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(回答先: 人間(現存在)の状況(世界)に対する関わりについて【如往さんへ】 投稿者 風のように 日時 2005 年 4 月 25 日 23:58:58)
風のようにさん、レスをありがとうございます。
最初に訂正ですが、本文中のObsessionは脅迫観念ではなくて強迫観念のことです。誤記をお詫びします。ただ、何故それを“犠牲者意識”と呼称されるのか、“被害者意識”との相違について、解説していただければ嬉しく思います。“犠牲者”ならば対象がかなり特定され得ると想いますが、“被害者”の場合は不特定多数あるいは対象を持たない極内的な心象風景ということになるでしょう。おそらく原初的不安のことを指示されているのではと勝手に当て推量をしています。それとも“犠牲者意識”には 風のようにさんにとって何か特別な想い入れがあるのでしょうか。(しつこくして、スイマセン。)
ところで、風のようにさんが、キルケゴールからヤスパース、そして特にハイデガーを相当に読み込まれているのが判りました。
そこで、キルケゴールでは神との決別を契機とする不安、ヤスパースならば限界状況に晒されることの不安、ハイデガーでは被投性を取り巻く不安、サルトルでは被投性を根源とする不安ということになるのでしょうか。生半可にマルクス主義を称揚したことは問題視されますが、人間存在がかかる原初的不安に立ち向っていくプロセスを最も具体的に描いて見せたのがサルトルでしょう。サルトルには自由という光明があるのにたいし、不可逆性つまり死から遡行して現存在を捉え直そうとするハイデガーにはなぜかニヒルなものが漂います。
>私は現存在(人間)が、否応なくこの世界に投げ出される被投性というものに対しては、違う立場の考え方です。つまり「否応なく」ではなく「率先して」この世に自らを投げ出してきたと考えております。(もちろんそれが絶対的な真理であるとは思ってはおりませんが)それは、この世界に存在する全ては、本質である思考から作り出された実存だと考えているからであり、つまり思考を作り出す意識が、実存として自らを表現し現実に投企(想像・選択)する為に存在していると考えているからです。それは人間(現存在)も含めた全てです。また鉱物や火や大気や水や人工物等も含めて、全ての物質は意識ある思考エネルギーからできていると私は考えております。それは意識から生み出された思考エネルギーが時間という概念の中で固まりながら原子と電子を自ら“動かして” 物質として存在しているのだと考えております。この世界全ての意識ある総体が、自らを知り体験する為に分離し、思考エネルギーの振動数を遅くさせ時間と空間というものを作り出し未知を既知にするために物質という道具を使用し、現実を想像し体験しているものだと私は考えております。ですから私は、実存としての人間(現存在)は、「率先して」この世界を体験するために自らを肉体という物質の中に投げ出してきているという立場です。
>私は人間(現存在)も物質であり、本質という思考から想像された実存であるのなら、その生命の死の期限については思考の範囲内で永久的な継続性を維持できるものと考えております。
この辺に至ると何やら禁断の領域に分け入るようで考察者kさんが極一般的な危機意識を発動したことが朧気に理解できるような気がします。かかる風のようにさんの認識は信仰に近いもので、逆立的発想を共有しないかぎり理解が及ばないことでしょう。総てを網羅している訳ではありませんが、書棚にはケン・ウィルバーやスタニスラフ・グロフ等の所謂ニュ−エイジ系の著作が相当数あり、15,6年前には関連著書を貪り読んでみたり、エサレン・メソッドやその他のワーク・ショップを体験した記憶があります。
中でもシュリ・ラマナ・マハリシの『「自己」に到達することなどありえない。「自己」が到達するものだとすれば、その「自己」は今ここになく、いつか獲得されるものであることを意味する。新たに得られるものはまた失われもする。つまり、それは永遠のものではない。永遠でないものは努力して求めるに値しない。だから、自己は到達されないと私は言うのだ。あなたが自己なのである。あなたはすでに<それ>なのだ。』は今でも印象に新しく個人的には好きな一節です。ただ、私自身はトランスパーソナル心理学やホリスティック医学の分野から遠ざかって大分久しいものがあります。
>犠牲者意識を感じなくする方法については、犠牲者意識を感じている自分の中の不快な意識(怒り・不安・恐怖)を探り出し、その感情と結びついている“何か”に執着する意識を探り出し、それを克服することだと思っております。そしてそれを克服すれば、自分が作り出した現実を変えるための行動する為の道筋を確固たるものとして導き出すことができるものと思っております。
ご紹介のスレには克服法や風のようにさんが克服された経過が詳らかにされていないと感じましたので、質問させていただいたような次第です。執着する意識に対峙しそれを克服(払拭)するにはどんな鍛錬あるいは修行が必要なのでしょうか。
私は風のようにさんを中心にした交信をロムしながら、ひょっとしたら風のようにさんは“天上天下唯我独尊”の境地にあって、その模様を語っているのではないかと想像していました。“天上天下唯我独尊”が傍若無人の態度や単なる個人主義を言い表したものでないことはご周知の通りです。寧ろ大悟に至る出発点として最も原点的な覚醒の状態を叙述したものだと謂えるでしょう。
もう少し克明に語らなければいけないと思いつつも、取り留めないことのみで十分に言葉を尽くせず反省ばかりが思い立ちます。
また、会いましょう。