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(回答先: 信念で勝てれば、誰も苦労なんてしません。 投稿者 考察者K 日時 2005 年 8 月 04 日 22:13:39)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167209098/250-4484600-1106627
読んでもらうしかないが、ノンフイクション作家、沢木耕太郎の珠玉の一品である。
主人公は、元WBA世界ジュニアミドル級チャンピオン、輪島功一。
25歳という高齢でボクシングを始め、わずか3年で世界を制し、6度の防衛と2度の返り咲きをやってのけ、栄光と賞賛の頂点を極めながらもよしとせず、自らの命どころか「生きてきた証」すらをも差し出しながら、ひたすら「納得」を求めて玉砕していった男の物語である。
http://www.kikanshi.co.jp/prior/dantai/wajima/p-wajima.htm
「チャンピオン」という世界を、我々は知らない。
曙も、一度は頂点を極めた人間だ。
登りきったら、いつかは降りざるをえない宿命を背負った彼ら。
「美学」は栄光の頂点にある人間の、刹那的な輝きにあるのではない。
Kさんに問う。
あなた自身は、他人の「美学」を判定できる生き方をしているのだろうか?
美学とは、「命に換えても譲れない」何かなのだ。
血を流しながら、惨めだとか、恥知らずだとか、パンチを浴びて蹲(うずくま)れば「カエルみたいだ」などと揶揄され、その姿が映像によって世界中に配信され、罵倒され嘲笑され、それでも己を叱咤し、膝を笑わせ、涎を滴らせながら立ち上がり、「己の限界」に刃向かい続ける彼ら。
そんな彼らを「それ見たことか」などと笑える人間など、この地上に一人としていやしない筈だ。
勝つ、負ける。
勝つ、負けるは、己の心の内にあるもの。
判定をつけられるのは、彼ら自身以外にない。
人が命をかけて何かに挑んでいる姿を、あなたがあなたの心の中でどう評価しようとも、それは俺の知ったことではない。
だが、こうやって「これが現実という物です」などと他者に対していともやすやすと論評するあなたの姿から、あなたがあなたの命を、情熱をかけられる何物をももっておらず、憐憫の情を偽装したあなたの彼らに対する嫉妬心を浮き彫りにしている左証であろうと俺は理解した。
人にはそれぞれ、命にかけても守らなければならない何かがある。
他人がどう思おうが「知ったこっちゃない」何かを抱えながら生きている人間もいる。
自分自身に「それ」があれば、他人の「それ」も尊重できると俺は思うが。
そこには、「普遍性」などない。
人が何かに情熱を傾ける根拠は、あなたの判断におけるところの、遥か遥か遠いところにある。