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あなたのお言葉をどう捉えたらいいのでしょう?
http://www.asyura2.com/0505/idletalk13/msg/278.html
投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 5 月 07 日 17:43:18: YdRawkln5F9XQ
 

(回答先: 考察者Kさんへ:再度、問いかけられたらどうですか? 投稿者 SWAN 日時 2005 年 5 月 07 日 04:24:46)

SWANさん、考察者Kさん、横レス失礼致します。

このSWANさんのお言葉は私にとって非常に難しい問いを発せられているように思いました。
私自身を変える為に感想を述べたいと思います。

>考察者Kさんへ:再度、問いかけられたらどうですか?
http://www.asyura2.com/0505/idletalk13/msg/272.html
>投稿者 SWAN 日時 2005 年 5 月 07 日 04:24:46: 5ZIUIYNeIYP/c

>  知的好奇心はありません。

私自身は知的好奇心がある人間なのかも知れません。
新しい情報を貪欲に求めますし、何か分からない事があれば分かるまで情報を集めたり考えたりすると思います。
「何故、事故は起きたのか?」などです。
これは、二度と同じような事故を起こさない為にこういう原因を探ろうとするのです。
で、結局自分自身を社会に関わらせようとしているのだと思います。
あなたは社会に関わる事を自分からはされない受身の方なのかも知れませんね。
しかし、その事を私は責めようとは思いません。
自分もそうなるかも知れないからです。
何をやっても無駄に終わったという経験を積めばそうなるのかも知れません。
しかし、私のこれまでの人生で頑張れば何とかなるという事もありましたので「何をやっても無駄」だとは中々思わないだろうと思います。

> 現在、私に知的好奇心は微塵もありません。私は「知らない」ことだらけです。です>が、その
>ことを恥ずかしいとも、もっと知りたいとも思いません。もっと知ることが自分の「進>歩」に
>つながるとも思えませんし、さらに知識の量の多寡が何ほどかの優位を個人間にもたら>すとも思
>っていません。

進歩とか優劣とかは抽象的な言葉ですね。
意味はあまり無いかも知れません。
そのような言葉を目標にする事の徒労感があなたを覆っているようにも見えます。

> 何かを知ることは何かを失くすこと。言葉を多く知れば知るほど、人は自分のことば>を失って
>ゆきます。

自分の言葉とは何でしょうか?
そのようなものがあるのでしょうか?
知識を得てもし無くなるような「自分の言葉」なるものがあるのだったら、その「自分の言葉」とは何か?こそが問われねばならない気がします。

>もちろん、これは一面的な話です。何かを知ることが、何かを失くさなくてすむ「知
>り方」、新しい言葉を知ることが、自分のことばを失わなくてすむような「知り方」、>そんな
>「知り方」がきっとあると思っています。

失う事は悪い事なのでしょうか?
もし、自分の考えが間違っているのだったら自分の考えを失う事はいい事ですらあります。
言葉とはどんどんたまっていく財産のようなものでは無く、自分の脳の中に張り巡らされている構築物であり、これは新しい知識とともにどんどん改変されていくものであるように思います。

>本当に「知る」必要があることは、必ず向こ>うからや
>ってきます。

「知る必要がある事」と「知る必要が無い事」を分類されていらっしゃるのですね。
その分類の基準はどのようなものでしょうか?
私には全てが知る必要がある事であり知る必要が無い事などこの世には無い気がします。
そりゃあ、優先順位というものはありますよ。
しかし、優先順位がいかに下位にあろうとも「知る必要が無い」などと断定をする根拠は私には皆無です。

さらに、「本当に知る必要がある事は必ず向こうからやってくる。」とおっしゃいますが、自分から求めて必要な知識を得るという事は限りなく多くあると思います。


>そして私になにがしかの陰影を落としていきます。この印刻を私の中に与えないも
>のは、たとえどのように高尚な哲学であろうと、どのように重大な社会問題であろう>>と、私には
>無意味なものです。

印象が残らないものは自分にとってあまり意味が無いものだという事だと思いますが、それはそうでしょう。

>この意味で、私にとっては、「戦争板」も「番外地板」も等価なのです。

それは私も同じです。

>同様な意味で、私はいわゆる情報というものにほとんど興味がありません。

それは不思議な現象ですね。
あなたは何に興味をもたれているのですか?
情報の多くに興味を持たなかったとしてもあなたが興味を持たれている関係の「情報」には興味を持たれるはずですよね?

>それが老化の現れだ
>とすれば、きっとそうなのでしょうね。ただ、ものごとを味わいたいという思いはとて>も強いで
>す。

そのお気持ちは分かりますね。
情報では無く、人の様々な感想などに興味が沸くという事では?
ジャーナリスティックな関心よりも詩を味わいたいというような事だと思います。
この阿修羅掲示板には詩とか文学に関する投稿はあまりありませんからね。

> たとえばホロコースト「問題」です。それを肯定する者がシオニストであり、それを>否定する
>者がネオナチであるという世界。裏返せば、肯定する者がネオナチであり、否定する者>がシオニ
>ストであるのかもしれませんが。どちらにしても私にはどうでもいいことです。

それがどちらであろうとあなたの生活には何も影響が無いという事なのでしょうか?

>無論、私はこの
>ことの解明に全人生を捧げている方がおられることも存じています。ただ同時に、吹け>ば飛ぶよ
>うな将棋の駒に自分の全人生を捧げている方があることも知っています。そこに貴賎は>ありません。等価です。ただ捧げれば捧げるほど、これらの人々が偏狭になっていくの>はなぜなのだろう
>か、と私は思います。

偏狭になっていっているのでしょうか?
そうでは無く主張されているだけだと思うのですが。

>そして、問題自体は私の心の中からスルリと抜け落ちてしまいます。

問題の中身よりも、シオニストとかネオナチなどという罵り合いに不毛さを感じ興味が失せるのでは?

>明日、目覚めた時、私は「ホロコースト」について考えません。
 
それは、問題が他にあると思われているからでは?
私も「何故、今、ホロコースト論なのか?」については分からないです。
従ってJR事故の事を考えるかも知れませんが、ホロコーストについては考える可能性は低いです。

【済みません。一旦ここで中断します。ワヤクチャ】

> たとえばニート「問題」です。たとえ、永続的ではないものと知りながら、現実の社>会への
本格的参入をしないおびただしい数の若者の存在は、ある意味で未来への希望であるかもしれま
せん。リストラという名のもとに強制的に社会から排除される人々が存在し、他方、意識的に
社会を排除する人々が存在すること。この絶妙なバランスはとても興味深いことです。
ここには本源的な問がありそうです。
でも、明日、目覚めた時、私は「ニート」について考えません。

 たとえば郵政の民営化「問題」です。それを推進する者が「売国奴」と呼ばれ、反対する者が
「守旧派」と呼ばれる世界。当然ですが裏返しのレッテルも可能です。いずれにしても、それで
日本がどうにかなるとは思いません。日本がどうにかなったとしても、それで私がどうにかなる
とは思えません。ただ、私は郵政の現場をこの目で知っており、大切な友人もいます。また、
その中で自殺者が出ていることも、もちろん具体的に知っています。それでも、明日、目覚めた
時、私は「郵政民営化」について考えません。

 私は「社会問題」というものがわかりません。「社会問題」という表現の中には、この問題は
社会を構成する人々が共有すべき問題であり、社会システムの改善で解決するという前提があります。この「改善」のために多数を獲得し、組織し、大なり小なり権力を獲得し、政治的に解決
できるという前提があります。私はこの前提自体を疑っています。私は、社会システムや政治レ
ベルで解決できる問題など、実は瑣末な問題ではないかと思うのです。さらに言えば、最も遠回
りな方法であるようにも思います。
 「戦争」は瑣末な問題ではあるまいと反論されるかもしれません。今、進行しつつある戦争へ
の道を、どうやって止めるのかと長壁さん辺りから問い詰められるかもしれませんね。(笑)
でも、戦争に反対するために、多数を組織し「たたかう」ことを今の私はしたくありません。
「たたかう」ことは「敵」を前提とします。そして「敵」への憎悪を要求されます。さらには、
「敵・味方」の区分は当然「味方のような敵」「敵のような味方」と様々に分化していきます。結局、疑心は暗鬼を生み、無数の対立する諸党派が形成されます。「たたかい」を止めるために
人が「たたかう」。これほどばかげた世界があるでしょうか。今この現在、イラクの地で無意味
に人々が殺されていることを私も充分に知っています。歴史がいかに多数の人々の無残な死を要求してきたかを、私は哀しみとともに思い起こします。私にできることは、誰とも「たたかいた
くない」という自分の心に素直に従うこと、そして祈ることだけです。それでも、明日目覚めた時、私は「反戦」を考えないでしょう。

 「社会問題」とは「私の問題」ではないからでしょう。「社会問題」を語ることが、人を偏狭
にさせてゆくのだとしたら、それは「人の問題」ではない証しなのかもしれません。

  私は「生きるための好奇心」と書きましたが、好奇心でさえありません。
 風のようにさんが提示されたものが、現在、私が立脚している部分(これは確固としたもので
はなく、微妙にあいまいな細やかな感覚です。)に非常に近い感じがしました。
私の場合、これははなはだ曖昧で、はっきりと言語で明示できるものではありませんでした。
風のようにさんが語られた言葉の中に、この私の持つ感覚をよりピントが合った状態で垣間見
せてもらったような気がしたのです。
 彼のことばに、私は論理以上の具体的経験が集約されたものがあることを感じました。
そのことを何よりも確認したかったのです。風のようにさんは、あの言葉を単なる思弁の積み重
ねではなく、何度かの絶望と、数々の葛藤の中から自己の経験の中で獲得されたものであったと
感じたからです。
 そのような転回点を越えた人が語ることばは、今、絶望と葛藤の中に生きている人々にとって
無益なはずはないからです。

 私に「信仰」はありません。

 考察者Kさんは、「観念的」なことを「科学的」「分析的」でない仕方で考えることが
即「信仰」と思われてはいませんか。逆に言えば、哲学的言辞や経済学的言辞でで同様なことを
語ることを高尚なことと考えていませんか。「信仰」とは別段宗教のみに限ったことではありま
せん。私は「信仰」を「帰依」として考えています。自分の主体を喪失し、ある対象に身を委ね
てしまうことを「信仰」だと考えています。ですから、信仰の対象は宗教だけとは限りません。
むしろ、現代では企業・組合・党派・「科学」・「自由」・民主主義・国家など、およそありと
あらゆるものが信仰の対象になっているのではないのでしょうか。

 さらに、「科学的」思考に拠って「宗教」をあなどってはいけません。宗教には人間に対する
根源的な問いかけがあります。「自分とは何か?」「世界とは何か?」「存在とは何か?」とい
う根源的問いかけです。この問いかけに「神の論理」を以って答えようとするのが宗教です。
創価学会、統一教会、オウム真理教にさえ、彼らなりの答えがあるのです。その背後には、
「生きること」の意味を問う、無数の人々がいることを考えてください。これらの人々は、
決して「科学的」に無知な存在なのではないのです。今、私たちが持ちうる「哲学」が、これら
の根源的な問いかけにどれほど応えることができるでしょうか。

 さらに言えば、「意識」をあなどってはいけません。「意識」を考えることは小賢しい欺瞞とは質的に異なります。一人の人間は、比ゆとしてではなく文字通り、一つの宇宙です。人間は
自分が想像している以上にすばらしい存在なのかもしれません。

 あなたは、私に「そっちは危険だよ」と声をかけてくださいました。僭越であることを恐れず
に言えば、その同じことがKさんあなたにも問われていると思っていただきたいのです。
 「そっちは危険」は「こっちは安全」を前提にしています。しかし、その前提はそれほど確か
なものでしょうか。その確かさを再度振り返ってみていただきたいのです。

 風のようにさんとの対話が、その見直しの契機になるのではないかと私は思います。
上辺の論理だけで反応せずに、再度ゆっくりと味わってみられたらいかがでしょうか。

 これこそ余計なお世話かもしれませんね。(笑)

  失礼しました。

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