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(回答先: 人事を尽くせば、次の天命が見えてくる。尽くさなければ犠牲者意識にとらわれる 投稿者 たけ(tk) 日時 2005 年 4 月 23 日 14:19:20)
>たけ(tk)さん お久しぶりです。
なんかKが一人強情張っているようで気が引けるのですが、反論しておきます。
「人事を尽くす」事が正解か?を考察してみて下さい。
人間は誰でも見えない鎖に繋がれています。本当の意味で「人事を尽くす事は困難」だろうとKは思います。自分が人事を尽くす事で「仲間に迷惑を掛けるかもしれません」し「家族に心配をさせるかもしれません」
人事を尽くすとは全てを投げ打ってそれに集中したとの意味合いが高いと思いますが、見えない鎖が邪魔をして不本意な人事の尽くしかたしかできない可能性は多くなります。
そもそも、何故人事を尽くさねばならないのでしょう?
今回の議論の争点は「犠牲者意識を無くそう」です。全ては犠牲者意識を持った人の「怠慢」に原因の一因がある。というのが論旨だろうとKは思っています。
Kは「企業論理」対「個人」に考察を誘導していますが、違う意味での「犠牲者意識」もあり得るとは考えています。
例えば、遭難した登山者が「自力脱出を試みて、死亡」という出来事があったとします。
「趣味で登山した者に同情の余地無し」という意見があるでしょう。
しかし「その登山は先の登山遭難者の救助のための登山」だったらどうでしょう?
二重遭難したのは不幸なので仕方がないとして「自力で脱出を試みた行為」は人事を尽くすと言う意味合いの行為です。
じっとしていれば、救助に向かう段階から行動を把握していた地上部隊はかなり正確な位置を判断できますから、救助される可能性は高かったと思われます。
このような場合は「様子を見る」事が結果論的には正解だったのかもしれませんね。
極端な例である事は認めます。しかし、常に「人事を尽くす」事が正解とは言い切れないという事も考えられる訳です。
会社に不満ならば「他人をあてにせず。自分がまず改善の努力をするべきだ」と言うのは外部から無責任に投げかける意見です。
そのように考える人は、その人が「改善の努力の結果、会社を放逐され、失業の末に自殺」しても全く責任感を感じる事もなく「つまらない決断をしたもんだ、現実と理想の区別が判断できなかったようだ。自分がした行動の結果なので、この自殺は自己責任だ」と評価するのだとKは思っています。
「人事を尽くす事」とか「努力を惜しまない人」を無条件に褒め称えるという「憑き物」が存在します。
「組織」対「個人」では、個人にある勝ち目は圧倒的に少なく、ほぼ勝ち目などありはしないでしょう。
「神風特攻隊」を「勇気のある素晴らしい行為」だと思うか「末期症状の世界でも類を見ない愚行だ」と思うかは個人の自由ですが、素晴らしい行為と思う事によって「それを、行うべきだ」という主張は受け入れられません。
「犠牲者意識」を持つ人は仮にそれが「妄想であったとしても被害者」だとKは認定します。「被害妄想ならば治療をするのは本人であり、病気に掛かったのも本人の責任」でしょうか?
本当に「犠牲者」だとして「そうなったのは本人に改革意識が不足していた事が原因」でしょうか?
見て見ぬ振りをしていた回りには責任は無いのでしょうか?
そのような職場環境を作り出した者に責任はないのでしょうか?
もし仮にその職場で「過労自殺」が起こったとします。
真相は公平な第三者機関が調査でもしなければ解明できないでしょうが、起こってしまってからの解明では手遅れです。
起こる前に問題が起こりにくい体制を整えるべきでしょう。そんな体制は現在不十分でしょう。そんなものは「個人でなんとかなるものではありません」
それなのに「最終的には個人の決断力の無さに要因がある。人事を尽くすべきだった。」と言うのが正しいと思うのでしょうか?
生まれた時代や就職した会社などに対して「不満のある人が何故一方的にリスクを負う必要」があるのでしょうか?
「不満を解消する為になぜ、リスクがあるかもしれない『人事を尽くす』改善策を個人が行う必要」があるのでしょうか?