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(回答先: 命令有無にこだわり不要 前提に「逆らえない体制」(林博史氏HPに紹介された沖縄タイムスのインタビュー記事) 投稿者 竹中半兵衛 日時 2005 年 8 月 06 日 05:57:24)
「集団自決」の再検討― 沖縄戦の中のもうひとつの住民像
歴史科学協議会編『歴史評論』1992年2月号
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htm
(以下コピペ、読みやすく行アケしました。表は読みにくいかも知れません)
「集団自決」が各地で起きたことは、沖縄戦の重要な一つの特徴としてよく知られており、多くの人によって議論されている。私はそれらの議論から多くのことを学んだ。しかし同時に問題を感じていたし、いまも感じている。「集団自決」がおきた渡嘉敷島のような離島に米軍が上陸してきた場合、あるいはチビチリガマのようにガマ(壕)に隠れているところに米軍がやってきた場合など、類似の状況において人々はどのように行動したのか、それらを比較しながら「集団自決」をもう一度考え直そうとしたのが、この論文である。なお注は末尾にまとめている。 1999.4.30
はじめに
一 沖縄戦における「集団自決」
二 太平洋諸島での「集団自決」
三 沖縄本島周辺の離島における住民の行動
四 本島中部における住民の行動
おわりに
はじめに
教科書裁判第三次訴訟での一つの論点が沖縄戦における「集団自決」についてであった。その取組みのなかで、「集団自決」とは「住民の自由意思によるものではなく、日本軍の圧倒的な力による強制と誘導に基づく集団殺しあい」であり、「言葉の本来の意味において集団自決はなかった」ことが明らかにされた1 。
「集団自決」については、これまでも多くの論者によって強調点の差はあれくりかえし論じられてきた。天皇のために死ぬことを美徳とする皇民化教育、軍による「共生共死の一体化」、捕虜を恥辱とする観念、「鬼畜米英」への恐怖、軍の沖縄住民への差別・スパイ視(住民虐殺と表裏一体)、自決手段の供与など自決への強制・誘導、逃げ場のない追い詰められた地理的状況、島(村)共同体の規制力などの諸要因が指摘されてきた2。このなかでも日本軍の存在が大きな要因になっていることが確認されてきている3 。
こうした研究成果をふまえて、ここで考えたいことは、第一に「集団自決」について沖縄のいくつかの事例と沖縄以外の太平洋地域での事例を比較検討することにより、太平洋戦争のなかでその事件を位置づけることである。第二に類似した条件の下でも「集団自決」がなかったところがたくさんある。それらとの比較によって「集団自決」の持つ意味とその要因が一層明確にすることができるし、そのことは沖縄戦における住民像について再検討することにつながるであろう。
本稿で取り上げた地域は、慶良間諸島と沖縄本島周辺の島々、読谷とそれに類似した地域として中部の村々、サイパンなどの太平洋諸島である4 。比較の視点としては、日本軍の住民に対する関わり方と住民集団のリーダーの性格にしぼって検討する。
一 沖縄戦における「集団自決」
今日知られている「集団自決」の事例を順に見ていこう。
a 読谷チビチリガマ5
米軍上陸海岸からわずか一キロほどにあるチビチリガマには四月一日米兵がやってきた。ガマのなかにいた一三歳以上の青年や大人は竹槍を持って「やっつけろ」とガマを出たところ機関銃でかんたんにやられ、二人が重傷を負った。米軍の通訳が「殺しはしないから、ここを出なさい」と呼びかけたが、米軍に捕まると「残虐な仕方で殺される」と信じこんでいた人々は、ガマの奥へ奥へと逃げ込んでいった。
翌二日「自決」がおこなわれた。ガマの途中のくびれたところに布団を重ね火をつけて「自決」を主導したのは、中国従軍の経験がある元兵士だった。彼は「兵隊は捕虜にひどいことをするよ。だから自分で死んだほうがいいよ」と中国での日本軍の残虐行為を持ち出して自決を促した。次いで、元従軍看護婦が「軍人はほんとうに残虐な殺し方をするよ。うちは中国でさんざん見ているから、よく知っている」と言って、毒薬を親戚に注射して「自決」を始めた。
チビチリガマには米軍上陸直前まで日本軍がいたが、このときにはすでに後退していなかった。元中国従軍兵士と元中国従軍看護婦が日本軍の代弁者の役割を果たし、「自決」を主導した。ただ彼らが現役の武装した軍人ではなかったこともあって、「自決」のときに「出たい人は出なさい」と言って、外に出ることを許したことが不幸中の幸いだった。ガマに避難していた一三九人のうち「集団自決」で死んだ人は八二人、射殺されたりした人四人、残る五三人は出て助かった。助かった人には小さなこどもを連れた母親が多かった。
チビチリガマの犠牲者の年令別構成は表1のようになっている。犠牲者八二人のうち一五歳以下が四六人、国民学校生以下の一二歳以下としても四〇人を占めている。このこどもたちには自分の意思で「自決」を判断することはできないと見なければならない。また大人たちにしてもガマのくびれたところで火をつけられたため逃げようとしても逃げられず煙に巻かれてしまった人たちがかなりいると見られる。「みんながみんな、死ぬ気じゃないから、もう、めちゃくちゃ。泣きわめくなど、せまいガマの中は大変でした」という証言にその様子がうかがわれる。
このようにチビチリガマでの事態は、日本軍の意思を代弁した元軍関係者らの独走によって、多くのこども老人女性がまきこまれて死んでいった事件であり、集団で「自決」したというようなものではなかった。「ウソを教えなければ、ほんとうのことを教えていてくれたなら、誰も死なずにすんだのに」という生存者の言葉に騙されていたという痛恨の念がにじんでいる。
なお読谷のなかで、防空壕に避難していた人たちが手榴弾で「自決」し、二五人中一七人が死んだ例があるが、くわしくはわからない。
表1 読谷チビチリガマの犠牲者の年齢別構成
年齢 男 女 計
0-5 7 7 14
6-10 9 11 20
11-15 3 9 12
16-19 - 4 4
20-29 - 4 4
30-39 - 4 4
40-49 1 9 10
50-59 2 3 5
60- 3 5 8
不明 - 1 1
合計 25 57 82
(注)9歳以下の女の子で年齢不明の1人は 6〜10歳に含めた。11〜15歳のうち11〜12歳6人、13〜15歳6人となっている。男女の区分は名前でおこなったが、判断しにくい人もあり、男女の数は一応の目安にしていただきたい。成年男子の最低年齢は47歳であり、16〜46歳がいない。
なおその後の調査により0歳児がもう一人いたことが判明したので、合計は82人ではなく83人である。
(出典)下嶋哲朗『南風の吹く日』
b 渡嘉敷島6
渡嘉敷島には海上挺進第三戦隊とそれへの配属部隊として勤務隊、整備中隊、特設水上勤務中隊の一部などがいた。駐留していた日本兵から島民に対し米兵の残虐さがくりかえし宣伝され、いざとなれば死ぬしかないと思わされていた。この点は日本軍がいたところではすべて共通している。
三月二〇日村の兵事主任を通して非常呼集がかけられて役場の職員と一七歳以下の青年あわせて二〇数人が集められた。ここで兵器軍曹が手榴弾を二個ずつ配り、いざというときにはこれで「自決」するように指示した。二三日米軍の攻撃が始まり、二七日朝米軍の上陸が始まった。軍は兵事主任を通じて島民を日本軍陣地の北側の谷間に集合するよう命令した。島民はそこで一晩をすごした後、翌日軍から自決命令が出たという情報が島民に伝えられた。また防衛隊員が島民に合流し、手榴弾を持ちこんだ。配られた手榴弾により「自決」が始まった。不発弾が多く、生き残った人たちは男が家族を棒で殴り殺したり、鎌や剃刀で殺していった。残った人たちは日本軍陣地に向かうが追い返され、その近くで「集団自決」をおこなった。犠牲者は三二九人と言われている。
その後、日本軍による住民虐殺がいくつか起きている。米兵の投降の呼びかけに対して、「投降したら殺す。投降するのはスパイだから」と島民を脅す日本兵がいた。投降することもできず(もとより投降しようという考えを持たないように徹底して教育されていた)、日本軍の保護も受けられず、島の端に追い詰められた島民にとって残された道は死しかなかったといえよう。
軍による事前の徹底した宣伝によって死を当然と考えさせられていたこと、軍が手榴弾を事前に与え「自決」を命じていたこと、島民を一か所に集めその犠牲を大きくしたこと7 、防衛隊(防衛召集された正規の日本兵)が手榴弾の使い方を教え「自決」を主導したこと、島民が「自決」を決意したきっかけが「軍命令」だったこと8 、日本軍による住民虐殺にみられるように投降を許さない体質があったことなどが指摘できる。
c 座間味島9
座間味島には、海上挺進第一戦隊と勤務隊、整備中隊、特設水上勤務中隊などが駐留していた。日本軍は民家に雑居し、中国戦線での体験を島民にくりかえし話していた。 米軍の本格的な艦砲と空襲が始まった三月二五日夜、村の助役らは戦隊長のところへ行き、忠魂碑の前で玉砕するので弾薬をくださいと頼んだが部隊長は断った。その夜、役場の職員らによって島民に対して、忠魂碑前に集まるよう連絡が回っていった。「玉砕命令が下った」と聞いた人もいるし、そうでなくても人々はそれが「玉砕」を意味していると受けとめていた。人々は忠魂碑めざして行ったが、砲撃もあってバラバラになり、あちこちの防空壕へもどっていった。
翌二六日朝米軍が上陸してきた。この間、産業組合の壕では村の職員とその家族ら約六〇人が「自決」した。それを伝え聞いた内川の壕では校長や教師らが「自決」した。そのほかいくつかの壕でも「自決」があり、「集団自決」の犠牲者は一七七人と言われている。
軍からの明示の自決命令は確認できないが、二五日いく人かの島民に日本兵から「明日は上陸だから民間人を生かしておくわけにはいかない。いざとなったらこれで死になさい」などといって手榴弾が配られている。「自決」を主導したのは村の幹部や校長ら学校の教師たちと見られる。村のなかの有力者であり、軍に協力して軍と一体化していた層である。島民にとっては「当時の役場の職員といったら、とても怖い存在でしたので、絶対服従」の存在であり、それは村が軍と一体となっていたことによって増幅されていたと見られる。かりに軍の命令ではなかったとしても村の指示を日本軍の命令と受けとめる素地が戦争のなかで作られていたことが問われなければならない。
また座間味島では投降しようとした島民が日本兵に背後から射殺され、米軍に捕まり島民に投降を呼びかけた人も日本兵に殺害されている。こうした状況は渡嘉敷と共通している。
なお村役場から離れた阿佐の集落では「自決」をしようとする動きもあるが「阿真(西方の集落 筆者注)で捕虜になれば、腹一杯の食事が食べられる」という情報が伝わってきて住民はそちらに向かい、「自決」はおこなわれなかった。このことは米軍が生命を助けてくれるとわかったときにはけっして自決を選ばないことを示している例であろう。
d 慶留間島
座間味村の一部でもあるこの島には、海上挺進第二戦隊の第一中隊が配備されていた。沖縄戦の始まる前の二月八日の大詔奉戴日に戦隊長が阿嘉島から来島し、島民の前で訓示をおこなった。戦隊長は「玉砕」のことをくりかえし話し、聞いていたほとんどの島民は「いざとなったら自分たちもいさぎよく玉砕しろという意味だな」と受けとめた。また島に駐屯していた第一中隊からは「死ぬ場合には前もって一中隊に連絡しなさい。一緒に死ぬから」と言われていた。こういうなかに三月二六日米軍が上陸してきた。第一中隊の陣地が米軍の攻撃で破壊され近づけない状況になり、サーバルの壕で「自決」がおこなわれた。
あとからその壕に来た人たちもあとを追って「自決」した。「集団自決」の犠牲者は五三人と言われている。ここでは戦隊長の訓示と第一中隊の「共死」の論理が重要な役割をはたしている。
e 伊江島10
四月一六日の米軍上陸から六日間の激しい戦闘により日本軍は全滅した。女性も竹槍や手榴弾を持って斬込みに参加するなど徹底して住民が動員され、住民約三千人のうち半数以上が犠牲になった。 伊江島のなかでは、アハシャガマ、タバクガマとその付近のガマなどで「自決」があったという証言がある。それらはいずれも戦闘のなかで軍民が混在してガマに隠れているときであり、米軍がガマを攻撃したりして逃げ場を失った状態であった。そして「自決」は防衛隊員が爆雷やダイナマイトを爆発させておこなわれた。だから日本兵の「自決」にまきこまれたと見た方がよいかもしれない。いずれにせよここでも日本軍と混在するなかで、その道具も日本軍によって持ち込まれたものである。
f 南部海岸付近
沖縄戦の末期に米軍に追い詰められた南部でも「集団自決」の証言がいくつかある。aからeの例が住んでいた村(島)でのことで共同体の規制力がはたらいていることもあって比較的規模も大きいのに比べ、南部では逃げてきた人たちによるもので家族やグループごとに「自決」したものが多い。軍民雑居のなかで日本兵(防衛隊)の手榴弾で「自決」しているケースが多い。民間人だけの「自決」の場合でも手榴弾を使っていることが多く、なんらかの形で軍から手榴弾を渡されたとしか考えられない。
たとえば規模の大きな例として、米須のカミントゥガマでは、ガマに防衛隊が逃げこんできて、そのあと米軍が手榴弾を投げ入れてきた。それを機に防衛隊の持っていた手榴弾で「自決」がおこなわれた。ここには約二〇家族がいたようだが、犠牲者数はわからない11。「自決」というよりも敗走する日本兵に巻き込まれて犠牲になったケースといえよう。
南部での事例ははっきりしない場合が多いが、いずれにせよ軍民雑居のなかでおこっている12。
以上、沖縄戦のなかでの「集団自決」について見てきたが、日本軍の存在が決定的な役割を果たしているといっていいであろう。と同時に軍に協力し住民を戦争に動員していった村幹部や教員の役割も大きい。軍官一体の戦争体制が人々を「集団自決」に追いやったと言える。
ここで「集団自決」をおこなった地域集団の構成について考えてみたい。慶良間諸島のように閉ざされた空間では典型的に出てくるので、渡嘉敷島の場合で考えてみよう。その集団は次のようなグループに分けられる。
@村長、組合長、巡査、学校長など村の指導者層
A元軍人、防衛隊員13など軍隊経験者や現役軍人
B警防団などに組織された少年たち
C一般の大人たち(ほとんどは女性)
D老人たち
Eこども
原則として一七歳から四五歳の男子は軍に召集されているのでこういう構成になることはチビチリガマの犠牲者の構成を見てもわかるとおりである。「集団自決」を主導したのが@Aであり、その実行者にはBも含まれる。特に@が軍と一体となって地域の戦争体制を支えていた層であろう。チビチリガマでは@が欠けるがAが代わりをしている。CDは軍や指導者の意思決定に逆らえない人々であり、Eは自分で意思決定できない人々である。「集団自決」の際の意識のあり方を見ると、@は自己を軍と一体化させた指導者として、捕虜になることは恥辱であり、天皇のために死ぬことを美徳と考えていた。「天皇陛下万歳」を三唱して「自決」をおこなった座間味の校長はその典型的な例であろう。
Aは@と共通する心情を持つ者もあろうが、それ以上に日本軍が中国戦線でおこなってきた残虐行為を知っており、それから類推して死ぬしかないと判断した者が多いように見受けられる。
Bは一七歳未満の少年たちで戦争中に教育を受け、皇民化教育の影響を一番受けている部分である。渡嘉敷島の「集団自決」の実行者となった当時一六歳の金城重明氏が、皇民化教育をその「元凶」と指摘していることは、その世代に最も当てはまることであろう14。
CDは同じグループにしてよいのだが、渡嘉敷の集落阿波連の場合、山中の集合地までとても歩いていけないと行くことを断念して家にとどまった老人たちが米軍に保護されて助かっている。集団からなかば見捨てられたことが、結果的に生存につながったのである。Cの意識としては、米兵に辱められて殺されるという宣伝を信じこまされていたことが大きい。だから米兵は命を助けてくれるという情報が入ると「自決」を選ばない。また@の意思には逆らえないが、そうした規制がない場合はチビチリガマのように「自決」を拒否している場合が見られる。この層は軍や指導者たちによって「自決」に追いやられ、巻き込まれたと見てもよかろう。
Eはいうまでもなく巻き添えにされた層である。
このように見ていくと、「集団自決」の要因といってもその階層によって、かなり異なっていることがわかる。これまでの研究ではこの階層の差が十分に考慮されていない。
この構造はまさに戦争を支えた地域の構造である。沖縄戦研究については、戦争中の研究に比べて、沖縄戦にいたる過程とその構造についての研究が遅れている。沖縄戦にいたる地域の戦争体制の構造を動態的に分析することによって、「集団自決」の構造もより明確になるであろう。
(以下略)