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(回答先: 道徳的価値の根拠 投稿者 東の空 日時 2005 年 6 月 19 日 15:13:51)
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人が個人として生きるという道は、個人主義者がとやかく言わずとも既に始まっています。
この道は、途中で立ち止まったり、戻ったりはできるものではないのです。
そうであれば、人はこの道の責任を引き受け、人々が尊厳ある個人として尊重しあえる社会を作っていくしかないのです。
しかし、ここには大きな障害があります。
それは、あらゆる信念、道徳的価値には、普通の理屈で考えた場合、根拠が無いということです。
誠実に考えれば単なる主観、思い込みに過ぎないと思えることです。
殺人がいけないということにも根拠がありません。
いい加減に、理屈で「生命の大切さ」などと言ってはいけないのです。
理屈は最も生命から遠い。
人が社会や宗教と一体化していたときには、こういうことは個人の問題になりませんでしたが、人が個人として生き始めれば問題になります。
この障害の本質は、おそらく道徳的価値の本当の出所を人々は知らないということでしょう。
道徳的価値の本当の出所は深い感受性をもってしか至れません。
自分の感受性に限りがあれば、感受性の深い者に教えを請う必要もあるでしょう。
もちろん最終的には自分で納得する必要がありますが。
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東の空さんご自身、とても高い感受性をお持ちのようです。
周囲から、浮いてませんか?(笑)
感受性の低い「場」に暮らさざるを得ない感受性の高い人間の辛さ、よくわかります。
道徳的価値も含め、そもそも「価値意識」というものがどこから派生したのかの考察を試みたこともあったのですが、さすがに俺ごとき浅学非才な者が踏み込める領域ではありませんでした。(爆)
道徳的価値については、これはもう簡単明瞭でしょう。
「他人をコントロールする為」に人類があみだした必殺技といったところでしょうか。
アントニオ猪木があみだしたものでないことだけは、確かです。(爆)
根源的には「人が集まり暮らす為には、ルールが必要だ」という素朴な意識から発生したのだと思いますが、それから「統治するもの・される者」という関係性の概念とペアになり、むしろ統治する者にとって都合の良い解釈が施されてきた。
個が個として自立するということは、この「統治する者・される者」という関係性の概念から抜け出ることを意味します。
「社会」という枠組みの外に、対等・当価値な存在としての自己を位置づける。
「社会」の内部に身を置くと、統治する側であれされる側であれ、道徳的価値の本質は見えてこないように思います。
もちろん物質的な意味においては、我々はいずこかの社会に身を置かざるを得ない訳ですが、俺が意味するのは「魂の所在」ということです。
精神的な独立性、孤高を保ちながら、社会とは依存関係を抜きに付き合えば、そもそも「道徳的価値」などは必要なくなる。
東の空さんのお言葉は、とても示唆的であり、俺にとっては「高みに昇る」ための絶好の触媒となります。
これからも、よろしくお願いします。
>「透明な悲しみ」読ませてもらいました。
>すばらしい娘さんの魂に、お父さんとして選ばれたんですね。
ありがとうございます。
責任重大です。(汗)