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(回答先: ここにレス付けするか迷いましたが・・・ 投稿者 風のように 日時 2005 年 6 月 10 日 00:20:44)
>私は、他人の助言をありがたいと思わないとは一言も言ってはおりません。むしろ自分を愛するのであれば、自分を改善するために積極的に聞いて知るべきだとも思っております。ただし自分が受け入れたくないことは受け入れないというだけです。
自己と言う壁を強化するのが目的で、他人の助言を受け入れ、自己改善する、だから受け入れたくない事は受け入れない。とも読めます。
>それに誰にも助言はしないとも言ってはおりません。助言はするが、それを相手に押し付けようとは思わないというだけです。それは、相手に助言をすることは、回りまわって自分に対して助言することになるということを知っているからです。また自分が知っていることを他人に教えてあげることは自分を嬉しくさせることだとも思っております。
助言と言うからにはその対象者には、助言されるべき欠落があるはず。意識無意識に拘らず。その不足を補ってあげたり、結論が出ないことを誘導してあげたりする、それが助言ならば、心地良かったり、感謝されたりするものばかりとは限りません。時には、拒絶され、嫌悪され、憎まれます。そういう時、あっさり引いて、係らないスタンスでいれば押し付けにはなりませんが。。。時には熱くなり、引かないで、押し付けと言われても、係ることも必要ではありませんか?
どだい押し付けたって、支配関係が無ければ拒絶されて終わりですよね?そこに身分、立場、都合を混ぜた時、初めて押し付けになるのでは?
>私の定義する自己中心主義ということは、自分を愛し、自分の為になることを追及するということです。自分を愛するなら、自分自身を受け止めなければなりません。自分の全てを許さなければなりません。自分の嫌だと思う部分を許し始めると、同じように他人に対してもそれを許し始めることになるはずです。それが自己愛が他者愛に広がる瞬間です。
私が定義する自己主義(自己愛)を理解していくなら、それは究極の愛他主義(他者愛)であることがわかってくるはずです。
私の場合は怒りです。許せない行為、それをする人や社会に怒ります。故にそれは自らに禁ずる行為となり、それを保っている間は自分が愛せます。勿論、この精神は発達途上のものですが、そういう感情の発露に今は正直でありたい、と思っております。
>愛他的ということを考え何かを悪と決めつけると、仮に自分がそれをした(考えた)時には、自分を許す事はできないし、罪悪感を募らすことになるのでしょう。そして罪悪感はその対象をより強化します。つまりその悪の考えを自分の中で増長し始めるということです。
何かを悪と決め付ける倫理観をまず問題にしましょう。その行為をして欲しいか、して欲しくないか、人にもよります。TPOにもよります。好き嫌い、喜怒哀楽に正直であれば、次に罪悪感という言葉の規定すらも、実は不要ではないでしょうか。
この洗脳はポトス(Kさん失礼)を押し込めていると囚われる価値観かも知れません。
>レイプ事件を取り締まると、仮に自分の中にレイプしたいという考えがあれば、それに罪悪感が科せられ、それを抑圧し、そして増幅させることになり、レイプ事件を自分の仮想現実的として捉え、その記事から目が離せなくなったり、ゲームや風俗やAVなどで擬似的に欲求を晴らす事になり、その擬似レイプ産業を強化し、例えばそのゲームをやっている青少年が、まさに子供のようにストレートにそれを実社会で表現していく。今の少年犯罪の多くは、実は親が作り出したものであることを世間は自覚しているでしょうか。
レイプから性欲への展開に無理がありそうです。親が作り出した?これも無理が。。。
大人といっても同じ。その大人(親)もその前の大人(親)が原因ですか?
親とか大人とかはカテゴリーであり、実体は個々のABC、その頭に巣食い、個々人を支配する自我であります。そこまで焦点を絞らなければ、この社会は変わりませんよ。
途中ですが、失礼します。