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(回答先: Kの主張のまとめ的日本改革論 その2(教育編) 投稿者 考察者K 日時 2005 年 6 月 05 日 10:04:47)
日本に閉塞感が漂ってる要因の一つとして、政府の責任放棄と弱者切り捨て政策と言う面がある。全てを「市場原理」に委ね「自己責任論」において政府の干渉を廃止すると言う「小さな政府」に向かおうというのである。
Kは方向的には必ずしも間違っているとは断言はしない。「税金の無駄遣い・癒着体質を招く利権構造・人気取り政策」と言った面を考えたとき、できるだけ政府関与は廃止すべきである。
しかし、ここで間違ってはいけないのは「民間に任せる事」と「政府がやるべき事」の明確な区別をすることである。何でもかんでも「民営化」と言うような流行を追うかのような判断は「思考停止」と言えるだろう。
「国民に最低限度の文化的生活を保障するライフライン」については「政府がやるべき仕事」なのである。
公共、公益、金融、輸送、交通、教育、福祉、治安維持、防衛といった分野は「最終的には国が責任を持たなければならない」と言う事である。
ただし、国がやるより、民間がやった方が良いと言う場面はある。それが「サービス・付加価値の提供」である。国がやるのは最低基準で赤字で仕方がないのである。苦情が出るのが当然で「それなら、対価を支払って民間を利用して下さい。」で良いのである。
その結果として必要が無くなれば「やる必要は無い」と言う事である。しかし、必要ならば何時でも復活できる体制も必要である。
国営サービスは「民間補間」であり「民業の成長を阻害してはいけない」のである。
なぜ、ここに拘るかというと、ここを間違ってしまうと「社会主義的な向上力の低下」に陥るからである。民間レベルでは公平で「努力が報われる競争社会」が必要なのである。国の関与は「国民のライフラインの維持」に限定し、必要最低限度のサービスを税金投入で行うが、民間が進出してきたら「引継を行うべき」なのである。同時に民間が撤退した時の復活も用意しなければならないのである。
どうしてそのように考えるかというと「民間企業」は世界市場で戦える競争力を備えなければならないからでもある。誤った保護主義は企業から競争力を失わせる。
国は「民間企業の競争力」と言う物を考えた経済政策を行う必要があるのである。
現在の問題点は中小・零細企業の元気の無さである。不良債権処理の煽りで相当数の中小・零細企業が倒産・消滅したが、この分野には「将来の日本の希望」がある可能性をKは指摘する。既存の大企業は中国バブル後は頭打ちである。将来の希望にはなり得ないのである。大企業は小回りが利かず、斬新な発想も育ちにくい「企業保守」に陥るので未来には役に立たない。
今必要なのは、中小・零細企業支援である。
そもそも、規制緩和、市場自由化というのは「新発想のベンチャービジネス」に期待をした経済政策だったはずである。ところが、蓋を開けてみたら「弱小企業切り捨て」だったのである。国は自由化に対応できない大企業の防衛に協力し、無駄な行政改革に精を出し、効果のない財政再建に目を奪われて「未来を育てる事」を忘れてしまったのである。
歳出削減は必要である。しかし「一律カット」などというのは「思考停止」の考えである。「国民に必要な歳出」と「無駄な歳出」は厳密に精査し、適切に区別しなければいけない。面倒だから「全て民間に」と言うのは政治家失格である。そんな議員の定員こそカットすべきだある。
日本で未来に対し対世界市場に一番期待できるのは中小・零細・新規弱小企業である。
ここは、赤字覚悟で保護育成する必要がある。何故ならば、今の日本の中ではこの分野が「最もチャレンジ精神を持ち、柔軟な発想力を持っている」からである。
民営化したのち第3セクターとしてやっていた鉄道が次々と廃止されている。市町村合併や学校の統廃合によって「学校に通うのも困難」という状況も発生しているのではないだろうか?必要な交通機関の維持は国の責任である。税金を投入しても、鉄道を維持すべきであろうとKは思う。
単なる、同情ではない。それを国がする事によって「国民が国を信頼し、将来に安心感を持ち、国を好きになる」からである。
その事が、地域の活性化に繋がり、都市部の一極集中に歯止めを掛け、貯蓄志向の脱却から市場の景気回復に役立つと思うからである。
生きている間は競争原理によって「公平に良い生活を手に入れる方法があり」
しかし、最低限の保障は政府が責任を持ち
その財源は死んだ人が残した財産によって賄う事により、消費税と所得税は他国より低い。
その上で、世界市場での経済戦争に対しては国が有効に支援する。
そんな、協力体制によってこそ日本の国益は維持されるのではないかとKは考えている。