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Kは基本的には「哲学」と言うのは役に立たないと思っています。
まあ、この表現はかなり微妙な言い回しなので「変な誤解」を受けそうですが・・・
普段「唯物論者」と自分を紹介しているKがこんな事を書くのはどうかとも思うのですが、仮に神がいたとします。居るというと実体があり、存在すると言うことになるのかもしれませんが、ここでは、全知全能のような「正義」の存在が普遍的に全ての空間に「ある」というイメージでも良いのですが・・・、まあ、酸素(生命を維持するのに必要な元素)は神の一部というようなイメージを持って貰って、それは「正義(方向性としての指標的な物)」の意志みたいな物を持っていると思って下さっても良いです。
まあ、仮定の話なので、その辺は突き詰めなくても良いのですが、隣に寝ている人が神でも、散歩している犬が神でも、何でも良いですが、ともかく「神という存在」がいるとします。
実際に神がいるとして、それは「全知全能」で「正義」の存在とします。
人間はその意志により生まれ、正義の存在(神の子)であると仮定します。
「自由」「公平」「正義」「善」「真理」という言葉があります。一般的にはベクトルとして「神」の方向を指した理論と考えられますが、言葉の意味は多層かつ複雑怪奇なのでイメージとして捉えるしかないのも歯がゆい所ですが、悪、負のベクトルの逆とでも解釈しておきましょう。
絶対的な正義と言う物をイメージしたとき、主体が問題になります。「地球」「全生物」「全人類」「民族」「国家」「集団」「個人」・・・どのレベルに取って、その行動が「正のベクトル」を持つのか?と言う事です。それぞれの個別の枠組みを対象(主体)の利害は必ずしも一致しません。例えば、個人を生かす為には多くの犠牲が食料という物に費やされることになります。
「生命」「自然」・・・そのような物が、生存競争、食物連鎖という微妙なバランス形成を作り出しています。そこには「人知の及ばない超知的存在のコントロール」の介在も想像できますが、システムとして機能しているだけで、実際は放置されているとも感じます。もっとも、システムの構築時には「神が関わった」と想像したりもできます。
人間には様々な限界があります。時間的要素、知識的要素、肉体的要素・・・
しかし、デジタル信号の組み合わせによる。オン、オフしか判断できないコンピューター(性格にはCPU)が、今はインターネットを始めとする、様々な事を実現しているのも事実です。Kが日頃主張する「デジタル思考の罠(善悪二元論否定)論」に反して、デジタル(二原論)だけでここまでやれるのです。
4つのDNAを有する生物にはそれ以上の可能性があるのは理論的には正しいはずとも思います。
言葉の壁と言うのがあります。どんなに工夫したと思っても、理解され受け止める相手次第で伝わりませんが、その前段階で「言葉で表現する事の限界」と言う要素と、言葉の多重制(一つの言葉が様々な意味を兼ね備える事)と言う要素もあります。
これは、発信時において「情報の欠落と真意の誤解の元」を持っている事を意味します。そこに受信者の限界が加わるわけですので「伝わると思う方が間違い」とも言えるでしょう。極単純化された「伝達ゲーム」などを見れば「全く違った情報」になっている事もあるくらいです。「情報」に限定してすら、この低落なので「想い」などが伝わる可能性はない。とするのが妥当かもしれません。
正しい方向という事を考えた場合、政策という事で限定した場合、主体を国家(政府)に置くか、庶民に置くか、社会構造(システムの維持構築)に置くのかでも、意見はバラバラになり、混乱するのでしょう。更には不利を悟った段階では不利な方が「一部の例外(レアケース)の対処」とか「地球環境問題」等も持ち出され、更に複雑怪奇な混沌状況になるので、有利な方は「適当に誤魔化し、議論を避ける手法に走ります」ので、共通の認識は生まれず、その経験が議論の無意味を体験させるという逆説的真理を生むことにもなるわけです。
まあ、主体の位置づけで「どこにも正しい方向性はない」と言う事と「全ての方向性はそれなりに正しい」事を示すわけです。極論すれば「誰にも他人が間違っているという権利など持たないが、誰もがみんな間違っている」と言う事にもなるのです。
しかし、では、方向性などないのか?と言えば、そうとも言えません。「包括的総合的なバランス感覚」とも言える「神の視点に人間は到達できないのか?」と言う命題には「誰も、断定的な回答を示すことなど出来ない」のも真実でしょう。
現実と言う物があります。唯心論的には「現実すらも確かな物ではない」との考察があるとも思いますが、「イメージとしての理想とか真理」と「触れば、存在する。もしくは存在した。という実体のある、現実」の区別は重要です。
現在、物理的に証明されたとされている事については、「それも妄想」と言う意見に関わらず、99%以上の再現性を示し、人間が生活する上の利便性を作り出しています。
これは、神の存在を信じる者の意に反して神が「神など信じるな」というメッセージを送りだし続けている。と言う事です。
人間には「主観」「自己顕示欲」「物質的欲求」「自己防衛本能」「詭弁性」等、様々な要素があり、たいていの人には「自己の規定による正義の感情」と言う物があります。
信念でも主義でもポリシーでも良いのですが、そこを刺激すると「逆鱗に触れたようにもなります」、それは感情論の爆発となり、本人は必死になりますが、逆に相手は妙に冷めた思考になりやすく、チグハグな議論にもなります。
Kは神は「人間は議論に向いていないように創造した。」と言う面を強く感じます。
人間はちっぽけですが、可能性は大きいとも思います。ただし、その可能性は「時間等の各種制約を受け、発揮できないようにされています」そこを補うのは、「協力」という組織的な要素です。子供を作ること一つを取っても男女の協力がなければ能力が発揮できないようにプログラムが作られています。システム設定がされていると言う方が分かりやすいのでしょうか?
しかし、協力しなければ「何も出来ない」設定と同時に「情報伝達能力は最低」という設定もされているのです。
しかも、人間には「疑いを持つ性質」とか「我が儘な性格」とか「優柔不断」というような様々な「マイナス意識を生み出す心理」もプログラムされています。
これが、神のした事ならば、神は「俺の方向へは来るな」という意識を持っているとも思えます。それは「正義の方向などない」と言う事の暗示です。
もし神がいるのなら「トンでもない、意地の悪い性格を持っています。」
で、現実的には人間は生きていく事を目指さねばいけないと言う面を持っています。自殺も自由と言う意見もありますが、生きているからそう思える訳です。逆説的に考えれば、死の自由を訴えるなら「生まれてくるんじゃない」と言う事になります。
生まれてきたからには「死ぬまでは生きる努力が義務として生じます。」屁理屈は全て却下されるべきです。あらゆる屁理屈は「生まれてきた事によって、この世に存在をしない自由を自らが放棄した」と言う理論の前に論破されます。
納得しなくても良いです。どうせKも「神は存在する」という仮定の上で考察しています。しかし、神が存在し、生まれるときにも生まれる意志があったのならば、死の自由など無いのです。
自由を否定するのなら、生まれる前の世界など無いという点から入らなければいけない。生まれる時に選択権の無かった事の証明が先である。詭弁でも正論である。
実に下らぬ考察をしたとも思うのでこの辺で打ち切りましょう。
暇があったら第二段もやる気はあるが、需要はあるのだろうか?