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大化改新、舞台に迫る 明日香・甘樫丘東麓遺跡 ( asahi.com )
http://www.asyura2.com/0505/ishihara9/msg/278.html
投稿者 gataro 日時 2005 年 11 月 14 日 09:02:19: KbIx4LOvH6Ccw
 

(回答先: 蘇我入鹿の邸宅跡か 奈良・明日香村ふもとで建物跡出土 ( asahi.com ) 投稿者 gataro 日時 2005 年 11 月 14 日 08:52:26)

文化・芸能
2005年11月13日23時04分

http://www.asahi.com/culture/update/1113/010.html

から転載。




大化改新の人物相関図


 「やっぱりあったか」。奈良県明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)東麓(とうろく)遺跡で見つかった建物や塀の跡に、考古学者らの興奮が高まった。11年前、焼けた木材や土などが近くで出土し、「焼失した蘇我入鹿(そがのいるか)邸の痕跡では」と話題になった場所だ。古代史上最も有名な政治改革、大化改新のきっかけになった蘇我氏滅亡の舞台なのか。決定的な証拠を求めて調査は続く。

 奈良文化財研究所の豊島直博研究員は、今回の調査担当に決まったこの春、同僚らに冷やかされた。「いいところに当たったな」。94年に焼けた木材などが大量に見つかった場所のすぐ脇だったからだ。その期待通り、建物跡が出てきた。

 日本書紀はこう伝える――。皇極天皇3年(644年)の冬、甘樫丘の頂上とふもとに邸宅が築かれた。蘇我大臣(そがのおおおみ)蝦夷(えみし)の「上(うえ)の宮門(みかど)」と、その子入鹿の「谷(はさま)の宮門」。家の外に城柵(きかき)、門の近くに兵庫(つわものぐら)(武器庫)があった。

 丘の上から宮殿(飛鳥板蓋(いたぶき)宮、後の飛鳥浄御原(きよみはら)宮)を見下ろす蝦夷邸は、蝦夷の妹の法提郎媛(ほてのいらつめ)を天皇家に嫁がせることで強大化していく蘇我氏の権力の象徴だったのだろう。

 約半年後の645(大化1)年、入鹿は宮殿で政敵・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(天智天皇)に暗殺され、蝦夷は翌日、邸宅に火を放って自害。このクーデター「乙巳(いっし)の変」で蘇我氏は滅ぶ。天皇中心の中央集権化を進める大化改新が始まり、元号も初めて導入された。

 今回の調査で、小規模だが5棟分の建物跡が見つかった。しかもそこは、日本書紀が入鹿邸のあった場所と記す「谷」だ。11年前の調査の担当者、奈良文化財研究所の次山淳・主任研究官は「予想通りだ。建物が小さいので、邸宅の周辺施設ではないか」と声を弾ませた。

 一方で、蘇我氏滅亡後の7世紀後半の土器や整地跡も見つかり、入鹿邸と断定するには謎が残る。ただ、巨大氏族が最期を迎えた地を、天皇家が再利用したとも考えられる。猪熊兼勝・京都橘大教授(考古学)は「蝦夷の父、馬子の邸宅跡も後に天武天皇が使っている。蝦夷・入鹿の屋敷跡を天皇家が利用しても不思議ではない」と話す。

 河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)は、邸宅跡が天皇家の苑池(えんち)(庭園と池)の一部になったのではと推測する。飛鳥川を挟んで南東約400メートルには、7世紀後半の斉明天皇時代に築かれたとみられる「飛鳥京苑池」(国史跡・名勝)がある。「蘇我氏は天皇家にとって目の上のたんこぶ。その本拠地跡を苑池に取り込み、天皇の権勢を示したのではないか」と想像を巡らせる。

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