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(回答先: Re: たけ(tk)さん、風のようにさん、如往さんへのまとめレス 投稿者 暇ラヤ山脈 日時 2005 年 4 月 27 日 05:28:36)
暇ラヤ山脈さん、レスありがとうございました。
先の「暇ラヤ山脈さんの生き方」については興味深く拝見させて頂きました。私は、暇ラヤ山脈さんが嘘を言っているとかを勘繰っているわけではなく、またその生き方を否定しているわけでもなく、ただありのままに受け入れているつもりです。またそれについて根掘り葉掘り暇ラヤ山脈さんに追及していこうという欲求は、今のところはありません。ただ、たけ(tk)さんが触れていた部分【思うに、親(のいずれか)が動物的な生きる力を持って子供に接しないかぎりは、子供は自らの生きる力を自らの内に感じることができなくなるだろう。】については少し再考してみようとは思っております。
さて、暇ラヤ山脈さんや如往さんが言われている私に対する疑問的なことや助言的なことは、私なりに理解しているつもりです。
私が取っている態度や行動は、正直に今の私がどういう人間であるかを表現するものです。
私が掲示板に書き込むのは、他人の為ではなく自分の為にと思っております。またそれは自分を認めてもらい褒めてもらいたいという感情を得るためでもありません。(それは褒めて貰わなければならないほど自分が不完全な人間で不足している人間ではないとしており、これは私の思い上がりということではなく、誰しもが完全な存在であり不完全な存在などいないと思っているからです。それは自分を不完全なものと自らが自らを定義している意識がそこにあるだけと思っております。もちろん私も完璧ではありませんが。)
では、私は何を自分に求めているのか、どのように自分を定義付けしているのかを考えると、それはある“何か”を知るためです。
それは自分の中でまだ全てを知らない意識が存在しており、その “知りたい”という欲求を自分が許しているからだと思っております。
つまりまだ知らない人間というのが私の正体であり、“知る”ということが不足しており完全ではない存在というのを自分に定義している状態になると思っております。
ですから、私がこの掲示板において投稿をしている時点で、いろいろな面で私は自分が自己矛盾を起こしていることは充分に自覚しているつもりです。
ただ私がもし、自分の態度によって真に自分を“完全なもの”として定義付けできるとすれば、私は消えて存在すらしなくなると考えており、それは存在という分離したある意味での不調和状態から、完全なる調和状態へとなるものだと考えております。
ですから、完全ということを真に態度で自己定義することは、よほどのことだとは思います(できる要素はあると思っております)が、今の私は完全というものに向かう指向であり、自分にそれを定義している最中なのだと考えております。
「価値意識の持たない生き方」や「犠牲者意識を感じない生き方」を書いてはおりますが、それも同じ“完全”へと向かう指向性のものだと思っております。
ただ、それらの生き方に沿わない態度や行動をしてしまっているとしても、それをしている自分を許さないとか、深刻になって罪悪感を感じてしまったりとかをしない人間で在りたいとは、常に意識はしております。それをしてしまうと皆さんがご指摘されるような真逆の方向性の結果を生み出すことになると思っているからです。(それは例えば平和にしようと考え戦争をしていくようなものなのでしょう。)
その点については常に心掛けながら、自分の思考を制限し抑圧しないように「これが今の俺なんだ」くらいにしか考えてはおらず、自分に正直に行動してはいるつもりです。
また暇ラヤ山脈さんのように気のきいたことを織り交ぜてはいないので、少し堅い表現になってしまったかもしれませんね。