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(回答先: 人間は誰しも見えない鎖に繋がれています。 投稿者 考察者K 日時 2005 年 4 月 23 日 21:40:06)
>人事を尽くすとは全てを投げ打ってそれに集中したとの意味合いが高い
残念ながら、たけ(tk)の言っている所の「人事」や「天命」はそんなに高尚なものではありません。
「隗(かい)より始めよ」というコトバがありますが、極個人的なことから始めるべきだということです。
もっとも原初的な「天命」は「息をすること」であろう、と考えています。「息をすること」の天命に人事を尽くすと、身体と身体のまわりの物理的状況が見えてきます。身体の痛みや欲望や、物的状況での問題点(電灯が切れている)などが見えてきます。
身体的状況の問題点を解決するという「天命」に人事を尽くすと、自分を取り巻く他人の存在が見えてきます。他人との人間関係の問題点も見えてきます。
身近な他人との間の人間関係の問題を解決するという「天命」に人事を尽くすと、他者が彼自身のなかで抱えている問題も見えてきます。
他者が抱えている問題を解決するという「天命」に人事を尽くすと、社会の中で自分が置かれている位置が見えてきます。社会的な問題も見えてきます。
社会が抱えている問題を解決するという「天命」は、社会自体の問題の認識と、自分が置かれている場所でなしうることという両方の要素で決まっています。最初から大きな社会問題を解決するというのは天命ではありません。自分がなしうる小さな社会問題を自分がなしうる範囲で解決していくというのが天命です。
自分が解決可能な小さな社会問題を解決するという天命に人事を尽くせば、もう少し大きな問題を解決するめどもみえてくるので、それが新たな天命となる。ということです。
>人間は誰でも見えない鎖に繋がれています・・自分が人事を尽くす事で「仲間に迷惑を掛けるかもしれません」し「家族に心配をさせるかもしれません」
というのは、自分が置かれている状況の認識でしょう。天命は自分が置かれている状況の認識から出てきます。自分の状況を前提として天命を知ることしかできません。
* 状況を離れた「天命」は妄想でしかありません。
「見えない鎖に繋がれて」いるという状況認識は、正しいのでしょうか? 思いこみに過ぎないのではないでしょうか? 「隗より始めよ」で小さな天命から始めたときでも迷惑がかかるのでしょうか?
そういったことも、実際に人事を尽くしてみなければ分からないのではないでしょうか?
本当に迷惑がかかり、有害無益であると分かれば、別の天命・方法を工夫する必要があるでしょう。これも「次の天命が見えてくる」ということの一つです。
>会社に不満ならば「他人をあてにせず。自分がまず改善の努力をするべきだ」と言うのは外部から無責任に投げかける意見です。
これは、自分の状況の全体を誤解しているときに問題が生じます。自分の状況は会社だけではない。人間として人々の中で生きているという状況の中では、会社というのは、状況の一部でしかありません。
「他人をあてにせず。自分がまず改善の努力をするべきだ」というのは、とりあえず一つの天命なので、人事を尽くしてみればよい。そうすれば次の天命が見えてくる。すなわち、不条理な会社の要求に応えるのは、天命ではない、会社の要求を拒否するのが天命である、という次の天命が見えてくるかもしれない。逆に、更に会社の要求に応えていくことが天命として見えてくるかもしれない。これも、人事を尽くしてみなければ見えてこない。
>「人事を尽くす事」とか「努力を惜しまない人」を無条件に褒め称えるという「憑き物」が存在します。
人事を尽くすというのは、あくまでも自分の問題です。自分が状況を認識し、自分が状況の問題を捜し出し、自分が工夫し、自分が実験してみて、自分がその結果を評価する、ということです。
「人事を尽くす」という賞賛に躍らされるのは、人事を尽くしていることではなく、操らされているだけだということです。