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(回答先: 福岡の古墳から武装石人出土〜筑紫国造磐井の息子埋葬か(読売新聞) ― 「葛子の墓」説 投稿者 シジミ 日時 2005 年 8 月 07 日 19:28:03)
福岡県八女市教委は五日、同市北部の八女古墳群の前方後円墳「鶴見山古墳」周辺で、ほぼ完全な形の武装石人一体が発掘されたと発表した。古墳は、地元の有力豪族が大和朝廷に敗れた「筑紫君(つくしのきみ)・磐井の乱」から二十―三十年後の六世紀中ごろの築造で、専門家は、乱後も磐井一族が一定の勢力を保持していた可能性を示す貴重な発見としている。
同市教委によると、磐井の敗北で一帯は大和朝廷の支配下に置かれ、その後古墳などに副葬品として建てられた石人(石像)は「戦い」を示す武装した男性像から平和的な婦人像などに変化したとする説が有力だった。
しかし、乱後に造られた古墳から武装石人が出土したことで、引き続き磐井一族がこの地域で勢力を保っていた可能性が強まったとしている。
武装石人は前方部前面の周溝から出土した。高さ一五八センチで凝灰岩製。両手や鼻は欠けているが、かぶとや短甲(短い鎧(よろい))の形は残っており「人の姿を写実的に表し、ほぼ完全な形で発掘された武装石人は全国初」(同市教委)という。
同古墳は、磐井の墓とされる前方後円墳「岩戸山古墳」の西約二キロに位置。磐井一族直系の古墳にしか見られない武装石人の発見で、息子である葛子(くずこ)の墳墓という説もさらに有力になったとしている。
佐賀大・佐田茂教授(考古学)の話
磐井の乱後、北部九州で大和朝廷の支配が強まったのは確かだが、磐井一族の勢力もまた強大だったことがうかがえる。
磐井の乱
6世紀前半、北部九州で一大勢力を誇っていた筑紫君(つくしのきみ)・磐井が大和朝廷に対して起こした反乱。日本書紀などによると、大和朝廷の朝鮮半島政策に不満のあった磐井は527年、九州の北・中部一帯の勢力とともに決起、大和朝廷の朝鮮遠征軍の派遣を妨害したものの翌年末に鎮圧された。磐井は切られて亡くなったとする説と逃亡説がある。福岡県八女市の岩戸山古墳(国指定史跡)は磐井の墓とされ、一帯からは人や馬の形をした石製品が多数出土している。