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風のようにさん、こんにちは。
あれから、何度も読み返し、他の関連投稿をも読ませていただきました。
仰られることは、私なりに腑に落ちたように思います。したがって、あなたの投稿を敷衍しな
がら仰ったことについて書くことは,煩雑で間延びした感じになると思いましたので、直接私が
感じたことを書かせていただきます。
私の場合、半ば意識的、半ば偶然に導かれて、あなたが語ることばを素直に受容できるところ
に立っていました。あなたは、それをすべて意識的に対象化し、観察し、そして決然と自分の
意思を以って乗り越えられたのですね。
「犠牲者意識」は「恐怖感」を淵源とし、「恐怖感」は「執着意識」と表裏一体であること充
分に理解できたと思います。したがって、まず何よりも自己の内部にある「恐怖感」「執着意
識」をはっきりと自覚し、その実態を明らかにする。その上で覚悟を決めて「執着意識」を切り
捨てる、飛び越える(あまり適切でない表現かもしれません)ということなのでしょうか。
この場合、一つ私には腑に落ちない部分があります。風のようにさんは、当初の段階では「恐
怖感」がからみつき、その束縛を感じていた。それが限界点に達すると自己の内部で「爆発」が
起こり、その外へ飛び出させた。飛び出してみると意外とうまくいった。ということでしたよ
ね。この段階では飛躍は、まだそれほど意識的なものではないですよね。しかし、飛び出すとう
まくいく。これは、なぜなのでしょうか。これは、風のようにさんだけのものなのでしょうか。
ひょっとしたら、もうちょっと普遍とまではいえませんが、何かしら、共通のメカニズムがある
のではないのだろうか、などと思うのです。
さらに「重り」が取れる瞬間は、意識的に覚悟を決めて捨て去りましたよね。この意識を決め
て捨て去れば誰でも「重り」が取れるのか、という疑問があるのです。1回性の人生で、こんな
ことを問うのがばかげていることは、わかっているのですが。私は、何かしら人々に共通のもの
があるのではないかと思いますのでこんな疑問を思ってしまうのでしょう。しかし、あなたの投
稿を読み、「犠牲者意識」のメカニズムを認識し、再度「自己」から出発しようとする人にとっ
て、これはある意味で切実な問題なのではないでしょうか。
価値観を取り払った時に見える世界。それは無味乾燥どころか、その対極のものでしたね。
ただ、このことは半ば了解していました。半分は私の方便でした。ごめんなさい。しかし、あ
なたの説明で感じとしてあった世界、それがより意識化されたような気がしています。
卑近過ぎる話で恐縮なのですが、私は、生来「毛虫」が大嫌いでした。あのもぞもぞと蠢く姿
は、私にとって恐怖そのものでした。あんなに怖かったその毛虫が、あるときとてもけなげなも
のに見えたのです。子供が生まれたという個人的体験があったせいもあると思います。あの小さ
なからだで全身を動かし、一生懸命生きている。その姿にとても感動しました。毛虫自体は恐怖
でもなく、一生懸命生きているわけではないのでしょう。同じものを眺めて、これほど受け取る
感覚が違うものかと驚いた記憶があります。
存在が、その意味や目的ではなく、存在しているということのみで無前提に肯定される世界。美しい世界です。
「野に咲く花は幸せであるのだろうか?」
「野に咲く花」は自分を問いません。ただ咲きつづけるだけです。そのことがすでに幸 せなのです。
ある人物が、長い旅路の果てに自分の全存在を賭けて、もう一人の自分に問いかけます。
「人は幸せになれるのでしょうか?」
問いかけられた自己は、もう一人の自己に、長い旅路の果ての自分の全存在を賭けて答え ます。
「なれますとも!」
私が好きな小説の一部分です。あなたの如往さんとの対話を読んでいて、ふと思い出しまし
た。
存在を無前提に肯定することは、価値観をなくして事物を観ることと同義なのでしょう。
曖昧な私は、このことに対する反論を即座に思いつくことができます。しかし、そのことを同
時に恥ずかしく思います。
同じく如往さんとの対話であなたが語られたこと・・・・
人は、この世に投げ出されるのではない。森羅万象存在するものにはすべて意識がある。人
の生は限定性を前提にしてはいない。
私の直感は、言葉どおりに受け入れてしまいました。あなたが仰られるように「すぐに呼応
する」私は、明らかに「非常識人」ですね。(笑)
私はいまだ「途上にある者」です。その途上であなたにお会いできたことを、心より嬉しく思いました。
ありがとうございました。