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(回答先: 風のようにさんへ:とりとめのない感想です 投稿者 SWAN 日時 2005 年 4 月 27 日 03:26:06)
SWANさん、レスありがとうございます。
▼SWANさん
【この場合、一つ私には腑に落ちない部分があります。風のようにさんは、当初の段階では「恐
怖感」がからみつき、その束縛を感じていた。それが限界点に達すると自己の内部で「爆発」が
起こり、その外へ飛び出させた。飛び出してみると意外とうまくいった。ということでしたよ
ね。この段階では飛躍は、まだそれほど意識的なものではないですよね。しかし、飛び出すとう
まくいく。これは、なぜなのでしょうか。これは、風のようにさんだけのものなのでしょうか。
ひょっとしたら、もうちょっと普遍とまではいえませんが、何かしら、共通のメカニズムがある
のではないのだろうか、などと思うのです。】
私は「爆発」と表現しましたが、ニュアンスとしては「どうにでもなれと吹っ切ること」だと思います。そうすることで“一時的に”「恐怖感」の元となる「執着意識」を無くし現状を打開する意思表示を明確にし、それを行動することで、結果として諸問題の解決への道が開いていくものだと考えております。
「運を天に任せる」「なんとかなるさ」等は、同じメカニズムの概念だと思います。
▼SWANさん
【さらに「重り」が取れる瞬間は、意識的に覚悟を決めて捨て去りましたよね。この意識を決め
て捨て去れば誰でも「重り」が取れるのか、という疑問があるのです。1回性の人生で、こんな
ことを問うのがばかげていることは、わかっているのですが。私は、何かしら人々に共通のもの
があるのではないかと思いますのでこんな疑問を思ってしまうのでしょう。しかし、あなたの投
稿を読み、「犠牲者意識」のメカニズムを認識し、再度「自己」から出発しようとする人にとっ
て、これはある意味で切実な問題なのではないでしょうか。】
「執着意識」というものを完全に捨て去ったと決意したら、ある種の「重り」のようなものから開放され体が軽くなったように感じませんか?
「金に執着しない」「出世に執着しない」「人に評価されることに執着しない」「食べることに執着しない」「結婚することに執着しない」「いい家や車を買うことに執着しない」・・・等々。それは、そういう人間になろうと決めた瞬間にも、精神的に開放され、体も軽くなったと感じると思います。
もちろんそれは一時的なものかもしれませんが、それを意識すらしなくなるほどそれそのものになり、行動したとしたら、それは「執着意識」のない自由な思考の人間になっているのだと思います。
「執着意識」のない人間だったら、ここでどういう行動するかということを考えて、それと同じ行動を心掛けると、それそのものに近づくことになるとも思っております。
【存在が、その意味や目的ではなく、存在しているということのみで無前提に肯定される世界。美しい世界です。
「野に咲く花は幸せであるのだろうか?」
「野に咲く花」は自分を問いません。ただ咲きつづけるだけです。そのことがすでに幸 せなのです。
ある人物が、長い旅路の果てに自分の全存在を賭けて、もう一人の自分に問いかけます。
「人は幸せになれるのでしょうか?」
問いかけられた自己は、もう一人の自己に、長い旅路の果ての自分の全存在を賭けて答え ます。
「なれますとも!」】
私は「幸せ」は、なるものではなく、あるものだと思っております。つまり「幸せ」はある条件の結果として生まれるものではなく、ある条件が「幸せ」の結果として生まれてくると思っております。
ですからある条件の結果に「幸せ」を求めると、「幸せ」は一時的なものであって、永続的な「幸せ」を手にすることはできないと感じております。「幸せ」で在れば、どんな結果があろうとも「幸せ」で居続けることができ、そして自分が幸せだと感じる経験が得られるものだと思っております。
これはどんな「感情」をも当て嵌めることができるものです。