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(回答先: 考察者Kさんへ:再度、問いかけられたらどうですか? 投稿者 SWAN 日時 2005 年 5 月 07 日 04:24:46)
>SWANさん ご意見には感謝いたします。
風のようにさんとは既に和解は成立しています。(理由は内緒ですが、まあ色々と複雑です。)
どうもKを科学的思考の権化のように思われている人がSWANさんに限らず多いような気もしますので一応言い訳を書いておきますが、Kは必ずしも「科学至上主義者」ではありません。どちらかと言えば「オカルト主義者」に近い面も持っています。
この世に不思議な事は実際に存在するのです。それは確かなのです。しかし、それを利用する事によって「人を誤った方向に導こうとする」のはKは間違いだと思います。
ですから「あらゆる宗教」に対してKは基本的には間違いだろうと先入観を持っています。
【真実は追究する必要がありますが、メカニズムが解明されない限りは「社会的には無意味」なのです。
この社会に生きていくという事は、信じる信じないの世界でなく、出来るか出来ないかの世界なのです。
神がいたとしても、神とコミュニケーションが出来る方法が確立され「神に何かをして貰えなければ」(神の定義とか神が人に何を成し得るかは問題ですが)何の意味もないわけです。
カスミを食して生きる仙人が本当にいる、いないはともかくとして、現在確率的に科学的思考によって行動するのが一番間違いが少ないのです。
将来、どんな真実が発見されるにしても、今は、メカニズムが判明していないのですから「レアケース(例外の事象)」として処理する以外には方法はありません。
仮に「ホウキに乗って飛び回る老女」がいて、それを多くに人が目撃し、それは絶対に間違いないと主張したとします。
魔女という存在は「魔女裁判」という物が過去に実際にあり、多くの魔女が処刑された事から考えても、「存在する」という結論に達する研究者が続出します。
ここまでは、良いとしても、目撃した人も、研究によって「存在する。」と結論した人も、誰も「ホウキに乗って飛ぶ事はできない」のが事実です。
仮に信じると言う人が100人にて、ホウキに跨らせて崖から飛ばせてみれば100人死ぬでしょう。1000人させれば1000人死ぬでしょう。もしかしたら1億人くらいさせてみれば1人くらい飛べるかもしれませんが、そんな確率の低い真実だとすれば「役に立たないし、意味も無いのです。」
科学至上主義が正しいかどうかは主観ですが、生きて行くという現実がある以上、確率的に確かな方向に進まなければなりません。】
これは、Kが最近、阿修羅ではない場所で書いた文章の一部ですがKの基本姿勢はこの文章に集約されています。
「思想」「信条」「宗教」以前に人は「現実社会で食べていかなければなりません」
「生きるためには戦いから逃れる事はできません(戦いの定義は問題ですが)」それを否定してしまう事は「自殺しなさい」と言っているのと大差無いとも考えられます。
勿論、そんな意味で言っているわけでは無く、悪意すらない事は十分に分かっていますが、「全てを受け入れて自我を捨てる」ということは最終的には「生きる努力の放棄」にしかなりえないとKは思っています。
ただ、それを受け入れて「平和に神に召される」のが良いのか?「現実地獄で改善の努力をしながら苦労して生き残る」のが良いのか?は大いに疑問ではありますが、ほおっておいても時が来れば「いずれ誰でも神に召されます。」
あちらの世界が「本当に良い所かは不明(無間地獄の可能性だってありますし、無の世界の可能性もあります。)ですが、強制的に引っ張られる」のですから、何も急いで行く事もないでしょう。
だとすれば、この世を少しでも住みやすくする工夫をするべきでしょう。とKは主張しているのですが、その時に共通認識を育てにくい「不確かな出来事」が提示される事が結構あります。その場合は「確率論と科学的考察」を示す事で「それは共通認識にはなり得ないレアケース」と相手にも認識してもらおうとしているのですが、これを受け入れようとしない人もいます。結果的にKが科学至上主義者と思われてしまうわけですが、Kは共通認識に立った議論への誘導をしているだけです。
その上で「共通認識を形成するには、現状の認識と科学的思考は生活者による改善を多数派形成する目的においては必要不可欠」だというのがKの考えです。
一部の人が知り得ている真理に基づいての「方法論」では誰からも相手にされないので議論そのものが「楽しい会話」になってしまいます。
Kは「楽しい会話」をするために阿修羅で活動しているのではありません。Kにはもっと好きな趣味が多数ありますので「楽しい会話」のために時間を潰すくらいならばオカルト本でも探しています。
まあ、そのような次第ですので、今のところ哲学的(現実的でない真理追究的)な考察をする余裕はありませんね。