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(回答先: 「自決強制」真相が語られ始めた! [軍事評論家=佐藤守のブログ日記] 投稿者 ルルルン 日時 2005 年 7 月 25 日 23:16:36)
日本人を殺すために機能した天皇制
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投稿番号:18873 (2003/09/14 00:57)
投稿者:ノンポリ()
mail:
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内容
(この投稿も、宮城晴美・著 高文研「母の遺したもの――沖縄・座間味島『集団自決』の新しい証言」より激しく引用させていただきます)
座間味島駐留軍の最高指揮官であった梅澤裕・元戦隊長は、「朝鮮人慰安婦と心中した」などとトンデモない噂も立てられましたが、実際はアメリカ軍上陸によって捕虜となり生き永らえました。
しかし、自分が自決命令を出したことになってしまったので勤務先に居づらくなって職を転々としたり、息子が反抗して家庭が崩壊するなど、辛い戦後の日々を送っていました。
宮城初枝さんが「梅澤隊長が自決命令を出したわけではなかった」と告白した1977年の3年後、娘の宮城晴美さんは梅澤氏を沖縄に招き、那覇のホテルで宮城初枝さんと梅澤氏は35年ぶりに再会しました。
そこで初枝さんは、住民自決の直前の1945年3月25日、宮里盛秀を筆頭に自分を含めた村の有力者5名が梅澤隊長を訪れ(梅澤氏はそのこと自体を忘れていたそうです)、宮里が住民自決を願い出たところ梅澤隊長はその5名を「そのまま帰した」ことを語りました。
梅澤氏は「ほんとうですか」と驚き、初枝さんの手を握り締め「男泣き」したそうです。その後梅澤氏は戦後の辛い生活などを涙を流しながら語り、二人は4時間余りも話しこんだそうです。
翌日一行は定期船で座間味島へ向いました。梅澤氏は隊員が斬り込み突撃をした場所で「○○くん、すまなかった」「△△くん、許してくれ」などと号泣したそうです。
しかし住民集団自決の場所を案内したところ、「あ、そうですか。この菊の花を手向けますか」と、ヒロヒトみたいな軽い反応だったそうです。
那覇に帰る船の中で晴美さんが沖縄戦の写真集をお土産にと渡そうとしたところ、「烈火の如く怒り」、「こんなもの見たくない」と投げ帰したそうです。晴美さんは話題を変えようとして「那覇についたら観光なさいますか。南部戦跡などどうですか」と言ったところ「あんな負けいくさを象徴する場所に誰が行くか」とますます怒りだしたそうです。
梅澤氏にとって、沖縄戦は単なる「負けいくさ」であり、住民の自決は「勝手な行動」だったのでしょう。自分がアメリカ軍の捕虜になったように住民にもいざとなったら投降することを覚悟させておけば惨劇は無かったことなど、考えたことなどないのでしょう。
そもそも沖縄を舞台とした凄惨な地上戦が展開されなければ、日本が無謀な戦争を起こさなければ、沖縄は惨劇に見舞われなかったのです。太平洋戦争は軍人同士が戦った末に「負けいくさ」になったというだけではなく、多くの国民が犠牲となったこの国の大災厄だったのですが・・・・・梅澤氏はそういう視点を全く欠いていたようです。
その後の梅澤氏の行動は実に醜悪なものでした。1987年には故・宮里盛秀の実弟「M・Y氏」を訪れ、「自分が命令していないという書面を準備しているので、証明の印鑑を押してくれないか」と要請しました。「M・Y氏」は、当初は「自分自身、当事は島にいなかったし、知らないことなので押印できない」と断りましたが、梅澤氏はそのとき「M・Y氏」の「戦友」だという福岡県出身の男性2名と同行しており、その男性2名は挨拶代わりにと泡盛(強い酒だよ)を持参していました。4人は宮里宅で夜を徹して飲み続け、朝7時(!)ごろ梅澤氏は、泥酔している「M・Y氏」に「決して迷惑はかけないから」と頼み込み、押印させてしまったのです。
そして梅澤氏は宮里宅を後にし、「バンザイ!」「バンザイ!」と一人で叫んでいたそうです。数時間後には梅澤氏は那覇へ向う船に乗っていました。そのころ酔いつぶれた「M・Y氏」はまだ熟睡していたそうです。
これ以来、座間味島にはマスコミが押しかけ、「M・Y氏」は「座間味村遺族連合会会長」を更迭され、初枝さんも村内で厳しく抗議されました。「決して迷惑はかけないから」という約束は全く反古にされてしまったのです。また、その後梅澤氏は右翼団体と関係するようになり、「鉄の暴風」を発行した「沖縄タイムス」の東京支社には街宣車が乗りつけたそうです。
梅澤氏本人にとっては、自分は自決命令を出さなかったことを明らかにすることが最も重要なことだったのでしょうが、そもそも日本軍人の中の特定の個人によって自決命令が出されたか否かの解明など、この悲劇の本質を取り違えていると言えるでしょう。
こうした騒ぎの中で初枝さんの心労は増し、1990年永眠されました。その後娘の晴美さんは母の遺品から、前年の1月7日、つまりヒロヒトがケツから血を流しながら死んだ日に書かれたメモを発見します。
「静かに更けていく昭和の時代も、後30分で終わりを告げようとしている
本当に激動の時代であった
たとえ元号は変わっても、戦争への思いは変わらないであろう
しかし天皇はうらめない
かえって天皇のお姿がこの世から消えるかと思うと淋しい
新元号「平成」、どんな時代になるのだろう。子や子孫のために、平和な世の中になってほしい」
・・・・・晴美さんは、戦前・戦中を過ごした母と戦後生まれの自分は天皇制に関する見解が異なることを感じていました。
晴美さんが母に「『集団自決』を含めたこの戦争の被害は、天皇を頂点にした国家体制がもたらしたものであり、天皇にも当然責任がある」と語ったところ、
初枝さんは「確かにそうかもしれない。でもね、私は天皇を責める気持ちにはなれないのよ。逆にかわいそうに思ってしまう。皇民化教育を受けた私たちの世代は、ほとんどが同じ気持ちだと思うよ。戦後生まれのあなたにはわからないでしょうけど」と答えたそうです。
そもそも沖縄は日本の領土ではありませんでした。1879年の「琉球処分」以来、沖縄の人々は「ヤマト化」することを要求され、またそれを受け入れていました。「珍奇な名前は改めよう」の号令の元、沖縄の苗字を「ヤマト風」に改名する人も多かったのです。(ところで「玉城」は「タマグスク」と読むけど・・・・「山城」という沖縄県出身の知人を、いつも「ヤマシロちゃん!」と呼んでたけど、元々は「ヤマグスク」と読むのが正しかったのかな?)初枝さん自身も若いころ、名前を「カミ」から「初枝」に改めたそうです。
本土から遠く離れた沖縄県の中のそのまた小さい離島だった座間味村の人々の視点は、「県都の那覇を通り越して皇居(当時は宮城といった)のある東京に向けられ」、早く「ヤマト」と一体化しようと焦ったのです。
このような青春時代を過ごしてきた初枝さんにとって、沖縄が受けた悲劇は天皇制を中心にした軍国主義がもたらしたことを、ヒロヒトは決してただのお飾り人形だったわけでなく戦争遂行に係わり、また戦後は「天皇メッセージ」によってアメリカによる「二十五年乃至五十年或いはそれ以上」のアメリカによる沖縄統治を「希望」すると表明するような男だったことを、直視するのは辛かったのかもしれません。
・・・・「母の遺したもの」の最終章で著者の宮城晴美さんは、次のように「集団自決」を分析しています。
「・・・・しかしながら、畳二枚に21発という圧倒的な砲火にさらされ、完全に逃げ場を遮断されて、心理的にも徹底的に打ちのめされた住民が現実に米軍と向き合ったとき最後にとった行動は、『玉砕』だった。捕らえられれば女性は凌辱され、子どもまで虐殺されるという恐怖心から、せめてこの手でと、わが子をはじめ愛する者を次々に殺し、自らも『死』の途を選択した。
そこではもはや、『隊長命令』は本質的な問題ではなかった。細胞のすみずみにまで染み込んだ『皇国』への忠誠心、『鬼畜米英』への異常なまでの憎悪と恐怖が、結果的に住民を『玉砕』へと導いていったといえる。それは、明治以来、人々を洗脳しつづけた『国家』による住民への『死への強要』以外の何ものでもなかった。『集団自決』は、まさに“皇国日本”の総決算であったといわなくてはならない」(P-275)
全く同意です。座間味島や渡嘉敷島の人々は、天皇制を中心にした軍国主義・日本に、「自決」という形で殺されたと言えるでしょう。
・・・・・ところで1995年に、沖縄県南部の糸満市に「平和の礎(いしじ)」が建立され、国籍を問わず沖縄戦で亡くなった人々約23万人の名前が刻印されています。
場所は「沖縄県平和記念資料館」のすぐそば・・・・・つーか「平和の礎」の外周上に資料館が立っています。
http://www.pref.okinawa.jp/97/ishiji/ishiji-j.html
座間味村出身者も677名含まれており、その中で集団自決によって亡くなった人々は135人ということです。
ところで、沖縄戦に動員され亡くなった朝鮮人軍人・軍属、従軍慰安婦は、少なくとも数千人に上ると見られています。しかし1995年の完成時に刻印されていたのは、大韓民国51名、朝鮮民主主義人民共和国82名、合計で僅か133名でした。
在日本大韓民国民団沖縄県地方本部の団長は、「平和の礎」除幕式の式辞の中で次のように述べたそうです。
「ここで忘れてならないことは、犠牲者の遺家族の中で子々孫々永代の恥辱であるとの理由で、刻印を拒んだ方々がおられたということです」
(この部分は、新崎盛暉・著 岩波新書「沖縄現代史」より引用しました)
韓国や北朝鮮の沖縄戦戦没者の遺族の多くは、「平和の礎」に自分の亡くなった親族の名前が刻印されれば、それは「子々孫々永代の恥辱」だと感じたということですが全く当然だと思います。自分の親族が、母国を奪った国が起こした馬鹿げた戦争に動員されてしまったという屈辱の記憶が、石碑に刻まれ永遠に残るというのは、ご先祖さまを大事にするお国柄、耐えられないことなのでしょう。
話は飛びますが・・・・私の祖父は健康上の理由で徴兵を免れました。父の話によると、東京大空襲の後には焼死体の後片付けをしていたそうです。
もしも私の祖父が戦場で亡くなっていたとしても、靖国神社なんぞに祀られるのは断固として拒みますね。無益な戦争に動員されて命を奪われてしまった挙句に、その無益な戦争を美化しようとする奇天烈な宗教団体に祀られるなんざ、真っ平御免です。そもそも、ああいう無意味な戦争に協力してしまったこと自体、自慢できるようなことでは無いと思います。
日本の無駄な戦争に動員されてしまったこと自体を恥辱だと感じる韓国・北朝鮮の遺族同様、日本人もあの戦争に協力していたこと自体を恥だと感じるべきでは、ないでしょうか?