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(回答先: 日本は行き詰まっています。 投稿者 考察者K 日時 2005 年 8 月 28 日 19:24:32)
>Kの主観ですが、デラシネさんの視点にも「欠け落ちている部分」があります。
>それは、日本の現状という部分です。
>国民世論が「郵政民営化」に傾いている要因の一つが、
>現在の庶民生活や労働者の労働環境の「出口の見えない閉塞感」という部分があるとKが主張しても
>現在海外在住のデラシネさんには理解できないだろうと思います。
前にも書きましたが、Kさんと小生、お互いがお互いを「読み違えて」いるのでしょうが、これはマクロと広角の違いで、ある程度は仕方がないと思っています。
ただ、今回小生がKさんの投稿につけたレスは、あまりにKさんに対し不親切すぎたと反省しています。
言葉足らずだし、とんでもない理論の「棒高跳び」をしていますし。
いちおう、Kさんが誤解されている部分だけは解いておきますね。
現在海外暮らしの小生ですが、小生も日本人であり、日本で生まれ、日本で教育を受けた人間です。
大正生まれの父親と、昭和初期生まれの母親のもと、田舎の都会で典型的な日本人家庭に育ちました。
父親の、「飢ユレハ食ヲ求メ、飽ケハ睡ルノ状体」という過酷な労働を間近に見て育った世代です。
ちょっと誇張はしすぎですか・・なはは・・ (^^;)
さらに小生、大学を出てから(日本で)恐怖の商社勤めをした経験も、海外に脱出したあと、途中で子供の教育のために一時帰国し、数年間日本で自営業をやった経験もある。
つまり、こちらの生活と日本の生活と、両方知っているのです。
会話の流れがあるので、ここでは日本人の「過重労働」に絞って書いてみようと思います。
ここから先は、小生の個人的人生経験という背景のもと、海外暮らしという「広角の目」で見た意見ですが。
その前に、基本的に小生という人間は、「『社会というものは、変えられない』と信じている人間」であることを、Kさんに申し上げておかねばなりません。
社会を変えることは、不可能であると・・。
ただ、これには「前提」がある。
「個人が変わらない限りは」という前提です。
つまり逆に言えば、「個人が変われば、社会も変わる」ということです。
さて、唐突なんですが、うちの子供らのことについて話します。
今まだこちらも子供たちは「夏休み」なんですが、ほぼこの休み期間中、うちの子供ら家におりませんでした。
ボーイスカウトのキャンプ等、概ね2〜3週間の日程で森に入り、乗馬をやったり湖で泳いだり、トラッキングをやったりしながら過ごします。
娘などは友人の別荘に招待されて行ったきり、もう半月も帰ってまいりません。
毎日森の中で、バーベキュー三昧のようです。
別荘などというと、日本ではブルジョワ階級の象徴みたいなものですが、小生の暮らすこの国では、たいていの家庭が持っています。
日本で誰もが車を持っているのと同じ様な感覚ですし、この国では車すら持ってない家庭でも、別荘は持っていたりします。
おおむね深い森の中の、湖畔の山小屋で、休みというと一家で出かけていって、「長い週末」や、数週間にもおよぶ夏休みを家族や友人と過ごす。
ところで小生の暮らすこの国は、日本などと比べると、経済的にはとても貧しい。
表に出ている平均所得は、月5万円といったところでしょうか。
また、失業率も20%を超えています。
まったく冗談ではないかと思うくらい一方の現実ともう一方の現実が乖離しすぎていて、理解に苦しみます。
ただ、この国の庶民は、じっさいこの両方の現実をあたりまえのこととして暮らしている。
一方の現実。
「働かなければ食べられない」し、「職は簡単に見つからない」のは、日本もこの国も一緒です。
失業率の高さにおいては、日本の比ではないのです。
小生は、現実に日本人が直面している苦しみと、この国の人々が直面している苦しみは、基本的には一緒だと思っています。
だが、「もう一方の現実」におけるこの国の人々と日本人のそれとの乖離の大きさは、何を持ってどう説明したらいいのでしょうか?
「何かが間違っている」のは明白です。
それは、「日本の社会が間違っている」のでしょうか?
もちろん社会は間違っていますが、それ以前に間違っているものはないのでしょうか?
社会が間違っている。
それは肯定します。
では、社会が間違っているから、それを是正すれば人々は幸福になるのか?
この問いかけは、日本人にすれば「最も聞かれたくないし、聞きたくない」ものでしょう。
そこのところは、「小生も日本人だから」わかるのです。
「責任を問われる」恐怖を、日本人は無意識の内に抱えている。
こちらでも小生、毎日毎日ネットを通し、日本での悲惨な話に触れています。
もちろん全てを一般化などできないし、お気の毒で仕方がない事例もたくさんある。
だが、敢えて言わせてもらえば、「なんでそこまで我慢せにゃならんかったんだ・・」と小生をして残念に思わせる顛末も、山ほどあるのです。
過労死や、過重労働の帰結としての自殺など、まさにそれです。
小生が暮らすこの国では、「想像を絶する」ことなのです。
Kさんは、「出口の見えない閉塞感」とおっしゃいました。
それは十分理解できるとした上で、それでもなお小生は、「出口を見つけるのは個人の責任」であることを訴えたい。
これはとても残酷な言葉と聞こえるかもしれないが、「人生に対する発想を変えてみれば」、残酷でも何でもないのです。
国際結婚をしている小生は、いつも家族と、「われわれにとって幸福な生活とは?」ということを話し合っています。
こういった確認作業を常にしていかないと、異文化を跨いで結婚した夫婦は上手くやっていけないのです。
ましてや、そこに子供までいると。
日本ではどうでしょうか?
一般的な家庭で、こんなこと話し合いますでしょうか?
そもそも家族会議なんてこと、やっているのでしょうか?
そんな作業も一切せず、いきなり「出口の見えない閉塞感に陥」っても、小生はなんて声をかけたらいいのかわからない。
ここのところの意味を、Kさん、少しでもご理解いただけますでしょうか?
もちろん、「問題をあまりに一般化しすぎている」きらいはあります。
それは十分、承知していますし、「不幸の責任を、その人に問う」ことが、如何に残酷なことであるかもわかる。
だが同時に、一般的な日本人が普遍的に抱いている「充足感のなさ」と「日常的に感ずる閉塞感」の原因は、その責任を「自分に求めず、自分以外に求めている」からであるというのが、およそ一本独鈷で海外に暮らしている在外邦人の、共通理解であると申しあげておきます。
それは、自分から求めて海外に出て行った人間というのは、おおむね「自分自身の生存についての全責任」を、自分ひとりの肩に背負って出て行っているからなんですね。
そして、その延長上において家族も持ち、家庭を経営している。
もちろん皆が皆、そうであるとは言いませんが。
アイルランドの話もしようと思って書き出したんですが、いつのまにかズルズルと、話が「自己責任」というほうに流れてしまいました。
この「自己責任」が、日本人が理解しているところの「自己責任」とは全く異質なものであることは、多少なりともご理解いただけますでしょうか?
むりやり結論めいたことを書いてしまうけど、小生が良い社会だと思う社会は、人々がそれぞれに、自信をもってオータナティブな生き方ができるような社会です。
だがこれは、決して「与えられる社会」ではなく、「個人が個人の責任において」自己のまわりから築いていく社会なんだろうなと思うのです。
これが西欧における、個人主義の要諦であろうと、長くこちらに暮らしている小生が密かに感じていることです。
ヨーロッパに暮らしていると、社会というのはひとつではなく、人々がそれぞれに「自分の社会」を纏って生きているような気がしています。
いろいろ誤解をうけそうな表現を使いましたが、Kさんにはできるだけ「正しく」小生の真意が伝わることを祈るばかりです。
でわまた。