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(回答先: 風のようにさんへ , も少し話を聞かせてください 投稿者 SWAN 日時 2005 年 4 月 24 日 03:11:29)
>SWANさん どうもです。
かなり正しい分析だと思います。Kは多角的思考であり得る可能性を色々考えてしまいましたが、最終的には「心の持ち方論」と思いました。
で、これは言い換えれば一種の宗教的な思考だろうと思います。
「神は人に試練を与えるが、決して耐えきれない試練を与える事はない。」という意味の思考ですね。
続きが知りたいのは好奇心的に当然とも思いますが、宗教系(宗教として体をなしていない物も含む)は惹かれる事があるのです。
知識・考え方を知る事は良い事ですが、裏付けのない信仰的な事だけは別です。
そこに引き込まれると「常識も現実も論理性も因果律も科学的」も通用しません。同意する同意しないの世界が待っている訳です。
それを受け入れるのは個人の自由ですが、多くの人が信じる事は現実社会においては「単に危険なだけ」でしょう。
個人的な解決策で済むような問題でしたら、それでも良いのかもしれません。
しかし、今回は現実的な問題をただ個人的に回避する為の方法論です。一人が逃避しても何の解決にも繋がらないですし(個人的には解決するのでしょうが)、逆に回りの人は「その個人が壊れた」事によって、状況の悪化が予想されるばかりか、将来への期待感も少なくなる事になります。
議会制民主主義においては同じ方向の思考をする人が減るのは将来的な要求実現を遠ざける事ですし、不満という感情を麻痺させた労働者が喜んで仕事をするようになったら、他の労働者が迷惑するのです。
結果的に企業や組織を利するのですが、それだけでなく「その思考を受け入れられない人達に絶望感を与える」事になる訳です。
無痛症という病気があると聞いています。痛覚は必要な感覚ですから、無痛症の人が血を出すとそれに気付かず出血多量で死に至る可能性は高くなります。痛覚は様々な状況下で邪魔だと思う事があるでしょうが、人間である限り「必要」なのでしょう。
「不満という感覚を誤魔化すか、飲み込むかは別にして」何も言わずに「過労死・過労自殺に走る者がいる」現実がある事が事実なのです。
知的好奇心を求める事を他人に干渉されるいわれはない。というのは当然ですし、Kもそれは正しいと思います。
それを認めた上であえて「危険」だと忠告させて頂きます。