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(回答先: 訂正(可能な限りのレス本文について) 投稿者 日 日時 2005 年 7 月 24 日 11:30:42)
日さん、こんにちは。
>唐突ですが、私の次元観です。
>この3次元時空連続体。即ち4次元空間には相対的な1、2次元が同時に存在しているものと考えられます。例えば蟻は人に比べ二次元空間の生物といえるでしょう。人の手を近づけても直前まで視認出来ない様であり、そこから推し量れば多分天体観察する視力も持たない。又、細菌、微生物も同様に二次元空間に生きる存在と言えるでしょう。彼らの一生は人の一生と比べれば瞬きの一瞬。しかし彼らの時間ではどうでしょうか?
次元に関する物理学的・数学的な概念を傍らにおきまして、我々人間の存在様態が4次元的な感覚受容体であることには肯けます。ただし、それは生物の位相を表象するものであり、3次元的・2次元的な感覚受容体の世界を殊更に隔絶させるものではないと捉えています。
>つまりこの3次元時空連続体とは、個々の生物によってその空間も時間も実は別々のものでありつつ、同時進行で進んでいる平行世界といえます。これは何を意味するか?それぞれの生命体にとっての時空が別に存在すると考えられます。物質にも同様のことが言えます。固体、液体、気体、プラズマと物質はその姿を変え、その時空を別にすることが可能です。
時空共に生物が個々に専有するが故に別々のものであると解釈していますが、世界はまた感覚受容体の総合であるといった側面を有すると考えています。
>つまり、その平行世界とは、輪廻転生して行く世界と今は理解したつもりでおります。生前生きていたその者の本性が来世生まれ変わる生物の次元を決めるのです。それも平行世界。虫けらに変化する時、それは何億匹にも分化され、もしくはその複合本性によって、ある部分は家畜数頭となり、ある部分は虫けら数万匹となり、生前の自我は解体され、2度と復活しません。その逆に、数人の人が合体し、超人、もしくはプラズマ生命体、もしくは神の子が誕生するかも知れません。それは過去の自我の記憶を有する大いなる自我として存在するでしょう。
この辺のことは私にはよく解かりません。総じて2次元的な感覚受容体が3次元的・4次元的な感覚受容体へと複雑化していったことは認めますが、不連続点に超えようとするときに前世的な係数(変数)がどの程度影響するのか想像がつきません。
>こうして隣同士の世界が少しずつ違った世界を持っており、何百も離れた平行世界の想像することも出来ない程のおぞましい生物も、見方によっては一つの可能性としての自分の変形存在ともいえるのではないでしょうか。そして、平行世界である以上は同時存在なわけですから、定められている運命をそこに類推し得るといえるのではないかと思います
世界がナノ宇宙のフラクタルな反映であるとする、所謂入れ子構造を持つという認識を敷衍したものと理解してよろしいのでしょうか。その点では少なくとも個々の生物から生命全体までがこの地球と一体であると言えると思います。
>天文学では宇宙が弦構造→泡構造だとする観察。物理学では紐宇宙→面宇宙へと推移しましたが、時間軸は別として、現在は4次元を超え、11次元が定説となりつつあります。4つの力の内、目に見える3次元(縦横高さ)の中で通用する重力世界+目に見えないミクロの世界の電磁力(4次元目)+核力2種の内の強い力(5次元目)+弱い力6種類(6〜11次元)ということのようです。重力を扱う一般相対性理論。素粒子を扱う量子力学。これを統一すべく生まれた大統一理論。更にこの両者時空を統一すべく、紐理論→超紐理論(面理論)→超重力理論と推移して11次元となって来たようです。一部26次元すら考えられ始められている現状のようです。
これを“次元”と規定することには異論があります、むしろ“位相”と措定すべきではないかと。5次元以上については規定の根拠を明確にしなければならないでしょう。
>しかし、この視座では宇宙一個を1DNA、もしくは生命体として捉えられず、世界を類推と言う雛型を通した考察【によって理解すする】方法を排除しているスタンスとするほかはないでしょう。そう、これでは限のない話になりそうです。学識で到達しようにも真理は遠退くばかり。実はこういうことではないでしょうか。神示によれば全てがこの世界に現出しており、誰でも雛形としての視点でそれは肉眼で確認できるとの事。つまりループしている。
以前にも申し上げましたが、同心円の中心にワープするのはそれほど難しいことではないと思っています。しかし、それは最終的な方法であり、それまでには各人がそれぞれのプロセスにおいてまだまだ努むるべきことがあるのではないでしょうか。
私は日さんのように既視の体験をよく憶えていませんが、一つだけ思考の分岐点となった体験があります。その前提条件にはラマ−ズ法に似た方法で娘が誕生したときの臨場感があったと記憶しています。娘が10歳位になった頃に私は或る体験をする機会を得ました。どんな過程であったのか詳述はしませんが、一言で済まそうとすれば自分が自分を産む、すなわち私による私自身の出産体験と謂えるかも知れません。それから既に15年が経ちますが、多分そのときは娘の誕生の臨場感が下敷きとなり、かつ状況全体を支配していたと想われます。そして、それが今の自分の原点になっています。
私は「聖」性=普遍性は過去の遺構にあるものではなく、現在繰り返されているものの中に立ち顕われる、あるいは未来の時制の中に見出し得るものだと考えています。これは全くの私見によるものとお断りしておきますが、嘗て(『固有時との対話』や『転位のための十篇』において)吉本隆明が戦争終了時に見た「聖」性を共有することなどは到底叶わず、現状は「聖」性の顕現もその兆候すらもないと感じています。それでも、阿修羅においては、愚民党さんこそは唯一「聖」性に触れた人ではないかと思っています。
また、会いましょう