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現象学についての私の解釈は全く違っていたと思います。
http://www.asyura2.com/0505/idletalk13/msg/531.html
投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 6 月 07 日 21:56:29: YdRawkln5F9XQ
 

(回答先: 乃依さん、レスいただき光栄です。 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 6 月 07 日 21:32:17)

念の為に調べたところ現象学に関する私の解釈は全く幼稚なものであったと思いました。

げんしょう-がく ―しやう― 3 【現象学】


〔(ドイツ) Phnomenologie〕
(1)現象界や現象する知についての哲学的理説。ランベルト・カント・ヘーゲルらに見られる。
(2)意識に直接的に与えられる現象を記述・分析するフッサールの哲学。現象そのものの本質に至るために、自然的態度では無反省に確信されている内界・外界の実在性を括弧に入れ(エポケー)、そこに残る純粋意識を志向性においてとらえた。実存哲学などにも影響を与え、サルトルによるイマージュの現象学、メルロ=ポンティによる知覚の現象学などが生まれた。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%B8%BD%BE%DD%B3%D8&kind=jn&mode=0&jn.x=36&jn.y=14

現象学

フッサールが確立した学問の方法論。

世界がすでに「ある」とする態度を棚上げ(エポケー)して、そのような信念がどのようにして成立するか、そしてそのような「ある」ものとしての世界は、経験からどのように構成されるのかを探求する。

20世紀の学問に大きな影響を与えた。

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%BD%BE%DD%B3%D8

◆ キーワード:文化人類学、現象学、フッサール

◆ 「真剣に哲学者になろうとする人は誰でも、「一生に一度は」自分自身へと立ち帰り、自分にとってこれまで正しいと思われてきたすべての学問を転覆させ、それを新たに立て直すよう試みるのでなければならない。哲学ないし知恵とは、哲学する者の一人一人に関わる重大事である。」『デカルト的省察』(浜渦辰二訳、pp.18-9)

http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/030724field.html

フッサールは、我々が日常生活を何の問題もなくやり過ごしている生活態度を「自然的態度」(しぜんてきたいど)と命名する。彼によると、この自然的態度からの脱却が、現象学的領域へと知的認識を進める次の一歩になる。

自然的態度からの脱却の方法論として、もっとも代表的なもの(方法や状態を表した標語のようなもの)が、〈判断停止〉とも翻訳されることのある〈エポケー〉である[p.48]。

エポケーによって、一度自然的態度に充ち満ちていた自分の身の回り〈世界〉を失う必要性がある。いわゆる無根拠からもう一度〈世界〉をとり戻すという作業をおこなわなければならない。エポケーに到達する方法全体をさして、フッサールは〈現象学的還元※〉という、難解な言葉で表現しています。

※:フッサールやその背徳の弟子ハイデガーなどは、日常用語をもじった変な造語法を量産する傾向があり、これが敷居を高くしているんだな〜。しかし、造語法は、概念を操作して考量を進める研究者の病気かもしれません。

やれやれ、という感じですが、〈反省〉を導く方法論としては、世界中にある、宗教的職能者の人たちが説く、世界認識の方法と類似していないこともありません。誰にでも開かれた、よい方法なのではないでしょうか。

この説明を聞いた人の中には、「これってデカルトの方法と似ていない?」という質問が出てくるかも知れません。なぜなら、デカルトの cogito ergo sum (私は考える、それゆえに私は存在する)[それ以上に何を疑えちゅうんでしょうか?―疑えない、つまり、ここが存在の根拠であり、思考の出発点でおます]は、双六の振り出しと同じで、最初に戻って考え直す(反省・省察しなおす)という自己のテクニックだからです。

そうです。だからフッサールは現象学の方法について述べた本を『デカルト的省察』と名付け、デカルトの方法に敬意を払うと同様に、それをもっと過激に押し進めるという自負心をもっていたのではないかと、(素人の)私は思います。


「メルロ・ポンティは、そもそもわれわれがおこなういかなる理解も、間主観的に構成された意味の世界を介しておこなわれたものだという事実に注意を促す。つまり社会の一成員として生きるわれわれが、特に主題化することなく「自明的なもの」として受け入れている、もろもろの沈殿した意味的形成物、間主観的に構成された「生活世界」こそ、理解の唯一の源泉だというのである。結局「理解する」とはわれわれにとってわかるように理解する以外の何ものでもないのであり、人類学者といえども、こうした「間主観性の経験」に何ものも負っていないかのような振りをすることはできないのだ」(浜本 1984:285)。

かいせつ:間主観とは、主観をもったそれぞれの人間のあいだに成り立つ、理解や齟齬の総体というふうにここでは理解しておいてください――引用者解説。

http://www.logico-philosophicus.net/phanomenologie/idee_notes.htm

5つの講義の思考のあゆみ (担当:吉田浩)

講義の目的:認識の本質と認識作用の可能性に、首尾一貫した洞察をあたえること。
        =現象学的方法を用いた認識批判

A. 現象学的考察の第1段階

デカルトの懐疑考察から出発。現象学的還元をおこない、超越的な定立を排除(内在に依拠)。

B. 現象学的考察の第2段階

還元されて残った内在のうち、実在的内在をも還元。絶対的明証性(明証的内在)の領域に依拠したうえで、明証性の意味を把握。

C. 現象学的考察の第3段階

絶対的明証性(純粋な所与)のうち、「あらわれ(認識現象)」と「あらわれでるもの(認識対象)」を区別。その上で、「(純粋な所与の)あたえられかた」の形式と、「あらわれ(認識現象)」と「あらわれでるもの(認識対象)」との相関関係を追跡し、解明。


講義1 (担当:吉田浩)

自然的な思考態度と学問

自然的な思考態度は、認識によって与えられる事象を自明なものとして受け取る。
自然的(な思考態度による)学問は、その経験(認識)から、さらに経験されないものを推論し、演繹や帰納を行い、現実を説明する。そこから生じたそれぞれの推論や理論は、その説明可能性の範囲や首尾一貫性をめぐる戦いのなかで淘汰され、前進する。そうした歩みをうながす動因、思考動機は、事象という所与が認識にたいして行う要求のようなものである。
(=実証的諸科学の方法)

哲学的(反省的な)思考態度

自然的な思考態度とは対照的に、哲学的な思考態度は認識と事象との関係に目を向ける。そうすると、もはや認識の可能性は自明なものではなくなる。哲学的な思考態度は、認識体験、認識の意味、認識対象、この3つの相関関係を問題にする。それが、認識の可能性を問題にすることになる。
(=哲学(現象学)の方法)

自然的立場における認識反省の矛盾

認識とは徹頭徹尾主観的な体験である。だから、認識はどのようにして主観を超えでてその対象をとらえるのかとか、さらには客観として認識に対立して定立されるべきなにかがそもそも存在するのかどうか、ということが謎となる。自然的立場からこのような反省を行う場合には、必ず相対主義や懐疑主義に陥らざるをえない。
そこで登場するのが、認識批判としての認識論、つまり現象学である。現象学は、自然的な思考態度が陥るあやまりを指摘し、その不合理を証明することで懐疑論を反駁しなければならない。(認識批判としての現象学の消極的課題。)

真の認識批判の二重の課題

また現象学は、認識体験、認識の意味、認識対象、この3つの相関関係に固有の問題を解決にもたらさなければならない。(認識の本質探究としての現象学の積極的課題。)
いったい認識対象が認識にあたえられるとはどういうことなのか、つまり認識体験と認識対象の相関関係が対象に与える本質的意味とは何か、ということを解決しなければならない。

認識の現象学としての真の認識批判

現象学とは、認識と認識対象性の本質を解明する認識批判という点では、認識と認識対象性の現象学であるといえる。しかしそれと同時に、特別の哲学的思考態度、特別の哲学的方法をも意味する。哲学(現象学)と他の学問とを同等視したり、哲学と他の学問は互いに基礎づけあうことができるとする考えはあやまりである。


哲学のあたらな次元、学問に対立する哲学固有の方法

哲学(現象学)は、あらゆる自然的学問から原理的に区別される。哲学は完全にあたらな次元にあり、完全にあらたな出発点と完全にあらたな方法を必要とする。だから現象学は、自然的学問をはじめとした自然的な思考作業をすべて度外視し、それらを一切利用しない。現象学の認識批判はむしろ、自然的学問と根本的に対立する方法なのである。


講義2 (担当:八雲出)

認識批判のはじまり−あらゆる知識を疑うこと

認識批判はいかに確立されるか?

認識批判はあらゆる認識を疑問視するものではない。もしあらゆる認識を疑問視するならば、そもそも認識批判ははじまりようがない。認識批判をはじめるために、出発点として定立される認識は明晰・不可疑である「第一の認識」でなければならない。対象も同様に、絶対的で疑いの余地がない存在から考察をはじめなければならない。

デカルトの懐疑考察にふれつつ絶対確実な土台を獲得すること

デカルトの懐疑考察によれば、一切を疑っても「私が疑っていることそのこと」を疑う余地はない。すべての思考(コギタチオ)についても同じことがいえる。認識の妥当性・的中性をどれだけ疑おうとも、認識そのものは絶対的にあたえられる。

絶対的所与の領域

あらゆる知的体験・体験一般は純粋な直観のうちに絶対的にあたえられる。この絶対的な所与はすべての思考形態にもあてはまる。その存在を疑うことは無意味。

反復と補足−認識批判の可能性を否定する議論の否定

自然的認識は認識の妥当性・的中性を無根拠に確信している。だが一旦認識の妥当性が反省されるとさまざまな困難・支障が生じる。認識批判学が探究するのは、自然的認識が閑却しているこの点である。

すべての認識を疑う認識批判では、認識ははじまりようがないという反論がありうる。たしかに認識批判学はすべての認識をもまえもってうけとらない。ただ、絶対的に明晰で不可疑な認識を第一の認識とし、これを認識批判学の出発点とする。そのさい、デカルトの懐疑考察より絶対的認識を考察し、思考の領域がこの条件を満たすものであるといわれた。さらにいえば「認識の内在性」が認識批判学の絶対的所与=第一の認識である。

自然的認識の謎−超越

「対象の超越性」こそが謎である。自然的認識は超越的な客観をはじめから措定している。

内在と超越の区別

2つの「内在/超越」

1・内在=実在的内在:認識作用のうちに実在的にあたえられるもの
 超越=認識対象が認識作用のうちにふくまれないこと

2・内在=明証的内在:絶対的・明晰的な所与、ほんもののあたえられかた
 超越=明証ならざる認識、ほんものとして直観しない認識

ここで、第一の内在を絶対的な明証性と取り違えてはならない。また、超越的なものをまえもって与えられたものとして利用することはできない。認識がみずからを超越するものにいかにして妥当するのか、そもそもそれは妥当しうるのかどうか、ということはまだわからない。

認識批判の第一の問題−超越的認識の可能性

認識はいかにして可能か、という問いを問う場合に、認識論は超越的客観を措定する自然的学問の認識を利用することはできない。

例)生まれつき耳が聞こえない人にとっての音楽。知識として知っていても直観できないことから推理することはナンセンスである。

認識論的還元の原理

認識論の研究では、すべての超越物に認識論的に零の符合をつけ、その超越物の実在に関する判断を停止する。

講義3 (担当:八雲出)

認識批判学が使用できる対象性、認識の領域は「思考の全領域」であった。認識現象(思考の存在)それ自体は疑う余地がない。思考は絶対的内在的所与である。

認識論的還元の実行−すべての超越物の排去

現象学的な意味での「純粋な現象」と自然科学的心理学の客観である「心理学的現象」を混同しないこと。心理的な見方では、体験しつつある知覚を自我と関係づけて統合する。

探究の主題−純粋な現象

自我や客観的な時間にくみこまれるこの個人の体験といった心理学的現象はすべて超越物であり、還元により判断停止をうけるものである。

現象学の対象は、自我や時間的世界といった超越性のなかではなく、純粋直観のうちにとらえられた絶対的な所与のうちに定立される。

超越物の存在が的確にとらえうるかは疑問だとしても、超越物と認識との関係そのものは、純粋な現象のうちにとらえうるものだ。なぜなら、超越物と関係してそれをなんらかのかたちで思念する作用そのものは現象の内的性格であるから。

絶対的な現象の「客観的妥当性」

判断は客観的な意味をもたない。ただ主観的な真理をもつだけだ。問題は経験的な主観だけに妥当する妥当判断ではなく、主観一般に妥当する客観的な妥当判断である。

認識論的エポケーの要求(超越の可能性が基礎付けられないうちはいかなる超越も認めない)と、客観的な基礎付けの要求は、現象学と認識論を不可能にする循環をなしているように見える。

だが、われわれは「明晰判明な知覚」(思考の明証性を確信させるもの)によってあたえられるものすべてを思考同様に利用できる。ほんものとしてあたえられるものをとらえる直観は、絶対的に自明なものである。

個別の所与に問題を限定できないこと−本質認識としての現象学的認識

直観にほんものとしてあたえられる絶対的な自明性は、個別的なものにしかありえないだろうか?一般的なものを絶対的に自明な所与として直観することはないのか。否。

われわれは思考についてくだす述語判断においてすでに個別性をふみこえている。言語表現のうちに反映している論理形式によってたんなる思考をこえている。

「アプリオリ」のふたつの意味

個別的なものだけではなく、一般的なものも純粋直観において絶対的にほんものとしてあたえられる。現象学は認識の可能性、価値評価の可能性を本質根拠から解明するための学問、方法である。この「本質」探究のためには上述のように、一般的なものが純粋直観に絶対的にあたえられると考えたほうが都合がよい。直観可能なものとして構成されるアプリオリなことがらもまた、現象学の対象である。

アプリオリのふたつの意味

1・アプリオリな認識とは、純粋に類的本質にむかう、純粋に本質からその妥当性をくみだす認識以外のなにものをも意味しない。

2・カテゴリーとして特定の意味で原理的意義をもつすべての概念、そうした概念に基礎をおく本質法則

講義4


講義5


■関連用語■

デカルト的懐疑

本書においては、「思考(コギタチオ)」の存在は疑う余地なし、との立場から出発すること。

超越

可疑的な認識。たとえば「これはリンゴだ」という認識。もしかしたらその物体は梨かもしれないし、食べてみてリンゴの味がしたとしても、リンゴそっくりにつくられた化学的合成物かもしれない。このように、理論上どこまでも疑うことが可能な認識の領域をいう。

内在

不可疑的な認識。たとえば「あー、このリンゴがうまい」という認識。それは本物のリンゴかもしれないし、リンゴそっくりにつくられた化学的合成物であるかもしれないが、「うまい」と認識したこと自体は疑う余地がない。このように、もはや疑う理由をもつことができない認識の領域をいう。

実在的内在

先の「あー、このリンゴがうまい」という認識は、内在のなかでも特に実在的内在といわれる。リンゴの味は状況によって変わる可能性がある。特定の状況でのリンゴの味わいの認識は内在(不可疑的)ではあるが、あくまでも特殊な(普遍的妥当性がない)ものである。

明証的内在

もはや疑う理由をもてない認識(内在)であり、かつ普遍的妥当性(明証性)をもっている。絶対的所与。


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