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(回答先: 大化改新、舞台に迫る 明日香・甘樫丘東麓遺跡 ( asahi.com ) 投稿者 gataro 日時 2005 年 11 月 14 日 09:02:19)
関西発
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20051114p101.htm(写真は asahi.com 記事のものと近似しているので省略)から転載。
蘇我入鹿の邸宅の一部とみられる建物跡が出土した甘樫丘東麓遺跡(奈良県明日香村川原で) 大化改新(乙巳=いっし=の変、645年)で中大兄皇子(後の天智天皇)らに暗殺された飛鳥時代の大豪族、蘇我入鹿(いるか)の邸宅「谷(はざま)の宮門(みかど)」の一部とみられる建物跡5棟の柱穴が奈良県明日香村川原、甘樫丘東麓(あまかしのおかとうろく)遺跡で出土し、奈良文化財研究所が13日、発表した。建物が谷を大規模に造成して建てられ、焼けた壁土なども見つかるなど、日本書紀の記述と一致した。古代の豪族支配を象徴する蘇我氏と、国家の大改革を導いた大化改新の実態を物語る一級の資料となる。
現場は入鹿暗殺の舞台となった伝飛鳥板蓋(いたぶき)宮跡(飛鳥京跡)の西約600メートルで、蘇我氏が建てた日本最古の寺、飛鳥寺の南西約600メートルに位置する甘樫丘のふもとにあたる。
同研究所が約730平方メートルを調査、建物5棟分の柱穴と長さ12メートル以上の塀の跡が見つかった。うち1棟は幅10・5メートル、奥行き3・6メートルの規模で、直径30〜20センチの柱穴が並び、柱筋に沿った溝(深さ30〜20センチ、幅80センチ)に7世紀前半の土器、焼けた土や炭が埋まっていた。倉庫などとみられ、母屋にあたる主要建物はさらに東側にあると予想される。現場南隣の斜面では1994年の調査で、焼けた壁土や建築部材、土器が出土しているが、建物跡が確認されたのは初めて。
日本書紀によると、皇極3年(644年)11月に「蘇我大臣蝦夷(おおおみえみし)と子の入鹿は家を甘樫丘に並べ建てる。大臣の家は上の宮門、入鹿の家は谷の宮門という」という記述があり、翌645年6月に入鹿が暗殺された翌日、蝦夷が自邸と入鹿邸に火を放って自害したとしている。
今回の発見について、研究者の中には「中心建物が見つかるまで断言できない」とする慎重意見もあるが、同研究所は、周辺に母屋や「上の宮門」などがあるとみており、来年度以降も調査を続ける。現地見学会は16日午前10時〜午後3時。
和田萃・京都教育大教授(古代史)の話「大化改新は強大な権力を持っていた蘇我氏が滅び、天皇家が権威を取り戻して律令体制を固める契機となった古代国家最大の政争。その舞台が発見されたことで、歴史の実態に近づくことができる非常に重要な成果だ」
(2005年11月14日 読売新聞)