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(回答先: Kは人の上からモノを言っているつもりはありません。 投稿者 考察者K 日時 2005 年 6 月 08 日 23:47:57)
Kさんレス有難うございました。
だいぶギャップが埋まってきた・・というか、意見の食い違いの所在が鮮明にはなってきましたね。
まず「人の上からモノを言う」ですが、これはKさんの「考えが甘いですね」とか、下のほうにある「頭が固すぎます」といった一連の表現を指しております。
これが俺の言う、「人を規定する」です。
もちろんこれは、Kさんの個性ある「修辞」だろうとは思うのですが、その効果(これらの言葉を向けられた人がどう感じるか)については十分な吟味が必要ではないかと、これは提案します。
人を怒らせる以外の効果を認められないからです。
俺はなぜ、こういった言葉が人を怒らせるのかツラツラ考えてみたのですが、それはたぶん、「入り口において人を拒否する」言葉だからだろうと考えます。
言葉の「受けて側」からすると、これらの言葉を吐いた人間がその後、どれほど言を尽くして理路整然と話をしても、もはやスカタンの戯言でしかなくなる。
言葉の「発信者側」は発信者側で、「こんだけ言っても、なんでこいつは俺の言うことを理解できないのか?」と不思議に思うかもしれないが、そもそも自分が「入り口において相手を拒否」しておきながら、相手には自分を受け入れろと迫っている訳で、これはずいぶん虫がいい話です。
自分から相手の鼓膜を破っておきながら、「お前はつんぼか?」と難じているに等しい。
どうも日本という国は縦社会な為か、こういった類の言葉や表現が世襲され続けているようだ。
さらに日本人は同一民族、均質社会に暮らしているが故に、「他人は自分とは異なる世界観を持っている」ということを、本質的に理解し難い環境に置かれているのではないかと思うのです。
もし人々が相互に「自分の宇宙」「相手の宇宙」という相対的な認識をもって対峙すれば、当然のことながらそこには慎重な“言葉や意味のすり合わせ”“確認作業”が伴ってきて、社会からかなり対立や誤解、争いごとが減ってくるのではないでしょうかね。
そしてそのことこそが“双方向コミュニケーション”の要石であり、“平和”や“共存”といった地平に我々を誘ってくれるのではないでしょうか?
さてさて、こちらから仕掛けた議論に長々とおつきあいいただき、本当にKさんには感謝しております。
俺もKさんとの対話を通し、いろいろな気づきを得ることができました。
我々の議論の最初に、膝枕さんがいみじくも仰ったように、この一連の議論は“Kさん”という宇宙と、“都会暮らし”という宇宙の衝突だったのではないかと俺は捉えています。
膝枕さんはご自身の言葉でベクトル、軸足、方向といった表現をされていますが。
俺自身、議論することのどこに楽しさを見出しているのかというと、自分が発した言葉が、相手方の宇宙においてどのような意味に変換されるのかを見ることに、一種のスリルを感じるからなんですね。
換言すれば、もし俺の所有する言葉が俺の息子であるならば、「可愛い子には旅をさせろ」の金言よろしく人との対話や議論といった峻烈な渓流に放り込み、あっちにぶつかりこっちにぶつかりしながら研磨され、個性を伴ったダイヤモンドとなって戻ってくる。
議論をすることの意味のひとつには、そんな側面があるのかもしれません。
ではまた。