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権力作用論の視圏――反省を抑圧するコミュニケーション ― 権力作用の複雑性
http://www.asyura2.com/0505/idletalk14/msg/1005.html
投稿者 デラシネ 日時 2005 年 10 月 01 日 07:00:42: uiUTTMWMO8Vq6
 

(回答先: 現在は支配する者と、支配される者と言い直すべきとき。 投稿者 縄文ビト 日時 2005 年 9 月 30 日 05:23:34)

http://www.socius.jp/ref/14.html

反省抑圧への抵抗として社会学的反省

社会学を学び始めた人が遅かれ早かれ直面する問題は「社会学は自分にとって敵か味方か、よくわからない」というものだ。というのは、社会学はしばしば自分たちのやっていることや知っていることの問題点を列挙して批判する。かと思うと、自分たちのことを微に入り細に入り非常によく理解してくれている記述に出会うことも多い。いずれにせよ自分たちに対して何かをいっているわけで「敵か味方か、いったいどっちなんだ」というわけである。
 
じっさい、人びとの知識に対して社会学は両義的(相反する意味を同時にもつこと)である。一方で、社会学は人びとの知識を最大限重視する。社会の人びとが共有している常識的知識に基づいて人びとが行為することによって具体的に社会的現実が構成されると考えるからだ。だから社会学者は、一般の人びとの知識にある「実践的な理論」の理解に努め、一般の人びとの先行的理解──つまり人びとが何を考えているか、何を前提しているか──を重視する。前章で論じた役割現象の研究はその典型例であるが、「人びとがそれをどう考えるか」が決定的に重要なのである。しかし他方で、人びとが頼りにしている知識の集積──そのなかには当然さまざまな専門的知識が含まれている──は、自明化され盲信されている場合が多く、冷静に距離をおいて観察し分析すればわかるように、しばしば物象化されている。また、ミクロな生活場面では有効であっても、マクロ場面になると、どうしても知識の拡張が必要になってくる。それゆえ、社会学は人びとの知識に対して批判的に介入しようとする。それは「人びとがそれをどう考えるか」が決定的に重要だと考えるゆえに介入するのである。この場合、常識的知識を異化する鏡の役割を社会学は引き受けることになる。
 
要するに、社会学と常識的知識とは相互学習する関係にあると考えておけばよい。常識的知識がじっさいに社会的現実を構成する重要な条件となる。だからこそ、社会学は常識的知識を研究し、その問題点を科学的に研究したのちに常識的知識に介入しようとする。人びとの知識に介入して人びとの反省能力を高めることによって、社会学的知識は循環して「知識事実としての社会」の構成要素となり、それによって、行為者の主体的選択の幅を広げ、自律性の領域を拡大しようとする。
 
では、なぜ常識的知識を異化する必要があるのか。人びとがもっている常識的知識にはそれなりの根拠と有効性があるのだから、何も外からかきまわすことはないのではないか。それは専門家としての社会学者たちの傲慢ではないのか。このような疑問に対して、わたしはこれまでそれを物象化という概括的な概念を用いて説明してきた。この物象化がほころびを見せるのは、非日常的な問題状況のときだけである。それを見るのはたまたま問題状況の内部にいる者だけだ。たとえばスモン患者のケースのように被害者の立場になってようやく全体が見えてくるのである。この章では、そのような物象化の帰結についてさらにつっこんで説明することで、以上のような疑問に答えたいと思う。
 
さて、ギデンスのことばを借りると「社会の生産ないし構成は、その成員による熟達した達成であるが、成員によって完全に意図されたり、あるいは完全に了解された状態のもとでおこなわれる達成ではない。」▼1つまり、わたしたちは知識と能力をもった有能な主体として社会に参加し、おたがいに影響しあいながらも、自分の思いを込めて行為する(あるいは行為したのちにそれを意味づける)。その行為の流れや積み重ねの複合によって社会的現実がつくりだされる。しかし、その行為によって結果的につくりだされた社会的現実が、当事者たちの思惑通りになるとはかぎらないし、また当事者がその社会的事実を的確に理解しているともかぎらない。あるいはその社会的現実に事実上関与している当事者であるとさえ自覚していないことも大いにありうる。社会学ではこのような事態を「有意味行為の意図せざる結果」と呼ぶ。善良な人びとが善かれと思ってやっていることや、私生活を犠牲にしてまで全うしている職務によって、思いがけない悲劇が生じることがあるものだが、じつはこれが社会のノーマルなあり方なのである。

▼1 アンソニー・ギデンス『社会学の新しい方法規準──理解社会学の共感的批判』松尾精文・藤井達也・小幡正敏訳(而立書房一九八七年)一四五ページ。
 
だから社会学にとっては、社会的世界のなかで生活している人びとがその社会的世界をどのように考えているかを明らかにするだけでなく、人びとのじっさいの行為がおよぼす予期せぬ影響や、行為者自身が意識していないような行為の決定条件を明らかにすることが重要な課題になる。それによって人びとが自分たちの行為の現実の意味を反省的に認識することを可能にするためである。
 
しかし、これはいうほどかんたんではない。なぜなら反省的認識を妨げる働きが社会の内部にあるからだ。おそらくこれが「社会学者あるいは社会的に醒めた者」(ゴッフマン)にとっての仮想敵である。社会に対する社会学的反省の思想的意義もここにある。マルクス主義やフロイト主義を連想させる「抑圧」ということばを安易に使うのは理論構成上のリスクを負うことになるが、かりにそれを使って表現すると、社会学的反省は反省抑圧への抵抗である。そしてその抑圧の力を「権力作用」というのである。

権力作用とは何か
 
そもそも権力という概念は、国家権力とそれに類するものに適用されるのがふつうである。しかし、正統派の政治学やマルクス主義とちがい、現代社会学は権力を国家権力に限定しない。ゼロ-サム概念としての権力(一方に百パーセントの権力をもつ階級があり他方にまったく権力をもたない人びとがいるといった権力観)でもない。しかも、ミシェル・フーコーが斬新な権力論を展開して以降は、権力をネガティヴな現象と決めつけないで、むしろポジティヴな側面に着目する議論さえでてきている。▼2

▼2 権力は「産出的」であるというフーコー、権力の「調達」「保障」の機能の重要性を喚起する藤田弘夫の議論を参照。ミシェル・フーコー『性の歴史I知への意志』渡辺守章訳(新潮社一九八六年)。藤田弘夫『都市の論理──権力はなぜ都市を必要とするか』(中公新書一九九三年)。もっとも洗練された社会学的権力論として、ニクラス・ルーマン『権力』長岡克行訳(勁草書房一九八六年)。ただし本書の議論はこれらの研究と必ずしも沿うものではない。
 
この章では、それらの議論のなかから、網の目のように広がった非対称的関係としての権力に着目して考察しようと思う。それは、従来的な権力概念や「狭い意味での権力概念」▼3から区別するために「権力作用」と呼ばれている。

▼3 ルーマン、前掲訳書「日本語版への序文」参照。
 
この概念を採用する根拠は、現代社会においてはもはや「権力の向こう側とこちら側」という見方が妥当性をもたなくなりつつあることにある。つまり、「向こう側」に権力を行使できる人びとがいて、権力を行使できない「こちら側」を一方的に苦しめる──こういった構図がもはや成り立たなくなっているのである。この従来的な見方は、切実な現実を批判的に取り上げアピールするにはつごうのよい便法ではあるが、複雑化した現代の権力状況を捉えるにはあまりに単純すぎる。
 
たとえばジャーナリストが庶民の立場から公害問題を告発する場合を考えてみよう。告発は結果的に庶民の利益になると想定される。自分たちは庶民の味方であると想定し、同時に庶民は告発の(いまだ啓蒙されざるゆえに)潜在的な味方であると想定される。しかし、その場合の「庶民」とは「権力をもたない一般大衆」という素朴な定義において捉えられているにすぎない。しかし「庶民」とひとつに括られた人びとに共通の利害が存在するといえるだろうか。むしろさまざまな利害に分裂しているのがふつうではないのか。たんに「権力をもつ者」の権力行使に対して受動的であるというだけで「ひとつの主体」とみることはできない。それは「権力側」とされた人びとにもいえることである。▼4

▼4 すぐれたジャーナリストは大なり小なりこの「腹立たしい事実」に直面している。その一例として、鎌田慧『ドキュメント隠された公害──イタイイタイ病を追って』(ちくま文庫一九九一年)。
 
「権力側」の人びとを断罪するという権力批判の伝統的流儀は、単純であるだけでなく、複雑な現実を単純化してすませてしまうことによって、すべての責任を「権力をもつ者」の側に転嫁してしまいがちである。たしかに運動の活力をそれは生むけれども、同時に自分たちの反省を断ち切ることにもなりがちである。その点で罪深いものであることも認識しなければならない。主観的意図において正しいけれど、客観的結果として自己欺瞞を導く可能性さえあることをあえて指摘しておきたい。

受益圏と受苦圏
 
権力批判の硬直した伝統的流儀がなぜ現代社会において破綻しているかについて、もう少しきちんと説明しておこう。端的に一括すると、それは現代の権力作用の複雑性による。それをかいま見せてくれる研究として船橋晴俊・梶田孝道らの研究チームによる「受益圏と受苦圏」の議論がある。▼5

▼5 梶田孝道『テクノクラシーと社会運動──対抗的相補性の社会学』(東京大学出版会一九八八年)五〇─五五ページ。船橋晴俊・長谷川公一・畠中宗一・勝田晴美『新幹線公害――高速文明の社会問題』(有斐閣一九八五年)。舩橋晴俊・長谷川公一・畠中宗一・梶田孝道『高速文明の地域問題──東北新幹線の建設・紛争と社会的影響』(有斐閣一九八八年)。
 
受益圏と受苦圏の概念は社会問題を研究するさいの理論的枠組みとして考案されたものである。「受益圏」とは、問題とされる組織の活動による利益を何らかの形で享受する人びと(さらに組織や地域や階層や世代や人種)であり、「受苦圏」とは、その組織の活動によって平安な生活環境が保持できなくなる人びとなどをさす。たとえば、工場が有害な廃液を川へたれ流すことによって、まわりに住んでいる人が悪臭に悩まされたり、健康を損じたりした場合、工場をもつ企業とその関係者が「受益圏」であり、まわりに住んでいる人びとは「受苦圏」にあたる。この場合「圏」とは、境界線がはっきりしていることをしめすことばであって、地域に特定されるわけではない。もちろん地域だけでなく階層・年齢・人種・民族などの属性によって受益圏と受苦圏が分離することもある。可視性が乏しいということはあるかもしれないが、おそらく性についてもいえるだろう。
 
この対概念を使うメリットは、両者の重なりと分離をはっきり捉えられるところにある。たとえば、廃液を流す工場の周辺住民は基本的に「受苦圏」であるが、そのなかには工場で働く人もいるし、下請けの仕事をしている人びともいる。また、そこで働く人びとのための商品やサービスによって糧を得ている人びとも多いはずである。つまり、その人たちは「受苦圏」に属しているとともに「受益圏」にも入っているわけだ。この領域の人びとは一種のジレンマに陥ることになる。他方、工場内で働く人びとは、その労働によって利益をえている点で受益圏であるが、有害物質を貧弱な対策の下でとりあつかわされているケースも多く受苦圏になっていることがあるかもしれない。
 
受益圏と受苦圏の範囲の重なりと分離は現代社会の場合じつに多様になっている。これこそ現代の社会問題を認識する上での最大の困難なのである。
 
たとえば、自動車の排ガスや騒音の問題において受苦圏の幹線道路周辺住民と受益圏の自動車業界の労働者のあいだにある溝は深いが、階級対立ではないし、後者の加害者意識は薄い。まして道路に排ガスと騒音を直接だしている自動車のドライバーに加害者意識はないのがふつうである。▼6また、国鉄時代に名古屋で問題になった新幹線公害問題では、利用者(乗客)・国鉄・建設業界・メインテネンス業界・旅行業界・停車駅周辺の商工業界などが受益圏にあたり、建設のさいの立ち退きによって生活基盤の立て直しを迫られた人びとや開業後に騒音・振動・電波障害などの公害を被った人びとが受苦圏にあたる。▼7

▼6 梶田孝道、前掲書viページ。
▼7 船橋晴俊ほか『新幹線公害』七七ページ以下。
 
近年の社会問題とくに一九六〇年代の高度経済成長期以降における大規模開発問題では「拡大化した受益圏」と「局地化した受苦圏」の対立が基本構図になっていて、その分、一方では受益圏にある人びとの加害当事者意識が薄く、他方で受苦圏の人びとは孤立無援の状態のなかで不利益を一方的に被ることになりがちである。たとえばゴミ処理場建設問題のように受益圏と受苦圏がほぼ重なっている場合(重なり型紛争)は、問題への関心が人びとに高まり、受益の無限拡大に歯止めがかかりやすく、ゴミ減量や清掃工場の無公害化など反省的な動きが活性化しやすい。ところが、受益圏と受苦圏が分離している場合(分離型紛争)には、受益圏が一方的に受益を享受し、局地化した受苦圏が一方的に社会的損失を受けつづけることになり、しかも両者のあいだのコミュニケーションも困難になってしまうために、問題の解決がたいへんむずかしくなる。そして現代社会において国家規模の非常に広域な事業が多くなると、受益圏が拡散してしまって、受益圏にいる人びとが自らを加害者側に位置づけられず、問題に対してもっぱら傍観者的態度をとることになってしまう。▼8

▼8 前掲書八〇ページ以下。受益圏には圧力集団や利害団体や集約的代弁者としての公的機関(具体的にはテクノクラート)が存在するが、受苦圏には被害者運動組織以外に存在しないこともコミュニケーションを困難にする要素である。梶田孝道、前掲書一一ページ。
 
社会問題の多くは「テクノクラート・対・住民運動」の対立構図として現象するので、一見「国家権力・対・一般大衆」のように見えるけれども、その内実はこのように複雑化しているのである。このような事態は、「権力側」とは自分たちのことかもしれないという重要な知見を示唆する。わたしたちはそれを見ようとしていないだけなのかもしれない、と。
相互共犯性
 
受益圏と受苦圏の区別を性に関して見ることもできる。つまり男性が受益圏を占め、女性が受苦圏を占める場合だ。もちろん逆のケースもありうるが、切迫度から見ておそらく問題ではなかろう。ただし「男らしさのジレンマ」といった問題もあることはたしかで、現実の方が旧来のフェミニズムの問題圏を超出していることも認めなければならない。▼9それゆえ近年はこの種の議論を「ジェンダー論」と呼んでいる。「ジェンダー」(gender)とは社会的な性のことだ。ここには、性という属性に関して社会的に生じる区別は、生物学的な性の問題ではなく、社会的に定義された性の問題であるという基本認識が込められている。

▼9 近年のジェンダー論では一連の男性論が盛んになっており、男性の方が抑圧が深いという議論がなされている。これはこれで傾聴すべきものをもっているが、ここでは省略する。渡辺恒夫『脱男性の時代』(勁草書房一九八六年)。なお「男らしさのジレンマ」はコマロフスキーの著書名である。M・コマロフスキー『男らしさのジレンマ──性別役割の変化にとまどう大学生の悩み』池上千寿子・福井浅子訳(家政教育社一九八四年)。
 
「男は仕事、女は家庭」といったステレオタイプな性別役割分担は、ひところにくらべるとずいぶん様変わりした。しかし、一九九二年から九四年にかけての女子学生の就職難や、いわゆる「寝たきり老人」の家族介護者の九割が女性であることなどに典型的にあらわれているように、日本社会は本音のところで今なお古い性別役割分担に依存している。▼10他方、働く女性の多くは「男は仕事、女は家庭と仕事」という「新・性別役割分担」に追い込まれている。男性の単一役割に対して女性は二重の役割と責任を負わされてしまう。その現実が「性差別」(sexism)として異議申し立てがなされ、女性(解放)運動が活発になる。しかし、問題はそのあとである。

▼10 ここで「古い」と述べたのは「伝統的」という意味ではなく「一世代か二世代古い」という意味である。一般に性別役割分担は「伝統的」なことと考えられているが、じっさいに庶民レベルにおいてそれが自明化したのは高度経済成長期の一九六〇年代である。つまり、産業界の性別役割分業に対応して家族内の性別役割分担が確立したのである。上野千鶴子『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』(岩波書店一九九〇年)一九七ページほか。
 
江原由美子によると、性差別の告発のあとにくるのは、たとえば「男と女は差異があるか?」といった問いである。この問いは一見客観的に見える。けれども、なぜかこの問いは男性ではなくもっぱら女性の側に向けて発せられ、女性側が答えることを強要されてしまう。しかも、これは女性にとって「ある」とも「ない」とも答えられない種類のものである。というのは、「ある」といえば「だから女性と男性は平等に処遇できない」といわれるし、「ない」といえば「では女性は何でも男性と同様にできるはずだ」と判断されてしまうからだ。ジレンマを現出させる問いなのである。そしてこの問いをめぐって女性運動も内部で論争が絶えない状況に陥ってしまう。▼11

▼11 江原由美子『フェミニズムと権力作用』(勁草書房一九八八年)。
 
江原は、この問題のたて方自体が抑圧的で構造的に歪められていると考える。異議を申し立てる者が否応なしに立たされる社会の構造論理がこの問いに集約して現象しているのだ、と。
 
それは次のような形でもあらわれる。栗原彬によると、反原発運動・ゴルフ場建設反対運動・反農薬運動・食品添加物追放運動のような、生命の安全を求める運動のなかでしばしば反対理由として「奇形が生まれる」「障害が発生しやすい」ということが「産む性」の立場から主張されるという。この現状についてかれは「しかし、その運動に障害児が加わっていれば、あなたは本当は生まれないほうがよかった、生まれてきてはいけない存在だったのだ、と親や仲間の市民たちから告げられたに等しい。このとき、心やさしい市民が障害児にとっては自分を排除する権力者になる、と言える」と指摘する。▼12

▼12 栗原彬「市民社会の廃墟から──『心の習慣』と政治改革」『世界』一九九三年十月号五四─五五ページ。
 
障害者運動のなかでもこの種のジレンマはある。江原由美子は「差異」と「差別」について論じた注目すべき論考のなかで「重い障害者」と「軽い障害者」の対立を取り上げている。「軽い『障害者』は往々にして、自己の『障害』がほとんど日常生活に支障をきたさないのに、様々な『偏見』によって『差別』されていることに怒りを感じざるをえない。それゆえ、『差異の存在』自体を否定する論理にむかいがちである。他方、重い『障害者』はまさにその論理の中に自己の存在の『否定』を見出してしまう。『差異がないのに差別されている』と怒ることは、では、『差異があれば差別されていいのか』という後者の側からの問いかけを必ず生む。それゆえしばしば、軽い『障害者』と重い『障害者』の間の対立は『健常者』と『障害者』との間の対立以上に深刻になる。[中略]被差別者の側に分断をもたらし、相互の理解を不可能にさせてしまうものこそ、『差別の論理』なのである。」▼13

▼13 江原由美子『女性解放という思想』(勁草書房一九八五年)七八ページ。
 
このように、理不尽な不利益を一方的に被っている人びとが、異議申し立てしたり痛みを訴えることによって、かえって不利な立場に追い込まれてしまったり、結果的に自らを社会の逸脱者(「大人げない」「ムキになってる」「ことば狩りだ」といった非難を受ける者・社会的協調性のない者)にしてしまったり、共闘すべき仲間をも傷つけてしまったり、その運動を分裂させられたりしてしまう。逆に、一九九三年に日本てんかん協会の抗議をきっかけに断筆宣言したSF作家筒井康隆の場合のように、異議申し立てされた側が反省ではなくしばしば被害者意識をもち反批判しやすいのもおそらく同じ問題圏である。
 
何か「見えない構造論理」が社会に内在しているのである。江原はこれを「作用した痕跡を消す権力。すなわち行為者の自発的な行為を巻き込む権力。それは社会構造自体にはらまれた権力であり、特定の個人の意図には還元できない権力作用」と呼んでいる。▼14

▼14 前掲書三二ページ。このあと、フェミニズムの場合それが家父長制であると指摘する。
 
結局、権力作用とは、一見等質に見える「わたしたち」を内と外に引き裂く力である。「わたしたち」を〈むこう〉と〈こちら〉へ線引きする匿名の力である。そしてそれは社会に秩序を生み、そのなかに生きる多くの人びとに秩序への自発的服従を供給する。
これに対して、おそらく「わたしたちは共犯者であるかもしれない」という自覚から出発するのが現代社会の場合もっとも展開力のある認識になるのではなかろうか。これを「相互共犯性の立場」と呼んでおきたい。これは悪意をもった共犯者という意味ではなく、知らず知らずのうちに権力作用の媒体に自分たちがなってしまっているということを自覚する立場である。 
狭い意味での政治的権力・国家権力に注目しているだけでは差別の問題を反省的に正しく理解できない。そこで権力作用に注目する。現代社会学の立場はおよそこのようなものだ。では、なぜこういう事態になるのか、わたしたちはなぜ共犯者の立場におかれてしまうのか、なぜそれに気づかないのか、その力に抵抗するのは無理なのか。こういった疑問に答えることが次の課題になる。しかし、その前に権力作用の実態と帰結をもう少し検証してみなければならない。

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