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(回答先: 風のようにさんへ , も少し話を聞かせてください 投稿者 SWAN 日時 2005 年 4 月 24 日 03:11:29)
SWANさん、レスありがとうございます。
▼SWANさん
【風のようにさん、あなたが仰られている「被害者意識の脱却」は、それとは違うように感じて
います。しかし、Kさんが語られる「現実」が持っている(あるいは持っていると思わされる)
「恐怖感」これもまた多くの人に共通するものではないでしょうか。風のようにさんが、生まれ
ついてから「被害者意識」を脱却されていたわけではないとすれば、その脱却を獲得されるまで
の過程で、何かしら内的感情の変化があったのだろうと思います。風のようにさんは「被害者意
識」をどのようにして脱却されたのか、「恐怖感」をどのように脱却されたのか、そのあたりの
過程を説明していただければ、あなたがされたご提案もよりわかりやすくなるのではないかと私
は思います。少なくとも私はぜひお聞きしたいと思います。「被害者意識」の脱却から、あなた
の仰る「個人主義」(これも従来の意味合いとは違っていると思いました)へ転換することが
「生きること」「食べること」の感覚を劇的に変化させるのだとしたらなお更です!その時の
あなたの感覚の変化を、どうか差し支えない範囲で、具体的に教えてください。】
私の体験した遠い「過去」は、もう自分の中から捨ててしまっているので詳細は避けますが、誰しもが「恐怖感」を感じることはあると思います。
「自分や愛する妻や子供が死ぬのが怖い。」「自分の財産すべてを失うのが怖い。」「地位を失うのが怖い」「人に嫌われるのが怖い」「体を酷使するのが怖い」「やくざに脅されるのが怖い」「詐欺に合うのが怖い」「洗脳されるのが怖い」「病気になるのが怖い」「未知を体験するのが怖い」・・・等々、私は小さな事から大きな事まで、色々な「恐怖感」を体験し、体感してきたつもりです。
その時々の「恐怖感」は私の足を現状維持に思いとどまらせ、次に進もうとする未知なる冒険の扉を閉じ、自分を苦痛と窮屈さの中に押し込めようとしてきました。そしてその窮屈さは自分の限界までくると、反動で大きく爆発します。私はそれを何度も体験しました。「もうどうにでもなれ」と感情とともに爆発し「恐怖感」を吹き飛ばし、するとその先に進む道がだんだんと見えてきます。
「なぜ恐怖感を感じる必要があるのだろうか」
私は、自分を束縛しているこの恐怖感というものに思いを巡らしました。
人間は自分の生命を守ろうとするため、自己防衛の手段として「恐怖感」というものを身体に体感させ、意識に働きかけます。そしてその自己防衛反応は、自らの生命に留まらず、その周りにあるもの、そして自分が所有する全てを防衛しようと拡大していくのです。
つまり人間の所有欲と執着心と結びつき、物を掻き集めるごとにその「恐怖感」が増していく悪循環を生み出しているのだと私は気付きました。
所有する(幸せ)と恐怖感(不幸せ)が表裏一体のものとなって押し寄せてきます。そして、そののり付けをしているのが執着心です。
つまり「恐怖感」とは、自分の執着したいという“何か”を失うことに反応する感情です。
私はその時々に起こる「恐怖感」を非常に大切にし、常に注意深く観察しました。
「恐怖感とは、私の体のどこの部分で感じているのだろう」「何に対する恐怖なのだろう」そして「私は何に執着しているのだろう」
常に「恐怖感」を感じた時にその元となっている執着する“何か”を探しだし、それを克服することに努めました。それは言葉では簡単ですが、執着心という巨大な化け物との壮絶なる戦いです。
「嫌な仕事を断れば、もう割りのいい仕事は回してもらえないかもしれない」「相手の要求を受け入れなければ、脅され殺されるかもしれない」「これが売れないと会社は倒産するかもしれない」・・・等々
勿論、その時々の決断には自分なりの誠意ある対応を心掛けますが、自分に執着心があると前には踏み込めません。
そして私が「もうすべての執着意識を完全に心から無くそう」と覚悟を決めたとき、身体に感じていた“重り”が全てとれたように感じ、体が軽くなったのです。それはまさしく感情(恐怖)という名のエネルギーである“重り”から解放され自由になった瞬間です。
そして私はその時から自分の思い通りに生き、そして以前では手に入れることができなかったものをすぐに手に入れていることに気付きました。「生きること」「食べること」に執着しなくなたとき、それは自由に「生きること」「食べること」ができるようになったのです。
それはもう何も私の思考を束縛するものがない状態になったのだと私は思いました。
以上、とりあえず「恐怖感」についての私の脱却した流れを簡潔に書いておりますが、「犠牲者意識」については「執着心」や「恐怖感」が無くなれば、「犠牲者意識」の脱却は容易なものです。
また「犠牲者意識」を無くすことは、自分の思考を束縛せず、解放することには欠かせない要素だと思っております。
よく自分の願望は実現すると言われますが、実現するためには自分の思考が選択する態度を明らかにしなければならないと思っております。
例えば「自分は幸せになりたい」と願っていても、犠牲者意識により他へ依存する気持ちが強くなり「自分の外側が変わらなければ自分は幸せになれない」と定義することになり、それは「自分の力では自分を幸せにはできない」つまり「自分には願望を叶える力はない」と定義していることになります。
犠牲者意識の強い人がよく言うのは、「なぜ自分は幸せになれないのだろう」、そして「そうか世界は不公平にできているのだ。政府のバカヤロウ!会社のバカヤロウ!金持ちのバカヤロウ!」
それは、「執着」→「不安・恐怖」→「犠牲者意識」→「不平不満」→「嫉み」というマイナス思考の連鎖へと繋がっていくものだと私は思っております。
▼SWANさん
【あなたが最初に提案された「価値観を離れる」ことは、私にはよくわかりませんでした。
一切の「価値観」を捨て去ってしまえば、後に残るのは無味乾燥な事物でしかないのではないか
と思ってしまいます。もちろん「価値観」を捨て去るふりをすることはできるでしょう。しかし
実際にはありえないことだとしか思えません。】
「価値判断」(価値観)を完全に捨て去る事は、非常に難しいことです。
「価値判断」というのは、ある物事を見た場合に起きる思考をあるカテゴリーに嵌め込み、その思考を変質してしまうものだと思っております。
「価値判断」は、教育や生活環境等の過去からの蓄積された変質した思考であり、物事の「ただ存在する」という「中立さ」「純粋さ」「公平さ」を変質させるものであり、そして「思い込み」「先入観」「固定観念」という自分の思考を制限するものだと思っております。
また思考を制限すると、素直に物事を「知る」ことはできなくなり、新しい視野を獲得できなくなるとも思っております。
ある物事を「正しい」と判断すると、それは「間違っている」(正しくない)というものが存在することになり、物事を「ただ存在する」ということを許さないことになります。
現在の社会は、価値判断をする社会です。肌の色、国、宗教、行動、意見、車、収入、地位、異性・・と、常に価値判断をしていかなければならない社会です。
そしてそれらの存在性を偏屈させ、分離が置き、悲しみや怒りや恐れや焦りが生まれてくるのだと思います。
それは「犠牲者意識」を自らが許してしまう要因にもなっているものです。
価値判断を下さない社会とは、その物事の存在性を誰からも価値判断を下されない、自由な思考の自由な行動が許される状況を許すことができる社会だと思っております。
貴方の言われるように「価値判断」を無くす生き方とは、無味乾燥な状態へと突き進むと思われるかもしれませんが、私はその物事の純粋性の幅が増し、すべてを安らぎや調和の中で純粋に触れる、愛することができるものと思っております。
物事に価値判断を下さなくなると、「正しい―間違っている」「完全―不完全」「良い―悪い」といったものは無くなり、生命の「存在性」と絶え間ない「継続性」という瞬間の美がそこに存在してくるのだと私は思っております。
▼SWANさん
【あなたが相対化されている「善と悪」「正と邪」においても、私はそこまで相対化できませ
ん。私はやはり何かしら絶対的な基準というもの(かなり漠然として、範囲の広いものだが)、
があるように感じています。私は、それを「天の理」と勝手に名づけています。それに沿って
生きれば「快適である」し「うまく」生きられる。ただなかなか見えてこないのが困りもので
すが。まあ、そんなものを信じられるのは「ご自由です」と仰られれば、それまでですがね。(笑)】
私は万人に通ずる人生はこうだとか、「天の理」はこうだとかを言うつもりはありませんし、それは無いと思っております。
人がどのように生きても、何を基準に行動しても、それは間違っているとは思ってはおりません。
ただ私的には、この世界には「しなければならない事は何も無い」と思っているだけです。快適である必要もなく、うまく生きる必要もない、「ただ存在する」ということをしている生命があるだけだと思っております。
そして「天の理」は、どこか違う場所から違う存在によって与えられるものではなく、自分の内側からそれを見出し、それを行動することだとも思っております。
▼SWANさん
【広瀬隆さんの一連の著作から始まった私の「陰謀論」への旅は、ここへきて正直どうでも
よくなってしまいました。国際金融家、「彼ら」、イルミナティ、「学会」「朝鮮人」、メーソ
ン、etc・・・・。それらの陰謀はあるのかもしれないし、幻想なのかもしれない。どちらに
しても私が私であることに何の変化もありません。肝心なのは自分がどう生きたいか。それだ
けだからです。】
私は貴方の「私が私である」という考え方に、非常に共通したものを感じます。