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知的好奇心はありません。
現在、私に知的好奇心は微塵もありません。私は「知らない」ことだらけです。ですが、その
ことを恥ずかしいとも、もっと知りたいとも思いません。もっと知ることが自分の「進歩」に
つながるとも思えませんし、さらに知識の量の多寡が何ほどかの優位を個人間にもたらすとも思
っていません。
何かを知ることは何かを失くすこと。言葉を多く知れば知るほど、人は自分のことばを失って
ゆきます。もちろん、これは一面的な話です。何かを知ることが、何かを失くさなくてすむ「知
り方」、新しい言葉を知ることが、自分のことばを失わなくてすむような「知り方」、そんな
「知り方」がきっとあると思っています。本当に「知る」必要があることは、必ず向こうからや
ってきます。そして私になにがしかの陰影を落としていきます。この印刻を私の中に与えないも
のは、たとえどのように高尚な哲学であろうと、どのように重大な社会問題であろうと、私には
無意味なものです。この意味で、私にとっては、「戦争板」も「番外地板」も等価なのです。
同様な意味で、私はいわゆる情報というものにほとんど興味がありません。それが老化の現れだ
とすれば、きっとそうなのでしょうね。ただ、ものごとを味わいたいという思いはとても強いで
す。
たとえばホロコースト「問題」です。それを肯定する者がシオニストであり、それを否定する
者がネオナチであるという世界。裏返せば、肯定する者がネオナチであり、否定する者がシオニ
ストであるのかもしれませんが。どちらにしても私にはどうでもいいことです。無論、私はこの
ことの解明に全人生を捧げている方がおられることも存じています。ただ同時に、吹けば飛ぶよ
うな将棋の駒に自分の全人生を捧げている方があることも知っています。そこに貴賎はありません。等価です。ただ捧げれば捧げるほど、これらの人々が偏狭になっていくのはなぜなのだろう
か、と私は思います。そして、問題自体は私の心の中からスルリと抜け落ちてしまいます。
明日、目覚めた時、私は「ホロコースト」について考えません。
たとえばニート「問題」です。たとえ、永続的ではないものと知りながら、現実の社会への
本格的参入をしないおびただしい数の若者の存在は、ある意味で未来への希望であるかもしれま
せん。リストラという名のもとに強制的に社会から排除される人々が存在し、他方、意識的に
社会を排除する人々が存在すること。この絶妙なバランスはとても興味深いことです。
ここには本源的な問がありそうです。
でも、明日、目覚めた時、私は「ニート」について考えません。
たとえば郵政の民営化「問題」です。それを推進する者が「売国奴」と呼ばれ、反対する者が
「守旧派」と呼ばれる世界。当然ですが裏返しのレッテルも可能です。いずれにしても、それで
日本がどうにかなるとは思いません。日本がどうにかなったとしても、それで私がどうにかなる
とは思えません。ただ、私は郵政の現場をこの目で知っており、大切な友人もいます。また、
その中で自殺者が出ていることも、もちろん具体的に知っています。それでも、明日、目覚めた
時、私は「郵政民営化」について考えません。
私は「社会問題」というものがわかりません。「社会問題」という表現の中には、この問題は
社会を構成する人々が共有すべき問題であり、社会システムの改善で解決するという前提があります。この「改善」のために多数を獲得し、組織し、大なり小なり権力を獲得し、政治的に解決
できるという前提があります。私はこの前提自体を疑っています。私は、社会システムや政治レ
ベルで解決できる問題など、実は瑣末な問題ではないかと思うのです。さらに言えば、最も遠回
りな方法であるようにも思います。
「戦争」は瑣末な問題ではあるまいと反論されるかもしれません。今、進行しつつある戦争へ
の道を、どうやって止めるのかと長壁さん辺りから問い詰められるかもしれませんね。(笑)
でも、戦争に反対するために、多数を組織し「たたかう」ことを今の私はしたくありません。
「たたかう」ことは「敵」を前提とします。そして「敵」への憎悪を要求されます。さらには、
「敵・味方」の区分は当然「味方のような敵」「敵のような味方」と様々に分化していきます。結局、疑心は暗鬼を生み、無数の対立する諸党派が形成されます。「たたかい」を止めるために
人が「たたかう」。これほどばかげた世界があるでしょうか。今この現在、イラクの地で無意味
に人々が殺されていることを私も充分に知っています。歴史がいかに多数の人々の無残な死を要求してきたかを、私は哀しみとともに思い起こします。私にできることは、誰とも「たたかいた
くない」という自分の心に素直に従うこと、そして祈ることだけです。それでも、明日目覚めた時、私は「反戦」を考えないでしょう。
「社会問題」とは「私の問題」ではないからでしょう。「社会問題」を語ることが、人を偏狭
にさせてゆくのだとしたら、それは「人の問題」ではない証しなのかもしれません。
私は「生きるための好奇心」と書きましたが、好奇心でさえありません。
風のようにさんが提示されたものが、現在、私が立脚している部分(これは確固としたもので
はなく、微妙にあいまいな細やかな感覚です。)に非常に近い感じがしました。
私の場合、これははなはだ曖昧で、はっきりと言語で明示できるものではありませんでした。
風のようにさんが語られた言葉の中に、この私の持つ感覚をよりピントが合った状態で垣間見
せてもらったような気がしたのです。
彼のことばに、私は論理以上の具体的経験が集約されたものがあることを感じました。
そのことを何よりも確認したかったのです。風のようにさんは、あの言葉を単なる思弁の積み重
ねではなく、何度かの絶望と、数々の葛藤の中から自己の経験の中で獲得されたものであったと
感じたからです。
そのような転回点を越えた人が語ることばは、今、絶望と葛藤の中に生きている人々にとって
無益なはずはないからです。
私に「信仰」はありません。
考察者Kさんは、「観念的」なことを「科学的」「分析的」でない仕方で考えることが
即「信仰」と思われてはいませんか。逆に言えば、哲学的言辞や経済学的言辞でで同様なことを
語ることを高尚なことと考えていませんか。「信仰」とは別段宗教のみに限ったことではありま
せん。私は「信仰」を「帰依」として考えています。自分の主体を喪失し、ある対象に身を委ね
てしまうことを「信仰」だと考えています。ですから、信仰の対象は宗教だけとは限りません。
むしろ、現代では企業・組合・党派・「科学」・「自由」・民主主義・国家など、およそありと
あらゆるものが信仰の対象になっているのではないのでしょうか。
さらに、「科学的」思考に拠って「宗教」をあなどってはいけません。宗教には人間に対する
根源的な問いかけがあります。「自分とは何か?」「世界とは何か?」「存在とは何か?」とい
う根源的問いかけです。この問いかけに「神の論理」を以って答えようとするのが宗教です。
創価学会、統一教会、オウム真理教にさえ、彼らなりの答えがあるのです。その背後には、
「生きること」の意味を問う、無数の人々がいることを考えてください。これらの人々は、
決して「科学的」に無知な存在なのではないのです。今、私たちが持ちうる「哲学」が、これら
の根源的な問いかけにどれほど応えることができるでしょうか。
さらに言えば、「意識」をあなどってはいけません。「意識」を考えることは小賢しい欺瞞とは質的に異なります。一人の人間は、比ゆとしてではなく文字通り、一つの宇宙です。人間は
自分が想像している以上にすばらしい存在なのかもしれません。
あなたは、私に「そっちは危険だよ」と声をかけてくださいました。僭越であることを恐れず
に言えば、その同じことがKさんあなたにも問われていると思っていただきたいのです。
「そっちは危険」は「こっちは安全」を前提にしています。しかし、その前提はそれほど確か
なものでしょうか。その確かさを再度振り返ってみていただきたいのです。
風のようにさんとの対話が、その見直しの契機になるのではないかと私は思います。
上辺の論理だけで反応せずに、再度ゆっくりと味わってみられたらいかがでしょうか。
これこそ余計なお世話かもしれませんね。(笑)
失礼しました。