台『12人の優しい日本人』は、本作のパロディのかたちをとりながら日本社会そのもののあり方を戯画化していた。この舞台においては登場人物の一人ひとりが「日本人的性格」を過剰に与えられている。
では、私たちはこの映画の何に感動するのか。この映画では陪審員制度が論理的であるとも、また真理に近づく方法だとも考えられていない。その意味でデモクラシーこそが絶対的に正しいということが主張されているわけではない。
しかし明らかにこの映画での第八陪審員はペテン師とは描かれていない。彼が議論を支配する方法がどうであれ、この映画においてはあの評決は良好なものになっている。したがってこの映画で示されているのは陪審員制度が良好に機能する場合の条件だと考えるべきだ。ではそれらはどういう条件なのか。そこにこの映画に感動する理由がある。
変化することの意味──人間は議論によって変わりうる
おそらくそれは人間の「変化」の可能性だ。人は他者の意見によって自分の判断を変更する。人間は議論によって変わりうると提示すること。それがこの作品の最大のテーマだろう。この映画ではたった数十分のあいだに多数派は少数派になり、少数派は多数派になる。多数派が少数派になりうるからこそ、少数派は一時的に多数派に従う。その意味において多数決というデモクラシーのルールは、一般に言われるような「数の論理」とは絶対に異なるのだとこの脚本は主張している。
陪審員制度において誰も議論によって変化しないのであれば制度自体が存在価値をうしなう。そしてこの映画で特に重要なこととして示されているのは、その変化の可能性は陪審員たちが素人だからこそ生じるという点である。
自分の意見が議論によって変化する可能性は法律のプロのあいだでは想定されていない。彼らは自分の技能によってそれぞれが唯一の結論を得る。プロとプロのあいだで意見が食い違うことはあるが、一人のプロのなかでの結論は固定したひとつでしかない。しかし素人の意見は変化する。事実認識に思い違いもあれば、人の意見に軽く追従し、それまでの意見を変えてしまうこともあるだろう。しかし、そこにこそ陪審制度の価値があるとこの映画は訴えている。
こうした素人の政治参加は近代社会においては多くの領域で見られる。典型的には議会制度である。議会制度の最大の目的は素人を政治に参加させることだ。私たちの代表である議員は基本的には素人として判断することが期待されている。それは専門職としての官僚機構に対抗する。現実として官僚と議員がどのように癒着していようが、原理的には彼らの存在意義は対立する。
そしてこれも現実的にはどうであれ、官僚は合理的であることを要求される。彼らの判断は論理と数字に根拠をおき、一度くだされた判断は状況が一変しないかぎり堅持される。ところが素人の意見は変化する。議場での議論が各議員の判断を変更させることが期待されていないような議会制度がありうるだろうか。そこに素人による議論の場としての議会の意味がある。司法においては陪審員室が同様な意味をもっていることをこの映画は示している。
必然的ジレンマ
しかしここに市民の政治参加のジレンマがある。こうした政治参加は政治決定に市民の代表を参加させ、その決定を市民全体に容認するよう強制する。決定に参加した以上、それに従うべきだという論理である。現代の民主政も支配関係から見ればそれは少数者による支配でしかない。それを市民の政治参加という原理で隠蔽しているとも言える。
同様なことは陪審制度においても指摘しうる。市民が判決をくだすプロセスに参加したのだから、その判決の責任は市民のものになる。映画のなかのプエルトリコ系の少年がじつは父親を殺していたとしたら、その殺人犯を世に放った責任は第八陪審員をはじめとする12人の市民の責任となる。
たしかに司法への市民参加は司法における国家の横暴を防止することにもなりうるだろう。しかしそれは同時に市民の名においてその横暴が許可される可能性もはらむ。冤罪事件はプロである裁判官と検事などの責任として追及されるのではなく、市民の手によってつくられたと言われるようになるだろう。
市民「参加」こそ社会変革をもたらす
しかしだからといって、司法という重要なことを専門家にだけまかせておくべきだという主張はこの映画にはない。この映画のなかの専門家たちは少年に有罪の判決をくだそうとしている。画面中に登場はしないが、ずさんな捜査しかしていない検察と無気力な弁護士たちが陪審員によって語られている。
そうした硬直したプロの世界を素人が変えていく。その素人の判断が社会に小さな悪を一時的にもたらすとしても、その責任も市民がもつことで将来的には社会全体を市民が変えていく。公的なものによって市民が利用されるとしても、市民が社会を変えていく。そうやって公を私が変えていくしかない。
こうした政治参加のジレンマを市民は担わざるをえない。12人の男が怒っているのはこのジレンマに対してである。なぜ私がこの場にいなくてはいけないのか。ただの抽選の結果にしても理不尽である。しかしこの社会変革の場に参加することは価値のあることだとこの映画は訴える。そこに参加することで一人ひとりの市民も変化する。その意味で政治参加の場は市民の自己教育の場でもある。最後に陪審員室を出るとき、12人の男は以前の彼らとは異なっている。
雨も上がった夕方の街に足取りも軽やかに出て行く第八陪審員が初めて自分の名前を他の陪審員に告げる。陪審員室ではお互いを番号で呼び合った彼らがまた社会へと復帰していくラストシーンである。この映画におけるこうした匿名性は、私たちすべての市民にたいして政治参加のジレンマを背負う責任を要求している。
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