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(回答先: 蘇我入鹿邸跡か、奈良・明日香村で出土 ( YOMIURI ONLINE ) 投稿者 gataro 日時 2005 年 11 月 14 日 09:09:37)
http://www.asahi.com/paper/editorial.html
西暦645年。歴史を学ぶ日本人の多くが最初に覚える年号だ。蘇我入鹿(そがのいるか)が、天皇の宮殿で中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)に殺された。中央集権国家の幕開け、大化の改新である。
日本書紀に克明に記された古代史最大の政変だが、物証がない。
日本書紀からは、入鹿が殺害された翌日、邸宅に逃げ帰った父親の蘇我蝦夷(えみし)が火を放って自害したと推測される。
その痕跡とみられる遺跡が、奈良県明日香村で見つかった。奈良文化財研究所が甘樫丘(あまかしのおか)という国営公園の域内で続けていた発掘調査で、入鹿邸の一部と思われる建物跡を5棟見つけたのだ。焼けた土や炭、当時の土器も出土した。
16日に開かれた見学会には、平日にもかかわらず4500人が詰めかけた。現地の赤い土を見ていると、1300年以上も前の出来事でありながら、そのイメージが大きく膨らんでくる。
日本書紀は、入鹿邸と蝦夷邸が並んで立ち、武器庫を備えた要塞(ようさい)のような構造だったと伝える。甘樫丘の尾根から望むと、800メートルほど離れた天皇の宮殿跡を見下ろすことになる。ここが本拠なら、天皇家の親類として力を付けた蘇我氏の権勢ぶりがうかがえる。
ただ、建物跡の規模が小さく、蘇我氏が滅びた後の7世紀後半の土器も出土していることなどから、入鹿邸跡と断定するには不確定な要素も残る。
もっと規模の大きい建物跡が出土すれば入鹿邸としての確実さは増す。近くに蝦夷邸の跡があるかもしれない。さらに調査を進めてもらいたい。
幸運なのは、発掘現場が私有地ではなく、国土交通省が管理する歴史公園の一角であることだ。詳しい調査を進めるうえで、支障はほとんどないだろう。
聖徳太子と、入鹿の祖父の蘇我馬子が編纂(へんさん)したという「天皇記」と「国記」の存在にも注目したい。日本書紀では、これら最古の史書は燃やされたとあるが、その国記は救い出されたとも記されている。木簡などが出土すれば、日本史を書き換える可能性もある。
日本書紀は天皇家から見た歴史観に貫かれている。そのため蘇我氏を実際以上に悪く描いているという指摘がある。蘇我氏側から見た史書の一端が明らかになれば、多面的な視点で当時の歴史に光を当てることができる。
「地上に万葉集、地下に日本書紀」。明日香村を、こう例える研究者がいる。法律で守られた村の風景には万葉の景色が残り、地下を掘り進めば遠く日本書紀の痕跡が姿を現す。発掘は、日本の起源を知るうえでは欠かせない。
高松塚古墳の壁画保存の失敗は、文化庁が説明責任と情報公開を果たさなかったことが大きな原因だった。
その轍(てつ)を踏まないためにも、発掘の成果を広く国民に伝えることが肝要だ。奈文研と奈良県、明日香村は連携し、考古学ファンだけでなく、小中学生にも分かりやすい説明を心がけてほしい。