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(回答先: 神の存在を否定する事から考えるべきなのかもしれません。(たまには哲学) 投稿者 考察者K 日時 2005 年 6 月 26 日 09:30:18)
何故に議論が平行線、膠着状態に陥るかという根本原因についてそろそろ考えてみたいということでしょうか。
それは焦点を合わせていく上で重要なテーマとなりそうですね。
では直近のKさんとワヤクチャさんの膨大な平行線のやり取りから。
その骨子は
@国家と言う枠組みとセットの、天皇制や君が代の廃止、又は拒否の自由の主張。
Aその最終目的は戦争、搾取を生み出す国家、権力、支配からの解放、又は理想社会の建設。
Bその方法論に必要不可欠なのは、そこに住まう主体となる大衆の支持、協力。
でした
ABには両者一致した。ですか?
しかし@のアプローチがBの方法論にとって、相反する正逆効果を生み出すと言う意見対立となっておられます。
あらゆる事象に共通することとして、1枚の紙の裏表の如く、2項対立は存在します。
どちらもその1枚の紙の裏表をそれぞれに言い表す限りにおいては一理あり、対立します。
ならばその1枚の紙を共通のスタートとする認識に遡り、そこを疑ってみたいと思います。
まさに焦点はBにあり、そこの立脚点が行き止まりであることに起因しています。
つまり、民衆の大多数の支持、協力は初めから望めないのです(無知無理解も多様性の顕れですし、それが楽しくもあり素晴らしくもあります)。それは未来永劫に叶わない幻想と割り切ると?
日の丸、君が代、天皇制への否定は事象への表面反応であり、行き止まりであることが判るでしょう。
そこをいくらがんばってみても、運動が民衆の多数派を形成することは土台出来ません。
それがたとえどんな運動であっても多数派を民衆の中に形成することは余り意味がありません。
一時的で、すぐに崩れ去り、徒労であるばかりです。
おそらくKさんは公開掲示板上では全てを伝え切れない君が代、日の丸のもどかしさを抱えたまま、ワヤクチャさんに向き合っておられるのではないかと推測します。そこにあるのが神というテーマだった。のでは?
人と人との論争、対立はバーチャルな闘いではたちが悪い。下手に心に傷を負ってしまうと相手の主張は絶対に受け入れられなくなり、やがてリアルな闘いの準備が始められるだけ。
だから次元、波長の違うあらゆる人の目に触れる公開掲示板上の議論では、一定の線引きをするしかない。
それ以上の議論をするにはそれ相当の覚悟とルールをすり合わせた非公開の場が必要なのだと思います。
そこでは高熱の情報を出す事が出来ます。それはバーチャルな理念ではありません。認めねば自らの身が火傷するしかない、リアルな、否定し得ない主張を超えた情報です。それを知ってから、人は考えを改めて纏め上げ、主張なら主張をして欲しいと願っています。