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(回答先: 「聖」性は未来時制の中(うち)に 投稿者 如往 日時 2005 年 7 月 25 日 23:19:41)
如往さん、どうもです。
唐突な次元観を突きつけた訳を補足します。
SF小説などでは、過ぎ去った場面を顧みて、そのターニングポイントで、もしも別の選択肢を取っていたら、今現在の状況はどうなっていたのだろうか?というテーマがよくあります。
それが非常に微妙で、些細な違いでも、時間の経過と共に一つずつ積み重なって、未来の世界が大きく違ってくるという事をifの世界で想像するものです。
そこには鏡同士を向け合った時のような、無限に連なるパラレルワールドが現れて、無限に、少しずつ違った自分自身が同時並行世界に存在している、というファンタジーですが、さすがに色々と無理があります。
その矛盾点については本題と外れますのでここでは言及しません。ただし、存在するとしてもそれは完全にこの世界とは隔絶された、閉じた、独立した、別世界であり、この世界において何一つ有用な物の無い、全く無意味、無関係な世界の考察であり、妄想と言う事になります。
そうではなく、おそらく存在する世界も時間も宇宙にひとつなのだろうと思います。それでも、その中にある無数のパラレルワールドを見出すことは不可能でしょうか?
それはそれぞれの次元や状態にある、異なる種別とその個別のことだと仮定します。
その時全ての並行世界が一つの世界の中で、同時存在でありながら、自分の過去と現在と未来の姿をも映し出している事になります。わざわざifの世界を空想せずとも、互いに我々は少しずつ違った自分自身を互いの中に見出す事が出来るという事になります。他のあらゆる生物、無機物ですら、少しずつ違った自分自身の成れの果てであります。
この事を踏まえ、我々は少しずつ違った自分自身として、その多様性を共に認め合えもすれば、融合も可能であり、過去現在未来という時間ですらが、並行世界として、同時存在しており、類推する観察法によって、ここに見て取ることが出来ると考えます。
一つの世界と時間の中にある、無限の並行世界とその時間。
故に過去、現、来世、あの世もこの世も、輪廻転生も、隔絶した別世界では無く、未知の世界でも無い。
全てこの世界にあるというわけです。見方によって。
>>こうして隣同士の世界が少しずつ違った世界を持っており、何百も離れた平行世界の想像することも出来ない程のおぞましい生物も、見方によっては一つの可能性としての自分の変形存在ともいえるのではないでしょうか。そして、平行世界である以上は同時存在なわけですから、定められている運命をそこに類推し得るといえるのではないかと思います
>世界がナノ宇宙のフラクタルな反映であるとする、所謂入れ子構造を持つという認識を敷衍したものと理解してよろしいのでしょうか。
上記の通りです。科学による視座では可視光の明かりの灯った部屋しか見えません(実証検証し得た物を根拠とする仮定までが限界)。それではもう対応出来ない、勝つ事が出来ない状況に、我々はおります。釈迦の手の平で暴れる孫悟空の様なものです。全てを経験、体験、実証しなければ前に進めない、知性ではもう役に立ちません。X、赤外、紫外線の目を持たなければと思います。それが類推。。。全てはこの世界に、現出しております。
>以前にも申し上げましたが、同心円の中心にワープするのはそれほど難しいことではないと思っています。しかし、それは最終的な方法であり、それまでには各人がそれぞれのプロセスにおいてまだまだ努むるべきことがあるのではないでしょうか。
ワープは望みません。過程を省略する所に「降伏(幸福)」の所以があるのでしょう。
科学の視座は自我の視座であり、可視光で見える範囲だけを見ているに過ぎない、客観を旨とする主観の視座ではないでしょうか。
対して
神の視座は大我の視座です。教義を与えられれば宗教ですが、その視座をこちらから類推、チューニングし、焦点を絞ってゆく事によって得られる絶対主観。
これに近づくことこそ、自我から離れた真の客観が不可欠かもしれません。
>私は日さんのように既視の体験をよく憶えていませんが、一つだけ思考の分岐点となった体験があります。その前提条件にはラマ−ズ法に似た方法で娘が誕生したときの臨場感があったと記憶しています。娘が10歳位になった頃に私は或る体験をする機会を得ました。どんな過程であったのか詳述はしませんが、一言で済まそうとすれば自分が自分を産む、すなわち私による私自身の出産体験と謂えるかも知れません。それから既に15年が経ちますが、多分そのときは娘の誕生の臨場感が下敷きとなり、かつ状況全体を支配していたと想われます。そして、それが今の自分の原点になっています。
自分が自分を産む、ですか。なんとなく。。。いや、やはりイメージは掴めません。
>私は「聖」性=普遍性は過去の遺構にあるものではなく、現在繰り返されているものの中に立ち顕われる、あるいは未来の時制の中に見出し得るものだと考えています。
上記並行世界が私なりのお応えという事で受けていただけますか?
>これは全くの私見によるものとお断りしておきますが、嘗て(『固有時との対話』や『転位のための十篇』において)吉本隆明が戦争終了時に見た「聖」性を共有することなどは到底叶わず、現状は「聖」性の顕現もその兆候すらもないと感じています。
彼の著作は遂に一冊も最後まで読み切れませんでした。埴谷雄高は好きでしたが。
それでも、阿修羅においては、愚民党さんこそは唯一「聖」性に触れた人ではないかと思っています。
>とても興味のあるお方です。
>また、会いましょう
はい