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(回答先: 投票結果は自分に跳ね返る(nanayaのひとりごと) 投稿者 吐息でネット右翼 日時 2005 年 9 月 25 日 17:58:05)
http://ch.kitaguni.tv/u/5238/%c0%ef%c1%e8/0000270263.html
本棚で誇りをかぶっていた文庫本。整理しようと放り出していたのを、娘が寝る前に読んでいた。ある部分だけ読んで「あぁ、寝る前に気分悪いもの読んじゃったよ・・・」
「何を読んでたの?」と、返事のかわりに差し出された本がこれ。
◆新聞記者が語りつぐ戦争2 『戦場になった島』‥‥‥読売新聞大阪社会部の最後の章である。
___女たちが語りつぐ戦争=2___より引用
狂気の時代
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戦争という巨大な坩堝(るつぼ)の中に投げ込まれた私たちが考えていたことは、何としても生きたいということであり、生きるためには勝たなければならないということだった。負けることは死を意味したから(そう信じ込んでいたから)私たちは歯を喰いしばって我慢をした。我慢に限界があるのかないのか、そんなことを考えたこともなかった。
勝つために戦ったのではなく、勝つために我慢した___それが私たち女の戦争だった。勝つためにしていた筈の我慢がやがて、敗ける日を引き延ばすための我慢になった。
あの頃のことはもう、思い出すのもイヤである。思い出すすべてが色彩を失って、不吉な墨色に包まれている。丁度戦争に負けた後、墨でくろぐろとぬりつぶされた国定教科書のように。
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私の女学校時代の親友は、海軍大尉の妻になった。海軍大尉の妻は、夫が戦死することがあっても、決して嘆き悲しむ様を人前に見せてはならない、と夫たる人から教えられていた。戦死した軍人の遺族に会った時は、間違っても、残念でしたなどと悔やみを述べてはならない。
「名誉の戦死を遂げられておめでとうございます」
と挨拶をする。その挨拶を受けた方は、
「お蔭さまで名誉ある戦死を遂げることが出来ました。本人もさぞや本望でございましょう」
といわなければならない。その時に、涙を見せては、軍人の妻として夫に恥をかかせたことになる。そうして彼女の夫は戦死し、彼女はその通りやってみせた。葬儀が終わった後、彼女は玄関の戸に錠を下ろし、留守を装って一ヶ月近く、ひとり泣き暮らしたという。
私たちがしなければならなかった我慢は、お腹いっぱい食べられないことや、着るものがないことや、始終空襲の危険に晒されていることばかりでなく、人間としての感情すらも抑圧しなければならなかったことだ。
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戦況についての不安や疑惑を口にしてはならない。戦争の意味について考えてはならない。日本は負けるかもしれない、と思うだけでも不忠である、と私たちの町内の防空群長は演説した。
空襲が本格的になるまでは毎日のように町内での防空演習があり、私たちは縄で作った火叩きを振り廻したり。竹槍で藁人形を突いたりした。
もし本当にアメリカ兵が上陸してきた時に、この竹槍で殺すことが出来るのですか、と質問した若い奥さんは、警防団に睨まれて、水の入ったバケツをはしごの上までリレーして、仮想の焼夷弾を消すという消化訓練の先頭に立たされて流産した。過激な訓練のために流産する人は少なくなかった。しかし警防団長はこういった。
「敵機は妊婦であるからといって、決して特別あつかいをしてくれないのであります!」
彼はまた、こうもいった。
「この非常時に病気になること、それも不忠であります。いいですか。不注意といったのではありません!不忠といったのであります」
この警防団長は電気商で、私の家へよく伝記の修理などに来ていた男である。その頃は、
「毎度、おおきに。おおきにさん・・・・・」
といつもの頭の低い男であったのが、警防団長になってから急に人が変わったようになり、
「気をつけーェッ!三人目ッ、アゴが出とるゥ!」
とわめいたりするようになった。
何もかもが変わってしまった。生活の不如意ばかりでなく、人間が変化して行くことにも私たちは耐えなければならなかった。それに耐えるためには、自分もまた同じように変化するしかないのである。
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おとなも子供もみんな、どんどん痩せて行った。肥満体の人など一人もいなくなった。あの陰気に押し黙った女たちの、配給物資の行列を目に浮かべると、私は今でも暗澹とした気持ちに落ち込む。もらったお菓子は、隣の××ちゃんとも分けて食べなさいといっていた親たちは、自分の子供だけをそっと物陰に呼んで、まるで悪事でも働くように窓を閉して食べるのである。自分の金で買った牛肉だ、盗んだわけじゃなし、何が悪い、といいながら、やはりそれはあの時代にあっては悪事に近い、後ろめたい行為だったのだ。
最近私は、インドネシア領モロタイ島での戦いを調べる機会があって、『ああモロタイ』と言う戦記を読んだ。これはモロタイ戦友会が、モロタイで戦った元将兵の手記を編纂したものである。その中に「諏佐曹長の最後」という文章があった。元憲兵分隊、鈴木清治という人の手記である。
それによると諏佐曹長はモロタイ島に上陸して来た米軍魚雷艇の攻撃を受けて、腹部盲貫銃創で失神昏倒した。そして米軍の野戦病院に運ばれ、銃弾の摘出手術を受けた後、ニ、三日経って失神から覚めた。失神から覚めた諏佐曹長は、自分がどこでどういう状態に置かれているかをはじめて知った。
「受傷し意識不明の間のこととはいえ、敵手に在って生き恥を晒すは日本軍人としてこの上無き恥辱なり」
彼はそう考えた、と鈴木氏は書いている。諏佐曹長は看視の隙を見て、縫合した傷口を指で引き裂き、臓腑を掴み出して悶絶した。
「この有様を見て米軍将校は、あまりの壮絶さに顔面蒼白をなって声もなく、ただただ見守るばかりであったという」と。
戦争は狂気だ、という言い古された言葉を、私は今更のように実感した。死ぬのはいやだと泣きながら死んで行った兵士もいるだろうし、死ななくてもいいものを死んで行った兵もいる。
男、女、老人、子供。それぞれが意味のない辛酸を抱えて坩堝の中でもがき苦しんだ。あれから39年経って、私は唖然としてその暗黒の歳月をふり返る。その私の胸に浮かぶ言葉は、やはり、「戦争は狂気だ」というその一言である。
佐藤愛子
___昭和59年7月25日初版 角川書店___
★あの時代を「狂気」ととらえていた戦争体験者は多い。老いた体験者が口にするのは「あんた達も体験してみるといい。今言っていることがどれほどキレイ事か分かるはずだから」という言葉だ。
総選挙での自民党勝利の結果を見て、憤慨した男性がこう言った「俺達はもう体験した。今度はアンタ達やアンタ達の子供が戦争を体験し、子孫をまた戦場へ送ることになるんだ」
「赤ん坊をおんぶした母親の傍に落ちた爆弾で、赤ん坊の首が吹っ飛んだ、あの光景を今の連中に見せてやりたいよ。戦争というのは、どこかにそんな光景があるんだ」
いつもは口数の少ない、政治の話題など一度もしたことない人からも、戦争の残酷な体験を最近になって聞かされる。今の日本が、それほど過去通ってきた状況に近づいてきたと実感しているようである。
佐藤愛子氏の指摘する「人間が変化していく。人間としての感情さえ抑圧されていく」狂気の世界は、すべて人間が作り出した世界であることを忘れてはならない。
そういえば、父親がこう言ったことがある。
「あの時代一番威張っていたのは、憲兵や町内会をまとめる人間や伍長クラスの、平時なら権威と無関係な立場で生きるであろう人間たちだった。あの時権威を手にした人間は、もしかしたら今もあの時代はよき夢の時代だったと思っているかもしれないな」
私たちはもっと謙虚に体験者の言葉に耳を傾けなければいけないのかもしれない。
投稿者:nanaya at 10:45
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