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投稿者 デラシネ 日時 2005 年 9 月 27 日 20:14:53: uiUTTMWMO8Vq6
 

(回答先: 緊急インタビュ―  佐高信氏が小泉茶番選挙をバッサリ 投稿者 黄昏時のパルチザン兵士 日時 2005 年 9 月 27 日 17:39:53)

洋泉社刊 勢古浩爾著 「まれに見るバカ」より抜粋p115〜p120
http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0102003879

現代バカ著名人列伝

ψ どうでもいいバカ・・・・・佐高信

佐高信については日垣隆が徹底的な批判をしている。
日垣の著書『偽善系U』(文藝春秋)のなかの「辛口評論家の正体」という章が丸々佐高批判なのだ。
日垣の評論スタイルの特徴は批評対象に関する資料を可能な限り渉猟するというものだが、佐高批判にあたっても「段ボール三箱に達する彼(佐高)の本や連載原稿」を読んだという。
その資料分析によって日垣は、世にいわれる佐高の毒舌(文章)がいかに感情的で自己陶酔的で薄っぺらで底が浅くて(そもそも底じたいがない?)、至る所で論理矛盾をきたしているかを、また案に相違していかに「ゴリゴリの反動」で権威主義的であるかを、佐高本人の文章を衝き合わせることによって明確にしている。

これでは佐高もグウの音もでまいと思ったらとんでもない。
そんなことでグウとでもいうくらいなら文筆業界は渡っていけないのである。
佐高の対談集『こいつだけは許せない!』(徳間書店)という本のなかに、唯一敵対的な相手として猪瀬直樹が登場している。
猪瀬から「結局、書評家」とか、「善玉悪玉論」とか「毎月パンフレットみたいな本を書いていて」と痛いところをつかれても、へこたれるどころの話ではないのである。
ああいえばこういい、こういえばああいって、薄ら笑いを浮かべている風情なのだ。
ではなにゆえに本書で佐高信をとりあげるのか。
相変わらずバカだからだ。
まず文章が驚異的に下手である。
試しにつぎの文章を読んでいただきたい。

「私は『大蔵省分割論』(光文社)で、大蔵官僚のスキャンダルを、中島義雄や田谷広明という主計局エリートらのタカリ的 “下半身スキャンダル”と、土田正顕や寺村信行ら、銀行局長経験者による政策的誤りがもたらした “上半身スキャンダル”に分け、それらが重なっていることを指摘したが、ホンネでは、主計局の後輩たちは中島や田谷のやったことを悪いとは思っていないようなのである。」(『鵜の目鷹の目佐高の目』読売新聞社)

って、ちょっとびっくりするよこれは。
「ホンネでは」以下の文章がもうムチャクチャでしょ。
当然、佐高の「ホンネ」かと思って、そのあとに「こんなただの思いつきの指摘がたいして意味があるとは思っていなかったのである。 ごめんなさい。」みたいな文章が続くのかと予想していると、いきなり主語が「主計局の後輩たち」に入れ代わっているのだ。
佐高はこんなでたらめに自分では金輪際気づかないのだから、編集者が注意してやらなけりゃ。

姜尚中の人気ぶりを書こうとして、文章の一行目に、いきなり(いきなりですよ)「とくに女性たちの姜人気は凄い」とくる。
当然この文章の前には「姜尚中の人気は並たいていではない」みたいな文章が必要じゃなかろうか(それにしても、女たちはともかく、姜尚中が男にもそんなに人気があるとは思わないが)。
もう一例見ていただこう。

「むのたけじという人は、ある意味で、私の人生を決定した人である。 むのさんの本を学生時代に読んで、日本を変えるには足もとから変えなければならない、と私は郷里に帰ったようなところがある。」
(『こいつだけは許せない!』)

これ、一読して意味がわかるひといますか(いるのか)。
わたしにはチンプンカンプンだった。
三回ぐらい読んで、そういうことかとやっとわかった。

「足もとから変えなければならないと決意して」とでもするとこだろうが、その前に「読んで」があるからそれは避けたい(「読んで」の「で」と、「決意して」の「て」が重なるから)。
とすると、このように書けばいいのである。
「私が郷里に帰ったのも、むのさんの本を学生時代に読んでから、日本を変えるには足もとから変えなければならない、と考えるようになったことが最大の原因である」。

で、なんとか読めるようになったところで、その内容だが、ウソである。
どうしてどいつもこいつもウソばかりなのか。
「日本を変えるために郷里に帰った」って、そんなバカな。
ヴ・ナロードでも戦後共産党の山村工作隊でも文化大革命時中国の下放でもあるまいに。
それに、「私の人生を決定した」のに、なんで「帰ったようなところがある」と曖昧なんだ。(この齟齬が悪文の原因)。
「私は決然として郷里に帰った」とでもしなければ話が合わないではないか。
自分を青雲の志をもった男として演出しようとしているから、辻褄が合わなくなるのだ。
だいたい『こいつだけは許せない!』の中に自分がはいっていないのはどういうわけだ。

日垣も指摘しているが、佐高信は、「大学教授は干物である」とか、自民党と自由党の連立は「フリチン連立」、小渕内閣は「オブツ内閣」、小沢一郎を「フリチンスキー」などと、こんな小学生みたいなことばっかり書いているのである。
なぜこんなことばかり書くのか。
答えは、こんなことしか書けないからである。
佐高にはほとんど思考力がない。
それをカモフラージュするための標語でありダジャレなのだ。
たとえば「小泉の郵政三事業民営化の志をそのまま信じてよいのかといえば、『ちょっと待った!』という部分がある、というのが私の視点である」(『経済戦犯』 徳間書店)。

もう、しびれてしまう。
「ちょっと待った!」という「視点」があるということをわたしははじめて知った。
また亀井静香、小沢一郎、中曽根康弘を比較して、亀井は「ハッキリ助平」で小沢は「ムッツリ助平」、中曽根は「政界エロ」だ、と書いて、得意満面である。
正気の沙汰か。
ようするに佐高信とはただの標語屋、ダジャレ屋にすぎないのだ。

そういう自分の実力を知悉しているくせに、佐高はシレッとした顔で、船田元の尊敬する人物が福沢諭吉や吉田茂だということにたいしては、「挙げられた二人が気の毒になってくる」と冷やかしている。
魯迅を敬愛する佐高は、魯迅が気の毒とは思わないのか。
川端康成の『雪国』を「十回以上読み返」すほどの佐高は、「私にとって、ある種の文章規範」と書いているが、佐高にそんなにほめられたのでは、かえって川端が気の毒ではないか。
「文章規範」も可哀相だ。

日本の経営者に司馬遼太郎礼賛者が多いと聞くと、「あいつらが愛読書としてあげるんじゃ、こりゃろくなもんじゃない」といっぱしの口を利き、結局、司馬はそういう「無責任な経営者たちに、毒になってない」、そして「毒として届いてないということは、やっぱり作者の責任」だと、わけのわからんことをいって、「私はやはり、無責任な日本の政財界人が安心しないものを書きたい。彼らに致死量の毒を盛りたい。そういう意味では司馬は私にとって永遠の反面教師である」と、どう見たって勝ち目のない一人よがりのカッコいいことをいっている。(前出『鵜の目鷹の目佐高の目』)。
身の程知らずだというほかはない。

司馬遼太郎批判はインテリの常道である。
司馬を評価することはインテリの沽券にかかわるとでもいいたいらしい。
その一方で、「『男はつらいよ』は必ず一人で見た。たいてい泣かされるからである」と、庶民派の一面があることもしっかりと印象づけておくことを忘れない。
だがふつう、「寅さん」で泣くかね?


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● おまけの楽しみ ●

これら佐高の文章を、下に投稿した栃木君(高校生)の文章と比べてみてください。

笑いすぎて、腸捻転おこしても責任もてませんが・・。

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