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(回答先: 福岡 突然の解散で違反ポスターも間に合わず〜警告件数激減 【読売新聞】 投稿者 愚民党 日時 2005 年 8 月 23 日 02:30:38)
「宰都の春」〜藤原純友と宰都炎上
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/ne_05082221.htm
破られた軍事施設・大宰府政庁
奈良・平安時代の大宰府とは、大宰府政庁を中心とする街でした。この大宰府政庁の南門の前には、「朱雀大路」が北から南へと延び、筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩の各国府に至る道となっていました。また、南門の前から西に向かう道は、大宰府政庁の防衛線である「水城」を抜け、海外との窓口である「那の津」の港に至ります。そして、南門の前から東に延びる道は、豊前国府や周防灘に面した港に至り、朝鮮半島に面する玄界灘を通らずに、畿内に到達することができました。大宰府政庁は、九州各地方・畿内・海外三方より延びる道が交差する、その地点に立地しているのです。
大宰府政庁は、奈良・平安時代の九州の中心地であると同時に、朝鮮半島の新羅と対峙するその最前線でした。那の津には古代の迎賓館である「鴻臚館」を設置し、海外との交渉(そして密貿易を含む「交流」)がなされていました。しかし、「鴻臚館」と大宰府政庁の間は、海からの攻撃を食い止めるための「水城」によって隔てられているのです。そして、大宰府政庁の北側には、「大野城」という広大な山城が設置されており、有事の際にはここに篭城することも可能となっていました。この時代の大宰府とは、西国における強大な軍事拠点でもあったのです。
しかし、残念なことに、大宰府政庁の攻撃を行い、それに成功したのは、玄海灘で対峙する朝鮮半島の新羅でも、大国の唐でもありません。天慶四年(941)五月、大宰府政庁に不満を抱く豊後・日向の勢力を率いて、藤原純友は博多湾に上陸しました。藤原純友の軍勢はあっさりと「水城」を突破し、大宰府を急襲しました。そして、政庁施設を炎上させ、占領に成功しました。いわゆる「藤原純友の乱」もしくは「承平・天慶の乱」における、九州での「武士」の叛乱です。
「藤原純友の乱」以前
貴族としての「藤原純友」
この「藤原純友の乱」について語る前に、その首謀者である藤原純友とはいかなる人物なのか、そちらを先に語ります。
純友の祖父は遠経といい、藤原冬嗣の長男である長良の息子にあたり、摂政太政大臣藤原基経の兄に当ります。しかし、基経が早世した長良の弟である太政大臣藤原良房の養子となり、養父が極めた人臣の位を継承したのに対し、遠経は右大弁止まりといわれています。その息子であり、純友の父親である良範となると、辛うじて殿上が許された従五位下の大宰小弐のままで、壮年で死んだとされています。この頃、家長たる父親を早く失った貴族の子弟は、よほど良い後見人に恵まれなければ、没落の一途を辿るのが常でした。
藤原良範が大宰小弐として赴任した頃の大宰府は、他国と接する軍事的拠点であると同時に、大陸との交易の拠点でもありました。例えば、903年に、「関を越えて私に唐物を買ふを禁遏」するという禁制令が、太政官から出されています。これは、「唐人の商船来着の時、諸院諸宮諸王臣等、官使未だ到らざるの前に使を遣はし、争って買ふ」という、平安貴族による唐からの輸入品購入欲が背景にありました。しかも、「郭内(大宰府都城のこと)富豪の輩、心より遠物を愛し、直を踊くして貿易す」とあり、大宰府政庁にかかわる役人たちが、大陸との交易にいそしんでいたことが記されています。また、911年には、海外からの個々の商人に対して、三年に一度の来日制限が課せられます。しかし、これはむしろ唐からの輸入品に対する購入欲が高まったがために、それを制限するための措置と考えられます。
大宰府政庁に係わる人々が唐からの輸入品の買い付けを行ったならば、それを高値で購入してくれる貴族の住まう平安京まで、運ばなければなりません。もちろん、大宰府とは海外の使節が入京可能となるまでの滞在先であり、「唐人の商船」が日本に入り込むことができるのも、この大宰府までとなります。おそらくは、大宰府から瀬戸内海を通って畿内へと唐渡りの品々を運んで利益を得ていた、海民たちの存在があったおものと思われます。海民とは平時における海を生業とする職能の民で、何か敵対することがあれば「海賊」として武装することを習慣としていたのでしょう。
純友の父親である良範が大宰小弐であるならば、若き日の純友も大宰府に滞在したものと思われます。当然ながら、唐渡りの品々の買い付けに係わったり、それを輸送していた海民との交渉も、あったはずです。のちに「海賊首」と朝廷から名指しされた純友は、もしかしたら、大宰府における滞在によって、海民との繋がりを作っていったのかもしれません。
「海民」の国伊予と活躍する純友
藤原純友が初めて歴史に登場するのは承平六年(936)、前伊予掾藤原純友が海賊追捕の宣旨をうけたことが、「本朝世紀」に記されています。この時期は、承平元年(931)から六年にかけて、瀬戸内海に海賊が出現し、官物を略奪するような事件が続発しました。朝廷は何度となく追捕海賊使を派遣したり、諸国警固使という国ごとの軍事指揮官を動員します。しかし、海賊はこの追捕に従わず、そのために海上交通が途絶えるという事態となりました。
「扶桑略記」には、承平六年六月に紀朝臣淑人が伊予大介兼追捕海賊使として伊予に下向したとあります。この紀淑人の下向によって、小野氏寛・紀秋茂・津時成などを首領とする海賊集団約二千五百人が、朝廷に投降します。なお、同様の内容が「日本紀略」にあり、こちらには藤原純友が海賊の首領と記されていますが、「扶桑略記」にはそのような記述はありません。また、「日本紀略」には、投降した海賊の首領の中に、藤原純友の名前はありません。この時点での海賊の叛乱においては、藤原純友は海賊の側に立った可能性は低いといわれています。
藤原純友が伊予掾として、また紀淑人が伊予介として赴任したとされる伊予の国、今の愛媛県は、そもそも古来より海の民の住まう所でした。瀬戸内海上の島にある、海上交通の神とされる大山積神を祭る大山祗神社が、伊予国の一宮として定められているのも、伊予が海民の国であることを朝廷が認識している証でもあります。その大山積神を祖先とした伊予国の在地首長に越智氏がいますが、朝鮮や中国南部との交易を行ったとされる伝承を遺しています。また、中世においては、海上における関銭徴収を行う海の領主として、河野氏や村上氏といった水軍を生み出しました。そのような海民に、陸上に住まう人たちが刃を向けられるような事態に陥った時、畏怖した彼らは海民を「海賊」と呼んだのでしょう。
藤原純友が伊予掾だったのは、承平二年(932)から承平五年のころと推定されています。実は、父藤原良範の従兄弟に当たる藤原元名(清経男)が、この時期の伊予守でした。元名が純友を伊予掾に抜擢したのは、大宰府にて若い頃に海民と繋がりを持ったと思われる、従兄弟の子純友の存在を知ったからでしょう。当然ながら、この頃は瀬戸内海における海賊の活動に朝廷が苦しめられた時期です。伊予掾となった藤原純友は、大宰府における経験と人脈を生かし、海賊と対等に渡り合ったと思われます。
承平六年六月の時も、海賊追捕の宣旨をうけた前伊予掾の藤原純友が、海賊との交渉にあたったと思われます。その甲斐あってか、純友は海賊集団を大量投降させることに成功しました。文才だけが取り得の紀淑人に、血の気の多い海賊に対して交渉ごとを行えるだけの能力があるとは、到底考えられません。なれば、海賊の叛乱を収束させた功績は純友にあるはずですが、朝廷は彼に何の勲功も与えませんでした。純友が土着したことを良いことに、淑人は得意の文才で自身の功績を潤色し、朝廷に報告の国解を提出します。おかげで淑人は従四位下伊予守に出世を遂げるのです。その怨みは、三年後に爆発することになります。
「藤原純友の乱」勃発
藤原純友、決起する。
天慶二年(939)、この年の始めに平将門が東国にて叛乱を起こし、また夏には西国にて旱魃が発生するなど、日本国内に不穏な情勢が漂っていました。その年の暮の12月下旬、受領の備前介藤原子高や播磨介島田惟幹が、摂津国菟原郡須岐駅にて襲撃されるという事件が発生します。この襲撃によって子高は耳を切られ鼻を削がれるなどの暴行をうけ、子息は殺害、妻は略奪されるなどの被害を受けます。首謀者は、備前国にて土着した負名の藤原文元で、藤原純友は文元に援軍を送り、子高襲撃の手助けを行います。これらの事件が、「藤原純友の乱」の始まりです。
この事件が発生した頃の10世紀初頭は、律令時代から王朝時代への移行の時期といわれています。特に重要なのが、人頭税方式によって郡司が徴収する地方への課税から、国司に対する請負制による地方からの収奪への変更という、税制の変革です。それ以前は、租庸調による課税が奈良時代から運用されてきましたが、この頃になると、税負担者の名簿である戸籍に改ざんや記入漏れが頻発します。これはもちろん、課税から逃れようとする農民(あるいはそれを横取りする在地首長)の存在があったためで、実体と合致しない戸籍では、地方からの徴収に破綻をきたすのは当然といえましょう。そのような9世紀末において、税制の改革によって出現したのが、一国からの収奪責任を持つ受領という人々と、地方において税の納入責任を負わされた負名です。
この方式によって、郡司が労力を費やして戸籍を作って口分田を用意せずとも、国府は地方からの収奪が可能となります。特に、元来郡司層だった古代からの在地首長の手を煩わすこともなく、中央から派遣された受領貴族によって国土を支配することができます。その結果国庫は潤い、それゆえに中央貴族には豊かな生活がもたらされ、それは後に「延喜・貞観の治」と呼ばれるほどの「伝説」として語られます。しかし、それは今まで地方から収奪できなかった生産物の存在を示しており、それが収奪されてしまった地方には貧困がもたらされます。当然ながら、収奪される側の負名と収奪する側の受領の間には、収奪をめぐる鋭い対立関係があったことは云うまでもありません。
当然ながら、備前国にて受領の藤原子高に対立していたのが、負名である藤原文元です。同様に、播磨国では受領の島田惟幹と、純友に同心した播磨国の負名である三善文公の対立があったのでしょう。略奪される負名の怨みはすさまじく、受領への暴行行為がそれを如実に示しています。藤原純友が率いる武装集団は、文元や文公に加勢すべく伊予から遠征に出かけたのですが、それを知った子高は妻子を連れて京へと逃亡を図ります。結局は摂津国菟原郡にて武装集団に追いつかれ、文元に無残な暴行を受けるのです。
純友叙位と暴走する郎党
このような事件が発生したにもかかわらず、翌年天慶三年(940)の正月に中央政府は、藤原純友を従五位下に叔し、藤原文元に何らかの官職を与えます。実は、この時の中央政府は、東国における平将門の叛乱対策に謀殺されていました。恐らくは、中央政府は東西の叛乱軍に対して鎮圧軍を派遣することを避け、ひとまずは東国の叛乱鎮圧に力を入るつもりだったのでしょう。純友や文元への叙位は、中央政府の時間稼ぎの策なのです。その時の中央政府は、「将門記」で記されるような宮中の混乱ぶりを見せることもなく、適切な判断を下すことが出来たのです。
惜しむらくは、東西の叛乱軍が同時に攻勢をかける機会を逸したことです。果たして純友は、二月、叙位への奏慶を目的として、武装集団を引き連れて上洛を試みます。これに対して中央政府は、純友上洛阻止のために、追捕山陽道使に加えて追捕南海道使を任命します。それは、南海道すなわち四国に対する、中央政府の軍隊派遣への意思の表明です。結局、純友は上洛を断念せざるを得ず、三月に位記伝達使に叙位の謝意を伝えます。それは、承平六年六月の功績を、純友がいかに切望していたかの表れなのでしょう。
一方の文元は、二月頃までに備前・備中を実効支配下に入れるなど、中央政府からの懐柔策を無視する行動に走ります。また、その前には純友の郎党とされる前山城掾藤原三辰が讃岐国で呼応し、やはり受領の讃岐介藤原国風に対して叛乱を起こします。これによって三辰は国風を淡路に追放し、讃岐・阿波国の征服に成功します。純友の郎党は、山陽道や南海道を実効支配したことになります。しかし、そのような中央政府に反旗を翻す事態は、もともと中央志向であり、叙位を望む純友の思惑とは逆行しています。どうやら、藤原純友が率いる武装集団に、足並みの乱れが見え始めます。
西国への懐柔策が浸透する一方で、東国では平将門が敗北、斬首されます。この時点で、東国での叛乱は鎮圧に向かいます。これによって中央政府は、その軍事力を西国にむけることが可能となるのです。
賊軍追討、そして敗走
六月、中央政府は殿上にて「純友の暴悪士率」追捕を決定し、官符を発します。直接純友を罪人と名指しせず、その郎等に矛先を向けることで、純友配下の武将集団の分裂を誘います。果たして、八月頃に追捕山陽道使小野好古は、備前・備中・備後の制圧に成功します。この地域を占領していた文元は、讃岐へ逃亡します。
この時点で純友は、遂に政府に対して公然と叛旗を翻すことを決断します。八月中旬、純友は四百余艘の兵船を率いて讃岐国に入ります。ここで純友は文元・三辰と合流します。これに対して、政府軍は八月下旬に、追捕山陽道使好古に追捕南海道使の兼帯を命じ、飛駅勅符で諸国に兵士動員を図ります。かくして「純友の乱」は、全面的な戦乱へと発展するのです。純友の兵船は、十月には安芸・周防国方面を、十一月上旬には周防国鋳銭司を、十二月中旬には土佐国幡多郡を、それぞれ襲撃します。そのような神出鬼没な攻撃を繰り返す純友軍を政府軍が抑えきれないまま、一連の事件は再び年を越します。
天慶四年(941)に、情勢は変化します。正月下旬、叛乱軍から寝返った藤原恒利という人物が讃岐国での先導を勤めます。これによって政府軍は、讃岐の叛乱軍を撃破することに成功します。この戦いの結果、藤原三辰は捕縛され、処刑されたのち、京にて曝し首にされます。この戦い以降、情勢は政府軍の方に傾きます。二月上旬には、政府軍は伊予の叛乱軍を撃破し、ついに伊予国の鎮圧に成功します。純友の本拠地である伊予が政府軍に奪還されたのならば、純友は行き場を失ったはずです。
しかし、政府軍は純友の捕縛には成功しませんでした。純友は豊後水道に浮ぶ交通の要衝・日振島に築いた拠点に篭り、反撃の機会をうかがいます。その反撃の目標は、政府の思いつかない場所にあったのです。
九州上陸、宰都炎上
天慶四年(941)の五月中旬、藤原純友の軍勢が博多湾に上陸します。純友が目指した先は、大宰府政庁。果たして純友の叛乱軍は、大宰府に蓄えられていた累代の財物を強奪し、政庁施設に火を放ちます。この時の政庁施設は八世紀初頭に建造されたもので、万葉の時代の歌人も利用した施設でした。そのような歴史を持つ建物群も、叛乱軍が放つ火によって、瞬く間に炎上してしまいました。
なぜ、純友は大宰府を目指したのでしょうか。父親が大宰小弐であったときに滞在経験があり、海民としての接点も強い純友であれば、大宰府の地理に詳しいこともあるでしょう。それ以上に、ここは「西極の大壌」と呼ばれた西国の政治の拠点です。同時に、九州全土に対する収奪の拠点でもあります。先に説明した税制改革によって、同様に収奪で苦しめられた(或は横取りされた)従来の在地首長は、当然ながら大宰府に怨みをいだいているはずです。実際に、大宰府を襲撃した叛乱軍の中には、九州の豊後・日向の在地首長と思われる、佐伯是基や桑原生行が加わっています。日振島に篭っている間に純友は、叛乱軍に賛同する在地首長を探して、叛乱軍を再組織したのでしょう。
しかし、政府軍の反撃はすばやく、五月下旬には海陸両面より追撃を開始しました。陸路は追捕長官山陽道使小野好古で、海路は追捕使主典大蔵春実(のちの原田氏の祖)です。迎え撃つ叛乱軍は、到来した政府軍と死闘を繰り広げます。しかし、春実が「髪を乱し」て叛乱軍の陣地に突入、政府軍の藤原恒利や橘遠保がこれに続き、叛乱軍は崩壊します。そして、政府軍は純友率いる武装集団の船を焼き払い、叛乱軍を壊滅に追い込みます。純友や叛乱軍は、散り散りとなって敗走せざるを得ませんでした。大宰府での起死回生の賭けは、失敗したのです。
敗走と叛乱終結
純友・重太丸親子の落ち延びました先は、伊予国でした。しかし、追手の政府の探索は厳しく、六月中旬に伊予警固使の橘遠保に見つかってしまいました。二人は捕縛され、斬首、将門同様に首を晒されました。他の叛乱軍の人達も、九月中旬に播磨にて三善文公が、十月中旬に藤原文元と弟文用が但馬で、それぞれ殺されます。その結果を受けて政府は、十月下旬の、追捕南海道使と諸国警固使を停止させます。それは、東西で発生した「天慶の乱」の終結宣言でもありました。
ちなみに、天慶五年(942)三月、「純友の乱」鎮圧に功績があった橘遠保が美濃介、大蔵春実が対馬国に任官されます。特に大蔵氏は、こののち大宰府に土着し、大宰府の在地武士団の家として、九州に根を張っていくことになるのです。一方で、佐伯氏や桑原氏のような古来からの在地首長は、この時期に時代の変化に飲み込まれて、衰亡することになります。大蔵氏の土着化とは、古来からの在地首長から地方支配権を奪い取った、その象徴なのです。もしかしたら、「純友の乱」に同心して、結局壊滅した在地首長は、他にも存在したかもしれません。
なお、「刀伊の入寇」で功績があった大蔵種材は、春実の孫とされています。その時に活躍した武士団の名前には、大蔵氏同様に中央貴族由来の姓が名を連ねます。この時代は、在地首長の支配が崩壊し、中央貴族由来の武士団が地方支配権を握る、その境目だったのです。
「藤原純友の乱」その後
「檜垣の嫗」が語る惨状
「大和物語 百二十六段」には、「藤原純友の乱」によって戦禍を受けた「檜垣の嫗」の物語が記されています。追捕長官山陽道使だった小野好古が、大宰府で名高い「檜垣の嫗」を探索すると、戦禍によって零落した嫗が身の上を語る歌を読み上げる、と云うのが内容です。
ちなみに、この「大和物語」にて「藤原純友の乱」は二箇所言及されていますが、東国の「平将門の乱」への言及個所はありません。「平将門の乱」が一年で終結したのに対し、「藤原純友の乱」はそれまで海賊出没の騒ぎが続き、決起から残党掃討まで二年を要しました。この間、大陸との交易に支障がでたことは、想像に難くありません。なれば、大陸からの交易品を愛好する中央の貴族にとって、気が気ではない出来事になります。それに比べれば、東国の叛乱が大陸との交易に影響を与えるはずもありません。「大和物語」は宮中の事情通の女房が書き纏めたと云われていますが、東西の叛乱の扱いの差は、それぞれから受けた影響の大きさの現れなのでしょう。
ただし、実際にこの時代に、檜垣嫗という人物が存在したかどうかは不明です。むしろ、数十年前の人物に檜垣嫗という人物が似たような歌を贈ったという物語(「後撰和歌集 巻第十七 雑三」1219番)が他にあることから考えれば、この記述が実際の出来事である可能性は極めて低いでしょう。むしろ、「大和物語」からは、宮中において「純友の乱」を聞いた印象を読み取るべきでしょう。
大宰府政庁遺跡が語るその後
大宰府政庁遺跡から発掘された政庁施設の遺構は、建造されたと思われるその時代から、第I期・第II期・第III期に分けられます。第I期遺構は七世紀後半建造の掘立柱、第II期遺構は八世紀初頭建造の礎石群となります。第III期遺構は十世紀後半に建造された礎石群で、第II期との間には大量の焼土が堆積されていたことが確認できました。第II期遺構は十世紀中頃まで存続した模様で、藤原純友が率いる叛乱軍が放火した政庁施設が、第II期の建造物であることは間違いありません。焼土の多さは、「純友の乱」がもたらした戦禍の凄まじさを物語っています。
しかし、戦禍にもかかわらず、大宰府政庁は再建されました。現在大宰府政庁跡の地表に現れている礎石群が、第III期の政庁施設遺構です。しかも、第III期は第II期よりも大規模な施設であることが分かっています。このような施設の建造を可能としたのは、大陸との交易拠点として重要視する、中央政府の意向なのでしょう。こののちもまだ、大陸との交易拠点である大宰府は存続していくのです。
大宰府再建を遂げた実際の人物は、今のところ不明です。私見ですが、天慶八年(945)十月に大宰大弐となった、元追捕長官山陽道使の小野好古を可能性として挙げておきます。
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