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(回答先: 英治の国会報告:新橋帝国ホテルタワーの完成と小泉郵政民営化路程表の不思議な暗合 投稿者 馬場英治 日時 2005 年 8 月 11 日 12:38:04)
狭く薄暗い店の奥には12インチほどの古い小型テレビが青白く明滅し,その前に男
が前屈みになって,画面を覗き込んでいた.葉先に止まったカマキリのように痩せこけ
てほとんど身動きもせず固まった姿勢を保っているが,静かな外面とは裏腹に一瞬の
跳躍に備えて折畳んだ殺気を殺しているようにも見える.男はその動作に必要最小部
分の筋肉の緊張を緩めて鋭角の顎で振り返り,「やあ!」と言った.この店のマスター
である.70は疾うに越しているようにも見えるが,ほんとのところは分からない.
なんてラッキーなんだろう!普段はまったくテレビを見ない私であるが,今日こそは一
部始終をこの目で見届けたいという私の願望がこんなにも易々と実現することになろう
とは!参院での法案否決のあとのタイムテーブルはすでに固まり,当日午後7時頃衆
議院解散の手はずであることは承知していたが,もしこの国の首相にほんのわずか
でも正気というものが残っているとしたら,土壇場で「総辞職」ということもあり得るので
はないか,と私は考えていた.もちろんそれは首相の突発的な「改悛」という奇跡なし
には起こり得ないのであるから,もともと無いものねだりの不可能事ではあったのだが.
カウンタに続く奥の厨房から豊満な頬に満面の笑みを湛えたママが現れた.「しばら
くね.ずい分見なかったけど,どうしてた」.「まぁ,なんとか.そろそろお盆も近いから
(墓の下から)出てきたよ」と私.やや大胆に憶測すれば,髪は短めのかつらでわざと
不ぞろいに切り散じているように見える.脂の乗った滑らかな膚にコスメティックは完璧
な仕上がりを見せていた.相当な時間と相当な「コスト」をかけていることが窺える.顔
面の不特定箇所にランダムに散布された超微粒粉末はキラキラと目映い光を発して
私の目をくらませた.コスチュームが新調されたばかりであることも一目で分かる.胸
元を開いた夏向きのゆったりした薄地にスパンコールの施された貫頭衣である.縫い
取りの青い流線は光を帯び,蛍がふんわりと周囲を旋廻しているようにも見える.(こ
の部分の描写には確信がない.この衣服は下地が透けて見えるほどに薄いものであ
ったから,私の観察はあまり奥まで視線の届かないものになっていた可能性もある.)
確かにこの日この人の周辺には光が満ちていたと私は証言するにやぶさかではない.
カウンタの向こうから微笑みかけるひとの立ち姿を吉祥天にたとえるのも笑止と思わ
れるかもしれないが,容姿・スタイルにあまりかまわないこの人の普段を知る人ならこ
の日に限って私が受けた特別な印象を多分承認してくれるに違いない.もっとも重要な
点はママがあらかじめ今日私がここに来ることを知っていて(私はまだそれを確定して
いなかった!),それを(時間外に開店するまでの準備をして)待ち受けていたというこ
とである.もちろん,私はそのことに関してママに問い質すなどのことはしなかった.も
つれた糸玉をほぐそうとするとき,糸を強引に引いて解こうとすれば,あちこちキンクし
てたちどころに固い結び目を作ってしまう.そうなったら最後,どこかに鋏を入れる以外
解きようのないものになり,終にはその糸玉ごと捨てるしかなくなってしまうからだ.
まず,私はビールを頼んで中ビン一本を一気飲みした.次に頼んだレモンハイは受け
る方がたじろいでしまうほど小さなグラスで出てきた.私の(田舎人としての)イメージで
は酎ハイというのは大きなタンブラで出てくるものである.しかし,争っている場面では
ない.ママが無言で葉の付いた若い根生姜を取り出し何かしつらえようとしているのを
見て,私は「ちょっと待ってよ」と遮った.どうもママは私の財布の中身を読み切った上
で,超安上がりに時間を持たせるのに最適な素材として生姜を選んだ気配がある.だ
が,還暦を控えほとんど歯を失っていた私は,生姜など預けられてもこなしようがない.
しかし,ママは心得ていた.最後に立ち寄ってからもう1年あるいはもしかすると2年以
上も経っているのに,ママは私のことを全部覚えているかのようだった.もとより,ママ
は生姜をそのまま出すつもりもなかったのである.「ハンバーグはどう?熊本産だよ!」
「それだよ,それ」 私に取って,それ以上の選択は考えることのできないベストチョイス
である.私は空腹だったし,ずーっと何ヶ月も草食が続いていた.ハンバーグなら何の
過不足もためらいもない.よくそこまで分かったなぁ!と感嘆する.厨房に戻ってハン
バーグの段取りを付けると,ママは「馬刺しもあるからね.」と言って生姜を摺り下ろし
始めた.感極まるとはこのことだ!ほとんど,夢に見たというより,夢にさえ見なかった
ような饗宴が始まろうとしていた.もし,このカウンタがこんなにも広く,こんなにも高く
なかったら,私は多分ママの首に飛び付いてキスの雨を降らせていたに違いない.
「馬刺しはお店から!」と言って長四角の青い皿に盛られた薄切りの馬刺しが出てくる.
「どう?」「うん,絶品だ」「ほんとのところ,熊本かどうかも知りゃしないけどね」とママは
意外にも,結構懐疑派である.「今度また老人医療が値上がりするんだよ」,「えー!」
と私.「美濃部さんのころは無料だったっていうのにねー!」「そうだよね...」.
ママは前に銀座に割烹を持っていたこともある.板前は帝国ホテル和食部の料理長だ
ったというのだから,かなり格式のある店だったのだろう.店の名は聞いているかもし
れないが忘れてしまった.その店をいよいよ畳むという時期に,「あなたやってみる?」
と聞かれた.もちろん,冗句だと思うし,私も取り合わなかったが...ママは根っから
の都民だが,クラスとしてはプロレタリアートではなかった.美濃部都政を支えたのは,
およそこの辺りの中産クラスの働く女性たちである.世代的には我々の母親かややそ
れより少し若い年代に属する.都議会に女性が進出した時代でもある.市民運動の奔
りであり,菅直人はそのような渦巻きに揉まれながら,女性たちの使い走りをしていた.
話題は結局政治の話に終始し,テレビは国会からの中継を流し続けた.きっかり午後
7時,衆議院本会議の開会が宣せられるや否や,民主党議員席から挙手があり,古式
ゆかしくやや上ずった甲高い声で長々と「議長ーーーーーーーーー!」の発呼がある.
内閣不信任の緊急動議の提出である.しかし,まさにそのとき議場には紫のふくさに包
まれた解散証書が届き,副議長がそれを検め,議長がそれを読み上げる.本文は唯
一句「衆議院を解散する,ピリオド」.議員は総立ちになり,喚声を上げながら護衛に守
られた出口に殺到した.私が確認した限りでは,皇居と国会を繋ぐ最短経路は今日私
が歩いた道筋に違いないと思われるので,解散証書はパトカーに先導されて桜田門か
ら警視庁前を通過し,国会正門から入って衆議院本会議場に届けられたのだろう.
ママはトイレに立ち,返り際に壁面の照明の照度を落とした.私のグラスを上げるピッチ
はかなり早かったかもしれないが,酎ハイ4つ以上は呑んでいないと思う.かなり濃い目
に作っていたのかもしれないが.どのくらいの時間滞在したかもよく分からない.私以外
の客は入らなかったので,一日貸し切りになった.その日Jazzは掛からなかった.
ママが店の名入りライターを2個出して「持ってって」と言うので,それを機に立ち上がり,
お勘定しようとしたが財布を見ると足りなかった.吉祥天は慈悲深い目で私を見つめ
「来てくれただけでうれしい」と言って残額を免除してくれた.その後のことはほとんど記
憶していない.歩いて駅まで出て山手線に乗ったところまでは覚えている.座席に座っ
たところで前後不覚に眠り込んでしまったようだ.