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(回答先: 独り言 投稿者 Carry That Weight 日時 2005 年 7 月 28 日 16:39:00)
Carry That Weightさん、こんにちは。
ワヤクチャさんには割り込みレスになりましたことをお詫びいたします。
さて、Carry That Weightさんの認識を基本的には受け入れたいと考えています。けれども、嘗て渦中にいた人間としてもう一つの側面があることを申し述べたいと思います。そして、ワヤクチャ氏や考察者k氏にたいする評価のあらましに関してはしばしの間留保させていただいて、一点だけ補足の意味でのレスです。
国旗・国歌の法制化(1999年)以前のことでしたが、私が少しの間属していた私学においても、一般教員と理事長との間では卒業式や入学式での国旗掲揚や国歌斉唱の問題が主導権争いに絡んだ鍔迫り合いの様相を呈していました。つまり、表面的には教員側が教育の自由化を、理事長側が学生の管理・指導の円滑化を掲げていましたが、内実はそんなものでは全くなかったと記憶しています。
Carry That Weightさんの認識にもありますように、それまでは国旗掲揚や国歌斉唱は学内の行事で行われる式次第以上の意味を持つものでありませんでした。ところが、日教組の凋落傾向が目立ちはじめ、また日教組と日共系教職員組合との対立が先鋭化する中、それに乗じて文部省政策を強力に推し進めることを目論んだ行政側が、先ずは日共系教職員組合の追い落としにかかったというのが実情ではないでしょうか。その象徴的な例が石原都政でありましょう。
何故この問題に教職員組合側が拘っているのかというと、行政側が国旗掲揚や特に国歌斉唱の完全実施を組合の切り崩しのための橋頭堡として重要視しているからに外なりません。したがって、組合側としては橋頭堡の設営に抵抗するのは当然のことであると思われるのです。勿論、教職員組合間の対立が介入を企図していた行政側に千載一遇の機会を与えてしまったという側面を否定できないでしょう。さらに、戦後から今日に至るまでこの問題への左派の取り組み方に散漫さや怠慢があったことは否めないと思います。
しかしながら、行政側が自身のハンドリングの汎用性を高めていこうと画策するその先にどんな社会秩序が現出するのか、楽観的な予測を立てて無批判を決め込むことは民主主義の機能停止状態を招きかねません。君が代斉唱に反対する教職員達は十分それを意識し、教育の自由化に対する反動化傾向を憂うるがゆえの行動であると想います。
ところで、ワヤクチャ氏と考察者k氏とではこの問題にたいする距離感に違いがあるのではと感じています。すなわち、考察者k氏の方がより遠いのではないかと。私の場合嘗ては両人よりも近いところにあったわけですが、元来が私学のために行政による縛りから比較的自由であったこと、また最終的には当時の学校長が教員の側に立ったために国歌斉唱を強制されたという感覚からは程遠いものになりました。けれども、理事長や学校長の交替による政策的変化がなく、システムの貫徹を至上命令とする公立校では行政側の圧力は教職員にとって想いの外切迫したものになると想像するに難しくはないでしょう。
私自身、教育の問題を社会問題の枠を超えて政治問題化することを不本意に感じていますが、残念ながら行政側からの示威行動のほうがより現実化しつつある昨今では、問題を表面化させ抵抗を続けていくことの他には少なくとも反動化傾向に抗う方法はないのではと想われますし、風化が進み人々の視野に入ることすらなくなるとしたら、むしろそのことのほうが憂えるべき事態であると考えています。
また、会いましょう。