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(回答先: Re: 恐らくは誤解であったのでしょう。 投稿者 日 日時 2005 年 7 月 17 日 00:51:11)
日さん、レスをありがとうございます。
少し時間が経ちましたが、これは本来、【Re: 分岐点を構成する差異。http://www.asyura2.com/0505/idletalk13/msg/1034.html投稿者 日 日時 2005 年 7 月 01 日】へのレスですが、ワヤクチャさんとの間で交わされている事柄にも少なからず関係するかも知れないと想い、こちらにレスさせていただきました。
さて、ご存知のように大衆を「俗」で集約することに成功したのが日本においては創価学会でしょう。数人いた創価学会員の学友ともよく討論をしましたが、聖なるものに関する彼等の探究は情けないほど底の浅いものでした。中にはエーリッヒ・フロムの翻訳本を愛読している人間がいて、その動機を問うと、池田大先生の推薦であるからという答えが返ってきました。池田大先生の著書はその多くが著名な哲学者や思想家達の言説の剽窃であることは当時からよく知られていました。しかし、それを金科玉条のように有り難がる信者達の心象風景は無惨なものに映ります。
経済的な活動領域のことならば、また10名程度の組織であったならば「俗」を軸にした統治も十分可能でしょう。しかし、政治的な活動領域のことや大組織になればなるほど「俗」による統制には限界があり、恐怖による統治といった歪んだものになリ得ます。そこでは命令と従属といったダイレクトな関係が浮き彫りになるだけでしょう。
けれども、個別的生に如何なる「聖」性があるのか私自身が見出しているわけではありません。Ethos(文化風土→気質)を縦糸にPathos(情念→ルサンチマン)を横糸に紡がれるのがConatus(自己保存力又は自己保存欲)の構造といった視座から、人間(生命体)が有するConatusの行方を思索していくなかでは、たとえ末期(まつご)には「人類の自己家畜化」といった現実が待ち受けているとしても、善くも悪しくもその顛末を受け容れるに他に術はないと想われるのです。つまり、我々にでき得るのは如何に創意工夫を重ねてそれに抗っていけるかというテーマにコミットすることであろうと思量されるのです。そして、その投企にこそ「聖」性の所在があるのではないかと想っています。
たとえ歴史的相対性の枠を出ないといった批判を免れ得なくとも、今日においても社会的にみて質の高い仕事や価値のある事業をしている個人や組織の在り方に「聖」性を見出すことは可能かも知れません。けれども、それを超えようとするような投企においては、さらに普遍的な「聖」性を必要とするでしょう。私はAnarcho capitalismもしくはAssociate socialismにその可能性を見ていますが、遺憾ながら指導理念もその「聖」性の外貌についても公言ができるほどに整序がついてはおりません。
日さんが私を信頼することにおいて慎重なように、私も日さんの意図がどんなものか量りかねています。しかし、現状はそれを致し方がないことだと受けとめていますが、おそらく日さんも同じような心境にあるでしょう。私は、相手が意図しているものを捉えようとするのは、そう欲した側の本来的な責務と心得ています。そして、Ethosによるものか、Pathosによるものか、意図に纏わるその人に固有な発意の原因が明らかになって初めて、Associateとして、時には Comradesとして認め合うことができると考えています。
けれども、ここ阿修羅に関わった当初から変わらぬ個人的な理由にも重なりますが、もう一つのプロセスがあることも認識しています。その前提には、第一に事象を如何に俯瞰的視点から捉えられるか、第二に如何に具体的に問題点を析出できるか、第三に如何に実効性のあるAlternativesを創出できるかについて粘り強く探究していく志向性があるでしょう。つまり、斯かる思惟過程(意識)の対象化を通じ、如何に事象を俯瞰して捉えられるかと問い返しつつ、相互の問題意識間に架橋し共にヴィジョン・クエストしていく中で信頼関係を築いていくことだと思うのです。
翻ってみますと、人間の(政治的)行動を生態学的に俯瞰することは我々に重要な視座を与えていることでしょう。20世紀末には人間は宇宙から地球を俯瞰するまでに科学技術を発展させたのですから、人類はこの成果を自己制御のための気づきの梃子として大いに用いるべきではないかと思っています。
以前にも提示しましたように、現時点では私は実存主義的アプローチに基づいて当為を重ねていこうと考えています。実存を構成するder Entwurf(企投性)において、何らかのdas Merkmal(道標)を必要とすることは言下を待たないと思います。けれども、それを現実に見出すことはこれもまた至難の業です。晩年のハイデガーはそれをdie Heimat(故郷)の概念に見出そうとしましたが、私は“地球というMatrix”と措定しています。
しかしながら、Driving forceには「聖」性が必要であるとの認識には変わりありません。少なくともGesellschaft(協業体)においてAssociate socialismを実現していこうとする場合も同様ですし、やがてそれが拡大・進展していくならば現キャピタリズムとの軋轢が生じるのは必定です。そのときにこそConatusを導くべき駆動力にとって必ずや「聖」性は重要なものになるだろうと確信に近いものがありますが、既成の宗教や指導原理に依らず「聖」性の在り処を求めていくことは想いの外難事業です。
そこで、日さんが構想・実践されていることの開陳が難しいのであれば、せめてこの「聖」性について、いつかどこかで、できればここ阿修羅で語っていただければと望んでいます。
また、会いましょう。