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(回答先: フッサール現象学の今日的意義 投稿者 ODA ウォッチャーズ 日時 2005 年 6 月 09 日 02:49:18)
ODA ウォッチャーズさん、いつもご教授ありがとうございます。
貴方の文章を読んで、何故日本では哲学があまり発達してこなかったのかな?
と思ってしまいました。
日本では哲学は何かとてつもなく難しい事のように扱われてきたように思います。
近年は「ソフィーの哲学」とか哲学を分かりやすく説明する本が色々と出されているようですが、それにしても中々進展していないように思えます。
思い起こせば、浅田彰の「構造と力」以来のニューアカデミズムブームとやらも
中沢新一とか色々と出てきましたが「構造と力」でもありましたように
やはり超難解でありました。
何故、こうなっちゃうのでしょうね?
著作の問題もありますが、日本人には
「哲学の必要性」というものがあまり感じられていないように思います。
これも何故なのでしょうね?
議論をしていたら「アレっ?この人の言っている事、何かおかしいのだけれどもそのおかしさをどう説明していいか分からない。」って事がありますよね。
その時に論理学とかの必要性を感じるのですが。
まず、議論をしないという事が根本問題かな?
となると「何故、議論をしないのか?」って事になるのですが、
これこそ難問ですね。
議論をしなくてももう全ては決まっているという態度なのかな?
奴隷根性がしみついて何をどう考えても同じだとでも思っているのかな?
どう思われます?
>フッサール現象学の今日的意義
>http://www.asyura2.com/0505/idletalk13/msg/551.html
>投稿者 ODA ウォッチャーズ 日時 2005 年 6 月 09 日 02:49:18: ilU7eLmFtsv5I
>(回答先: 現象学についての私の解釈は全く違っていたと思います。 投稿者 ワヤクチ>ャ 日時 2005 年 6 月 07 日 21:56:29)
>フッサール現象学は、御指摘のように、人間認識の枠を重視して、合理的に説明でき>ない部分を、「エポケー」として、一時、判断中止して、意識的に合理性を持って説>明できる『部分』に、焦点を持っていくことを主張しています。
なるほど。
デカルトの「方法序説」みたいですね。
>つまり、意識は、「→」(矢印)で、この矢印には、必ず、「主体」と「対象」が存>在する。つまり、意識自体が、「支配」と「被支配」の態様であることを、様々な生>活世界の事象を用いて、説明しようとしています。
対象とその対象を意識する主体(脳)があるという事ですね。
>ルネ・マグリットの絵画なども、直観的には、その方向性を把握しやすい素材かと思>います。
>基本的に、フッサールは、歴史の相対主義や唯物論争を乗り越える基礎を確立しよう>と企て、一定の成果を挙げたと思われます。
>その基礎に立って、フランスの構造主義、その後の、ポスト・モダン哲学が出てきま>す。
> 現在の日本の大半の知識人が、唯物史観を金科玉条のように扱っていたり、原書を>読まずに、フッサールとは、ドルーズとは、とファッションのように、議論されてい>るのを見ると、欧米は勿論、シンガポールやバンコックの大学生の方が、遥かに、哲>学の面で、教養に溢れていることは、事実のようです。
そうなんですね。
>現在、停滞していますが、EUの動きや、ヨーロッパの環境への態度、欧米で用いられ>る「構造改革」の震源は、基本的に、フッサール以降の、「認識の枠組み」を「認識>する」「批判する(哲学用語としての「批判」、「純粋理性批判」という用い方の意>味の「批判」(クリティーク)」流れから出ています。
そうですか。
現状に対する批判ですね。
う〜む。
確かに日本の場合には「よりよき社会」を求めての「現状の社会の批判」という事自体が少ないかも。
なんででしょうね。
現状に満足しているのか。
そもそも「考える」という事ができないのか?
現状の把握すらも希薄という事もありそうですね。
新聞を読まないとか社会に対して関心が無いとか。
自分の身近な範囲だけで何となく生活をやり過ごして終わらせているような。
「考えてもロクな事が無い。」などと思っているんでしょうか?