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(回答先: 議論が平行線、膠着状態に陥る根本原因とは? 投稿者 日 日時 2005 年 7 月 01 日 01:36:13)
日さん、こんにちは、はじめまして。
今回のことに関し60年代に私達が共有したCredo(信条)の、「理論なき行動は死、行動なき理論は無。」(H.マルクーゼ)が想起されます。これは当時、理論の構築を念頭におきつつも行動を強調することで実存の意義を問おうとしたものですが、飽くまでも企投すなわちTrial(Action)を前提にするという共通認識がありました。
人間存在がdas Sein(現実的存在)とdas Dasein(実存への可能的な存在としての本質的存在)の二つの存在様態を有するとすれば、両者を分かつのは、如何に問題を自身に投げかけられたものとして受けとめられるか、如何に問題解決へ向けて主体的であろうとするか、すなわちder Entwurf(企投性)の所在によるのではないでしょうか。それによって、情況の捉え方や情況への関わり方が大きく違ってきます。ただし、こうしたことを私達が論じられるのは、本来的に左右の別なく「闘いはたった一人から始まるものだ」と自覚し、自らのdas Seinを賭してder Entwurfに向かったdas Daseinが存在した事実によることを忘れてはならないと思います。
>それがたとえどんな運動であっても多数派を民衆の中に形成することは余り意味がありません。一時的で、すぐに崩れ去り、徒労であるばかりです。 つまり、砂上の楼閣、幻想の民衆の多数支持を得るシステムを求めるのではなく、民衆を正しく導くシステムを求める必要があると考えます。
これはポピュリズムの限界を眺望した基本的認識として頷けるものですが、反面では前衛論をも否定しているようにも見受けられます。確かに、旧来の前衛論に屈することのない「民衆を正しく導くシステム」の構築こそは最も難事業ですが、少なくともワヤクチャさんは現代版シニシズムに陥ることなくそれに挑もうとされていると感じます。
>人と人との論争、対立は精神の闘いであるから、下手に心に傷を負ってしまうと相手の主張は絶対に受け入れられなくなり、やがて肉体の闘いの準備が始められるだけ。だから次元、波長の違うあらゆる人の目に触れる公開掲示板上の議論では、一定の線引きをするしかない。それ以上の議論をするにはそれ相当の覚悟とルールをすり合わせた非公開の場が必要なのだと思います。そこでは高熱の情報を出す事が出来ます。それはバーチャルな理念ではありません。認めねば自らの身が火傷するしかない、リアルな、否定し得ない主張を超えた情報です。それを知ってから、人は考えを改めて纏め上げ、主張なら主張をして欲しいと願っています。
つまり、日さんの提案の主旨はおそらく最後的な呼び掛けにも位置するような何らかの政治的・経済的な結社の設立にあると推察します。その点ではワヤクチャさんの主張を超えて尚も過激であり、それ故に切実なもののようにも映ります。しかし、それは日さんが聖なる処から俯瞰して考察した結果であると想像するに難しくはなく、素晴らしく符合する帰結であると思います。結社の設立には俗か聖かの何れかが必要条件になるでしょう。
さて、如何にder Entwurf(企投性)に実存の本義があると云っても、何らかのdas Merkmal(道標)ないしは聖なるバック・ボーンを必要とするのが、やはり人間に有り勝ちな心性でしょう。今のところ自身にder Entwurf(企投性)を見い出せぬが故に、考察者kさんはおそらく結社への参画には二の足を踏むことになるかも知れません。ワヤクチャさんは自身の体験を信じつつ反芻しながら、「民衆を正しく導くシステム」の構築の難事業に取り組み続けていくことでしょう。そして、当面はそれに同時並行的に随伴していくのが私の姿かも知れません。
また、会いましょう。