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(回答先: 議論が平行線、膠着状態に陥る根本原因とは? 投稿者 日 日時 2005 年 7 月 01 日 01:36:13)
日さん、レスありがとうございます。
Kさんと私では、
Kさんが闘争には参加せずに客観的に勝利する闘争方針を考えようとするのに対して
私は闘争に参加しようとする事です。
正しい闘争であれば例え処分などの苦しい局面はあったとしても充分アピールでできるのであれば成果と考えるという所でしょう。
謂わば、一見敗北のように見える闘争にも戦略的勝利というものはあるのではないか?という立場です。
>議論が平行線、膠着状態に陥る根本原因とは?
>http://www.asyura2.com/0505/idletalk13/msg/1026.html
>投稿者 日 日時 2005 年 7 月 01 日 01:36:13: IR1H95zbmUf8k
>(回答先: 皆さん、色々お世話になりましたm(__)m 投稿者 考察者K 日時 2005 >年 6 月 30 日 22:10:25)
>議論が平行線のまま終わろうとも、これほど忍耐強くやり取りを残した両者の熱意>に、何とか応える事は出来ないだろうか?
ありがとうございます。
しかし、私はここまで対話ができただけでもよかったと思っております。
最初から対話の経過を振り返ってさらに考えたいとも思っております。
>議論が平行線、膠着状態に陥る根本原因とは?
>連帯のために、まずはそこに焦点を当て、それを解明しないと、全ての議論は底の抜>けたバケツです。
Kさんの力点は、大同団結をする為には手を組む相手が嫌がる主張を下ろすべきでは無いか?というものでした。
私は、相手が嫌がろうとこちらの重要な主張は取り下げるべきでは無く、取り下げないのであれば団結できないのであれば、そんな団結をムリしてすべきでは無いという事でした。
「首相の靖国神社参拝阻止」の大同団結の為に「君が代反対」を取り下げるぐらいならそれは戦略的後退になってしまうという事です。
「首相の靖国神社参拝阻止」は別にムリして大同団結せずとも別個に闘える課題です。
>お二人ですら、徒労に終わり、後味の悪い感情を残さなくてはならない、一歩も前に>進んだ成果を認められない、議論とはなんぞや?
私は成果があったと思います。
彼との合意はなりませんでしたが、論理の提示はできました。
>その骨子は
>@国家と言う枠組みとセットの、天皇制や君が代の廃止、又は拒否の自由の主張。
>Aその最終目的は戦争、搾取を生み出す国家、権力、支配からの解放、又は理想社会>の建設。
>Bその方法論に必要不可欠なのは、そこに住まう主体となる大衆の支持、協力。
>でした
>ABについては両者特に異論なし。
>にも拘らず@のアプローチがBの方法論にとって、相反する正逆効果を生み出すと言>う意見対立となっておられた。
>これはどちらかに誤りがあるか、もしくは@かBに問題があるということになるはず>です。
Kさんは多数派形成を一義的と捉えておいでのようでした。
私は多数派形成よりも根本的な主張をアピールする事に意義を感じております。
組織以前にどのような主張を世に問う事ができるのか?の方が大きいです。
思想闘争段階です。
組織拡大闘争以前の。
>しかし、あらゆる事象に共通することとして、1枚の紙の裏表の如く、2項対立は存>在します。
>どちらもその1枚の紙の裏表をそれぞれに言い表す限りにおいては一理あり、対立し>ます。両者の場合もそうでは無いでしょうか?
>ならばその1枚の紙を共通のスタートとする認識に遡り、そこを疑ってみたいと思い>ます。
>まさに問題はBにあり、そこの立脚点が行き止まりであることに起因しています。
>仮に、民衆の大多数の支持、協力は初めから望めないと言う認識に立ったとします。>それは民衆に絶望してのことではありません。無知無理解も多様性の顕れですし、そ>れが楽しくもあり、また素晴らしくもあるという民衆愛の上にある認識です。
>それはそうしたものであり、だからそれは未来永劫に叶わない幻想と割り切ると?
>日の丸、君が代、天皇制への否定は事象への表面反応であり、民衆の支持を期待して>の運動の末路が行き止まりであるということになり、そこをいくらがんばってみて>も、運動が民衆の多数派を形成することは土台出来ないという結論に達します。
>つまり、この一枚の紙自体の存在が幻想だと否定されるのでは?
>それがたとえどんな運動であっても多数派を民衆の中に形成することは余り意味があ
>りません。一時的で、すぐに崩れ去り、徒労であるばかりです。
その通りです。
小泉の靖国参拝阻止は出発点であり、それさえできればいいというものではありません。
その為にどのような陣形が準備できるのかが大きいのです。
「君が代反対」を下ろした大同団結であるのか
「君が代反対」も堅持した上での大同団結であるのか
はたまた、大同団結せず別個に闘うのか
>つまり、砂上の楼閣、幻想の民衆の多数支持を得るシステムを求めるのではなく、民>衆を正しく導くシステムを求める必要があると考えます。
同意します。
即自的大衆の意識に迎合する事無く、社会の根本問題を常に意識化しながら組織を拡大し闘争を行うという戦略です。
>確かにそこには独善、独裁のリスクが生ずるやも知れません。しかしこのままいつま>でもAを同じくする者同志が、いがみ合っていてはならない。
目的が同じであるのに闘争方針で意見が違うという事は日常茶飯事です。
我々はいかなる方針が正しいのかについて徹底論議する気風をつくり上げる必要があります。
>人と人との論争、対立は精神の闘いであるから、下手に心に傷を負ってしまうと相手>の主張は絶対に受け入れられなくなり、やがて肉体の闘いの準備が始められるだけ。
内ゲバですね。
しかし、議論が嵩じて、敵対する意見に対して肉体的抹殺にまで至る憎悪を生み出すという事が何故発生してしまうのか?について解明する必要がありますね。
Kさんや私がそうなっているという事ではもちろんありません。
>だから次元、波長の違うあらゆる人の目に触れる公開掲示板上の議論では、一定の線>引きをするしかない。
>それ以上の議論をするにはそれ相当の覚悟とルールをすり合わせた非公開の場が必要>なのだと思います。
私はそれには反対です。
議論は常にオープンにして議論の過程を万人に利用可能な状態にしておくべきだと思います。
>そこでは高熱の情報を出す事が出来ます。それはバーチャルな理念ではありません。>認めねば自らの身が火傷するしかない、リアルな、否定し得ない主張を超えた情報で>す。それを知ってから、人は考えを改めて纏め上げ、主張なら主張をして欲しいと願>っています。
公開的に徹底的に議論ができないのであれば
民主主義は停滞するでしょう。
私はあくまで公開論議の場でやっていきたいです。
同じ議論をしなくても過去の議論によって決着がついているのであればそれを採用する事ができます。
将棋で同じ棋譜であればどの次の一手が勝率が高かったかを知っている事が役に立つというのと同じです。
そのようにして人類全体として議論の成果を積み上げていくべきです。